上野動物園における戦時猛獣処分
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「戦時猛獣処分」の記事における「上野動物園における戦時猛獣処分」の解説
東京都では大達茂雄東京都長官が、1943年8月16日に上野動物園などに対して猛獣の殺処分を発令した。これに従って上野動物園では、ゾウ、ライオン、トラ、クマ、ヒョウ、毒蛇などといった14種27頭が殺処分された。そのほとんどが餌に毒を混ぜての薬殺で、ほかにワイヤーロープを使った絞殺や餓死、刃物による処分の例もある。 前述のように、この処分命令はまったく唐突に発令されたものではなかった。約2年前の1941年(昭和16年)8月11日には、陸軍の指示に応えて、上野動物園が「動物園非常処置要綱」を作成し、空襲の危機が差し迫った場合の殺処分方針を決めていた。同要綱では飼育動物の危険度により、「第一種」であるクマ・ライオン・ゾウ・トラ等から、一番危険度の低い「第四種」カナリア・カメなどまでに分類していた。処置の時期については、「第一期の防空下令・第二期の空襲の時に処置の準備を完了させ、第三期の空襲による爆撃火災の危険近接したる時、近接の程度に応じて第一・第二種動物を順次処置し、更に危険のおよぶ時は第三種動物も順次処置す」と定められていた。飼育動物の収集には多大なコストがかかっており、再取得も困難であることから、軽率に殺処分すべきではないとの方針であった。処分方法としては、薬殺を第一義として投薬量も定め、予備的に銃殺とした。 処分に慎重な方針が転換され、猛獣に関しては予防的に殺処分を行うことになったのは、1943年(昭和18年)7月の大達茂雄の東京都長官就任後である。1か月以内に猛獣全頭を薬殺せよとの大達の命令は、同年8月16日に園長代理の福田三郎に下達された。対象となったのは「第一種」の危険動物とされた中でも半数強にあたる27頭で、うちヒョウ幼体(生後約半年)・アメリカバイソン2頭・ニシキヘビ・ガラガラヘビは8月20日以降に追加された。銃声による市民の不安を避けるために、銃殺ではなく硝酸ストリキニーネを用いての薬殺を主な手段とすることにした。秘密を厳守する為に飼育員の家族にも処分実施は口外禁止とされた。なお、特に気性が荒く危険と見られたゾウの「ジョン」に関しては、この処分命令よりも前の8月11日に、都の公園課長や福田園長代理らによって殺処分することが決められ、すでに13日から絶食状態とされていた。 殺処分の作業は、命令当日の閉園後から着手された。8月17日のホクマンヒグマとツキノワグマ各1頭の薬殺を初めに、9月1日までの間にゾウ1頭を含む24頭の殺処分が済んだ。ヒョウのハチも、この時に殺処分されたうちの1頭である。作業はほぼ連日であったが、解剖作業や後述の疎開検討の関係で休んだ日もある。多くは計画通りの薬殺であったが、毒餌を食べようとしなかったクロヒョウなどはワイヤーで絞殺、チョウセンクロクマは投薬のうえ槍で刺殺、生餌しか食べないために薬殺不能だったニシキヘビは刃物で頭部切断といった例外もある。その後、9月11日にゾウ1頭とヒョウ幼体1頭、9月23日にゾウ1頭が死亡して計14種・27頭の殺処分は終わった。 一連の殺処分の中で、3頭のインドゾウの処分は特に著名である。うち気性の荒い「ジョン」については、命令が下る以前の8月13日に餓死による殺処分が着手され、17日目の8月29日に餓死した。処分命令により、残る2頭も餓死の方法で殺処分されることになった。飼育係の菅谷吉一郎は、気性の荒いジョンは処分は仕方ないと思っていたが、気性が穏やかで性格も優しかった「トンキー」と「ワンリー」(別名「花子」)は何とか救ってやりたいと、福田園長代理に懇願したという。後述のように福田も、トンキー達を救う為に他の動物園への譲渡を検討したが、大達の反対で潰える事となった。