上野動物園における戦時猛獣処分とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 上野動物園における戦時猛獣処分の意味・解説 

上野動物園における戦時猛獣処分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:44 UTC 版)

戦時猛獣処分」の記事における「上野動物園における戦時猛獣処分」の解説

東京都では大達茂雄東京都長官が、1943年8月16日上野動物園などに対して猛獣殺処分発令した。これに従って上野動物園では、ゾウライオントラクマヒョウ毒蛇などといった1427頭が殺処分された。そのほとんどが餌に毒を混ぜて薬殺で、ほかにワイヤーロープ使った絞殺餓死刃物による処分の例もある。 前述のように、この処分命令はまった唐突に発令されたものではなかった。約2年前の1941年昭和16年8月11日には、陸軍指示応えて上野動物園が「動物園非常処置要綱」を作成し空襲危機差し迫った場合殺処分方針決めていた。同要綱では飼育動物の危険度により、「第一種」であるクマ・ライオン・ゾウ・トラ等から、一番危険度の低い「第四種」カナリア・カメなどまでに分類していた。処置時期については、「第一期防空下令第二期空襲時に処置準備完了させ、第三期空襲による爆撃火災の危険近接したる時、近接程度に応じて第一第二種動物順次処置し、更に危険のおよぶ時は第三種動物順次処置す」と定められていた。飼育動物収集には多大なコストかかっており、再取得も困難であることから、軽率に殺処分すべきではないとの方針であった処分方法としては、薬殺第一義として投薬量も定め予備的に銃殺とした。 処分慎重な方針転換され猛獣に関して予防的に殺処分を行うことになったのは、1943年昭和18年7月大達茂雄東京都長官就任後である。1か月以内猛獣全頭を薬殺せよとの大達の命令は、同年8月16日園長代理福田三郎下達された。対象となったのは「第一種」の危険動物とされた中でも半数強にあたる27頭で、うちヒョウ幼体生後半年)・アメリカバイソン2頭・ニシキヘビ・ガラガラヘビは8月20日以降追加された。銃声による市民の不安を避けるために、銃殺ではなく硝酸ストリキニーネ用いて薬殺主な手段とすることにした。秘密厳守する為に飼育員家族にも処分実施口外禁止とされた。なお、特に気性荒く危険と見られゾウの「ジョンに関しては、この処分命令よりも前の8月11日に、都の公園課長福田園長代理らによって殺処分することが決められ、すでに13日から絶食態とされていた。 殺処分作業は、命令当日閉園後から着手された。8月17日のホクマンヒグマとツキノワグマ各1頭の薬殺初めに9月1日までの間にゾウ1頭を含む24頭の殺処分済んだヒョウハチも、この時に殺処分されたうちの1頭である。作業はほぼ連日であったが、解剖作業後述疎開検討の関係で休んだ日もある。多く計画通り薬殺であったが、毒餌を食べようとしなかったクロヒョウなどはワイヤー絞殺、チョウセンクロクマは投薬のうえ刺殺生餌しか食べないために薬殺不能だったニシキヘビ刃物頭部切断といった例外もある。その後9月11日ゾウ1頭とヒョウ幼体1頭、9月23日ゾウ1頭が死亡して14種・27頭の殺処分終わった一連の殺処分の中で、3頭のインドゾウ処分は特に著名である。うち気性の荒い「ジョン」については、命令が下る以前8月13日餓死による殺処分着手され17日目の8月29日餓死した処分命令により、残る2頭も餓死方法殺処分されることになった飼育係菅谷一郎は、気性の荒いジョン処分仕方ない思っていたが、気性が穏やかで性格優しかったトンキー」と「ワンリー」(別名「花子」)は何とか救ってやりたいと、福田園長代理懇願したという。後述のように福田も、トンキー達を救う為に他の動物園への譲渡検討したが、大達の反対潰える事となった。ワンリーは9月11日最後まで生き残ったトンキー9月23日午前2時42分に餓死し上野動物園ゾウ全滅したトンキー場合、実に絶食開始から30日という長き苦痛苦悶満ちた日々であった空いた象舎は資材置き場となったが、後に4月13日東京空襲焼夷弾多数直撃受けて破壊された。 