上野別館
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関東大震災後に本館が建設されるまで、陳列物は竹の台陳列館を移築した上野別館で展示された。 竹の台陳列館は元々は1907年に上野で開催された「東京勧業博覧会」第二号館として建築された建物である。移築前は「竹の台」と称されていた帝室博物館付属地内(現在の東京国立博物館前にある広場内大噴水の北西寄り付近)にあった。 上野別館は木造平屋建の「ロ」の字をした建物であり、開館当初の展示品は交通、機会、土木建築、海外資料に関するもの、その他(鉱物、生理解剖標本)の資料で構成されていた。 本館(現日本館)が完成するまでは上野別館で「全国学校科学教育展覧会(1927年)」「産業教育展覧会(1928年)」などの各種展覧会が開催され、本館竣工後は主要工業品陳列などの常設展示や倉庫として使用された。 1945年1月27日東京空襲の際に、別館脇で炸裂した爆弾の爆風により事務室の窓ガラスが飛び、標本等150点が破損する。 1945年5月、本館、帝国学士院の建物への類焼を防ぐために強制取り壊し対象となり、上野公園に駐屯していた陸軍対空部隊によって展示物と共に北側部分を取り壊された。 終戦後は補修される事も無く、不要陳列品の倉庫代わりに使用されていたが、1949年11月28日に降った雨と強風の影響で自然崩壊した。 八幡製鉄所の模型 外輪船・金比羅丸の主機関 ツチクジラの骨格標本 テレビジョン實験室 1936年高柳式テレビジョンの公開実験を実施した際に開設された。 人形の家 1927年にアメリカから送られた青い目の人形のうち、各州代表人形48体と日本人形48体が陳列されていた。 人形の家は1階は和装、2階には洋装になっており、庭園には1/5サイズのシーソーやブランコが配置。1931年に上野本館が完成した後も引き続き別館で展示されていたが、1945年1月27日東京空襲の際にケースごと破損し、その殆どが行方不明となった。 1988年全国10カ所のそごうデパートで開催された「青い目の人形交流展」では行方不明になっていた代表人形のうちの1体が「ミス・アメリカ」として展示された。
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