ワンリーは9月11日、最後まで生き残ったトンキーも9月23日午前2時42分に餓死し、上野動物園のゾウは全滅した。トンキーの場合、実に絶食開始から30日という長き苦痛と苦悶に満ちた日々であった。空いた象舎は資材置き場となったが、後に4月13日の東京空襲で焼夷弾多数の直撃を受けて破壊された。 なお、ゾウの処分に餓死の方法が用いられた経緯について、当初は薬殺が試みられたと福田は回想している。福田によると、最初のジョンの場合、食欲を増すために絶食させたうえで、硝酸ストリキニーネを入れた毒入りジャガイモを与えたが、繊細なゾウには分かってしまい吐き出した。そのほかのゾウも同じように毒餌を受け付けなかったという。毒薬の注射も試みられたが厚い皮膚に針が刺さらず失敗し、やむなく餓死という苦渋の選択が取られたとする。これに対し、フレデリック・S・リッテン(Frederick S. Litten)は、薬殺の試行は無く、最初から餓死させる方針だったのではないかと主張している。福田の戦時中の日誌には、陸軍関係者が水に毒を混ぜてトンキーに飲ませようとしたことは書かれているが、毒餌については触れていない。また、毒薬注射に関しては、軍関係者がトンキーから採血を行ったことが記録されており、採血用の注射針が通るのだから毒薬注射も物理的に可能だったはずだと推測している。 殺処分命令が下った後、処分回避のための努力も行われていた。16日の命令伝達の際に、公園課長や福田園長代理らが疎開の可能性を話し合ったものとみられる。名古屋市の東山動物園と仙台市の仙台市動物園へ、前者にはヒョウ2頭・クロヒョウ2頭、後者にはゾウ1頭の引き受け要請の手紙が、園長代理名で発せられた。両動物園からは好意的な回答が寄せられ、鉄道の手配も進んだが、8月23日に大達都長官から疎開を中止せよとの指示があり、疎開計画は破談となった。そのほか、高松市の栗林公園動物園へのヒョウ幼体の譲渡計画や、大阪の天王寺動物園へのゾウ・マレーグマ引き受け照会、満州国の新京動物園からの爬虫類引き受け提案などがあったが、すべて実現しなかった。 上野動物園での戦時猛獣処分実施については、同年9月2日に公表された。報道などでは「時局捨身動物」と称された。9月4日に大達長官ら臨席で慰霊祭が執り行われたが、この時点ではゾウ2頭はいまだ絶食状態で生存していたため、象舎には鯨幕が張られて目隠しされた。動物の死体は陸軍獣医学校の協力も得て解剖され、剥製や晒し皮として標本に加工された。標本は1943年末までに出来上がり、1944年1月からライオン、ヒョウ、シロクマ各2頭、ヒグマ、トラ、野牛の剥製が展示された。ゾウ2頭の晒し皮は、陸軍被服本廠へと研究資材として提供された。 以上の逃亡予防のための戦時猛獣処分のほか、上野動物園では飼料の確保困難が原因で、飼育動物の殺処分による整理も実施された。上野動物園では太平洋戦争開戦前には飼料不足が顕在化しており、肉類代用としての魚類の使用、牧草代用としての街路樹の落ち葉使用などが進められていた。1941年(昭和16年)2月には、ヒマラヤグマ3頭とツキノワグマ1頭が整理のために射殺、ヤギなどが肉食獣の飼料に転用された。戦況の悪化とともに飼料事情もますます悪化し、1945年(昭和20年)にカバ2頭(京子・マル)が餓死により殺処分されたほか、鳥類多数が肉食獣の飼料に転用されてしまった。なお、飼料不足や空襲のストレスにより、オットセイやチンパンジーが栄養失調死している。暖房用の燃料不足も深刻で、熱帯産の動物では病気が多発した。飼育動物の減少により空いた施設では、人間の食肉用の家畜飼育がおこなわれた。 後に上野動物園での戦時猛獣処分実施については、当時園長代理の福田三郎により『動物園物語』として発表され、1957年には山本嘉次郎の監督により『象』と改題し映画化された。
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