なお、ゾウ処分餓死方法用いられ経緯について、当初薬殺試みられたと福田回想している。福田によると、最初ジョン場合食欲を増すために絶食させたうえで、硝酸ストリキニーネ入れた入りジャガイモ与えたが、繊細なゾウには分かってしまい吐き出したそのほかゾウ同じように毒餌を受け付けなかったという。毒薬注射試みられたが厚い皮膚に針が刺さらず失敗しやむなく餓死という苦渋の選択取られたとする。これに対しフレデリック・S・リッテンFrederick S. Litten)は、薬殺試行無く最初から餓死させる方針だったのではないか主張している。福田戦時中日誌には、陸軍関係者に毒を混ぜてトンキー飲ませようとしたことは書かれているが、毒餌については触れていない。また、毒薬注射に関しては、軍関係者トンキーから採血行ったことが記録されており、採血用の注射針が通るのだから毒薬注射物理的に可能だったはずだと推測している。 殺処分命令下った後、処分回避のための努力行われていた。16日命令伝達の際に、公園課長福田園長代理らが疎開可能性話し合ったものとみられる名古屋市東山動物園仙台市仙台市動物園へ、前者にはヒョウ2頭・クロヒョウ2頭、後者にはゾウ1頭の引き受け要請の手紙が、園長代理名で発せられた。両動物園からは好意的な回答寄せられ鉄道の手配も進んだが、8月23日に大達都長官から疎開中止せよとの指示があり、疎開計画破談となったそのほか高松市栗林公園動物園へのヒョウ幼体譲渡計画や、大阪天王寺動物園へのゾウ・マレーグマ引き受け照会満州国新京動物園からの爬虫類引き受け提案などがあったが、すべて実現しなかった。 上野動物園での戦時猛獣処分実施については、同年9月2日公表された。報道などでは「時局捨身動物」と称された。9月4日に大達長官臨席慰霊祭執り行われたが、この時点ではゾウ2頭はいまだ絶食状態で生存していたため、象舎には鯨幕張られ目隠しされた。動物死体陸軍獣医学校協力得て解剖され剥製晒し皮として標本加工された。標本1943年末までに出来上がり1944年1月からライオンヒョウシロクマ各2頭、ヒグマトラ野牛剥製展示された。ゾウ2頭の晒し皮は、陸軍被服本廠へと研究資材として提供された。 以上の逃亡予防のための戦時猛獣処分のほか、上野動物園では飼料確保困難が原因で、飼育動物殺処分による整理実施された。上野動物園では太平洋戦争開戦前には飼料不足が顕在化しており、肉類代用としての魚類使用牧草代用としての街路樹落ち葉使用などが進められていた。1941年昭和16年2月には、ヒマラヤグマ3頭とツキノワグマ1頭が整理のために射殺ヤギなどが肉食獣飼料転用された。戦況の悪化とともに飼料事情もますます悪化し1945年昭和20年)にカバ2頭(京子マル)が餓死により殺処分されたほか、鳥類多数肉食獣飼料転用されてしまった。なお、飼料不足や空襲ストレスにより、オットセイチンパンジー栄養失調死している。暖房用の燃料不足も深刻で、熱帯産の動物では病気多発した飼育動物減少により空いた施設では、人間食肉用家畜飼育がおこなわれた。 後に上野動物園での戦時猛獣処分実施については、当時園長代理福田三郎により『動物園物語』として発表され1957年には山本嘉次郎監督により『象』と改題し映画化された。

※この「上野動物園における戦時猛獣処分」の解説は、「戦時猛獣処分」の解説の一部です。
「上野動物園における戦時猛獣処分」を含む「戦時猛獣処分」の記事については、「戦時猛獣処分」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「上野動物園における戦時猛獣処分」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「上野動物園における戦時猛獣処分」の関連用語

上野動物園における戦時猛獣処分のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



上野動物園における戦時猛獣処分のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの戦時猛獣処分 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS