上野別館とは? わかりやすく解説

上野別館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 22:48 UTC 版)

国立科学博物館」の記事における「上野別館」の解説

関東大震災後本館建設されるまで、陳列物は竹の台陳列館移築した上野別館で展示された。 竹の台陳列館は元々は1907年上野開催された「東京勧業博覧会第二号館として建築され建物である。移築前は「竹の台」と称されていた帝室博物館付属地内現在の東京国立博物館前にある広場大噴水北西寄り付近にあった。 上野別館は木造平屋建の「ロ」の字をした建物であり、開館当初展示品交通機会土木建築海外資料に関するもの、その他(鉱物生理解剖標本)の資料構成されていた。 本館(現日本館)が完成するまでは上野別館で「全国学校科学教育展覧会1927年)」「産業教育展覧会1928年)」などの各種展覧会開催され本館竣工後は主要工業陳列などの常設展示倉庫として使用された。 1945年1月27日東京空襲の際に、別館脇で炸裂した爆弾爆風により事務室窓ガラス飛び標本150点が破損する1945年5月本館帝国学士院建物への類焼を防ぐために強制取り壊し対象となり、上野公園駐屯していた陸軍対空部隊によって展示物と共に北側部分取り壊された。 終戦後補修される事も無く不要陳列品倉庫代わりに使用されていたが、1949年11月28日降った強風影響で自然崩壊した八幡製鉄所模型 外輪船金比羅丸の主機関 ツチクジラ骨格標本 テレビジョン實験室 1936年高柳テレビジョン公開実験実施した際に開設された。 人形の家 1927年アメリカから送られ青い目の人形のうち、各州代表人48体と日本人形48体が陳列されていた。 人形の家1階和装2階には洋装になっており、庭園には1/5サイズシーソーブランコ配置1931年上野本館が完成した後も引き続き別館展示されていたが、1945年1月27日東京空襲の際にケースごと破損し、その殆どが行不明となった1988年全国10カ所のそごうデパート開催された「青い目の人形交流展」では行方不明になっていた代表人形のうちの1体が「ミス・アメリカ」として展示された。

※この「上野別館」の解説は、「国立科学博物館」の解説の一部です。
「上野別館」を含む「国立科学博物館」の記事については、「国立科学博物館」の概要を参照ください。

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