鎌倉時代~室町時代
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鎌倉時代、僧兵の存在が確認され幕府に地頭の干渉について訴えを起こし認めさせている(『吾妻鏡』)。室町時代以降、長覚が湯殿山で、全岩東純、越叟了閩、界厳繁越らが羽黒山で出家した後、鎌倉や京都で学び高野山無量寿院や、長州大寧寺、駿河梅林院などで活躍した。戦国時代においては、最上義光が病気平癒を祈願し、またその妹義姫(伊達輝宗室、伊達政宗母)は子宝を授かることを湯殿山に祈願している。
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鎌倉時代~室町時代
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「近代以前の日本の人口統計」の記事における「鎌倉時代~室町時代」の解説
ファリスの1280年の推定人口は、『大田文』記載の九州6国(豊前、肥前、豊後、日向、大隅、薩摩)、西日本5国(若狭、丹後、但馬、石見、淡路)、能登、常陸の田積数と『拾芥抄』記載の旧国別田積数の比較による。すなわち1人当たり配給面積を1.81反、6歳未満人口を6歳以上人口の16%、都市人口を20万人(平安京10万人、鎌倉6万人)、田積から求まる人口の約0.4倍が他の農業・狩猟により養われていたと仮定することで、1280年の推定人口を1150年の上限推定人口(590万~630万人)よりやや減少した570万~620万人と算出している。 ファリスの1450年の下限推定人口は、兵隊人口の比較による。満済の『満済准后日記』の記述によると、山名宗全、畠山義深などの守護大名軍は平均して325騎、徒歩兵2500人の軍隊を有しており、足利将軍家が10大名に相当する軍隊を有し、守護大名の総数を37~60人とすると日本全土で兵の総数は13万2775~19万7750人と算出される。律令時代の兵隊人口比(56人で兵隊1人)より地方推定人口は920万人(740万~1100万人)となり、都市人口率を4%(40万人)と仮定することで960万人が算出される。一方ファリスの上限推定人口1050万人は、長期に渡る一定の人口増加率(0.4%/年)の維持を仮定する斎藤修の未公表の研究(2000年)の引用による。
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鎌倉時代 - 室町時代
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鎌倉時代から室町時代にかけては、村上水軍が瀬戸内海を本拠地とした。室町時代に勘合貿易(日明貿易)が執られるまでは、瀬戸内海の海賊たちは、倭寇となって朝鮮半島近辺で略奪を行った。この地方は山陰は山名氏、山陽は大内氏と赤松氏が南北朝の戦乱の中で強大な力を有するようになった。将軍足利義満はこれらの力を半減させることに成功するが、室町幕府の力が衰えると再び強大化し応仁の乱の一因となった。
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鎌倉時代・室町時代
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鎌倉時代源実朝は左馬寮御監に叙任された。室町時代、足利義満は朝廷から右馬御監に叙任された。室町時代において左馬頭は、足利直義が左馬頭になったのを嘉例とし、将軍の後見職(副将軍的な存在)あるいは次期将軍が就任する官職と見なされた。左馬頭となりながら将軍になれなかった例として、足利義嗣や足利義視、足利義維がいる。また、足利義輝が殺害された永禄の変後、朝廷は後継者として名乗りを上げた弟の足利義昭(後の15代将軍)と従兄弟の足利義栄(後の14代将軍)をともに左馬頭に任じ、事態の推移を見守ったこともあった。 細川典厩家が代々右馬頭・右馬助に叙任されたほか、戦国時代には毛利元就や毛利輝元も右馬頭に叙任されている。 原文 上卿 源中納言天文二年九月廿六日 宣旨從五位下大江元就宜任右馬頭藏人頭左中辨藤原淳光奉 訓読文の大意(カッコ内は書き下し文の読み) 上卿 源中納言(庭田重親 39歳 正三位権中納言) 天文2年9月26日 宣旨 従五位下大江元就(毛利元就 37歳) 宜しく右馬頭に任ずべし 蔵人頭左中弁藤原淳光(広橋淳光 28歳 正四位上 造興福寺長官・左宮城使兼帯)奉(うけたまは)る — 右馬頭の辞令(口宣案)の例、『毛利家文書』 原文 從五位下大江元就正三位行權中納言源朝臣重親宣奉 勅件人宜任右馬頭者天文二年九月廿六日 大外記兼助教清原朝臣業賢奉 訓読文の大意(カッコ内は書き下し文の読み) 従五位下大江元就(毛利元就 37歳)正三位業権中納言源朝臣重親(庭田重親 39歳)宣(の)る勅(みことのり、後奈良天皇 38歳)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく右馬頭に任ずべし者(てへり)天文2年9月26日 大外記兼助教清原朝臣業賢(堂上家の舟橋家の先祖 35歳 正四位下)奉(うけたまは)る — 右馬頭の辞令(宣旨)の例、『毛利家文書』
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鎌倉時代・室町時代
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鎌倉時代になると、義俊の長子里見義成が源頼朝に仕えて御家人となった。義成は頼朝に重用され、頼朝の死後も代々の将軍に近侍した。 鎌倉時代末の里見義胤(義俊の6世の孫)は、本宗家の新田氏と共に倒幕軍に参加。新田義貞に随行し、鎌倉攻めに加わり功を挙げ、戦後越後国の守護代に任ぜられた。南北朝の動乱では南朝方に従っていたものの、宗家が没落すると一族の中に北朝側に参加する者が現れた。室町幕府に従って美濃国に所領を得た里見義宗もそのひとりである。義宗は観応の擾乱で足利直義に従ったが、直義は敗北して美濃里見氏は所領を失い、没落した。 その後、鎌倉公方足利満兼に召しだされて常陸国に所領を得た人物に、里見家兼がいる。家兼の子の里見家基は、足利持氏に奉公衆として仕えた。家基は、上野国・常陸国などに所領を与えられていた。しかし永享の乱で家兼が自害、続いて結城合戦で家基・家氏父子が討たれ、上野里見氏嫡流はここで断絶した。 家基のもうひとりの子とされる義実は安房国に落ち延び、のちに安房里見氏の祖となったとされている。だが、近年において、義実(あるいは家兼)を旧来の伝承による上野里見氏嫡流ではなく、美濃里見氏・義宗の末裔であったとする説が出されている。 室町時代以降、発祥地・上野国における里見氏は、里見義連(義胤の子)の三男である仁田山氏連の系統に属して、戦国時代に二階堂政行配下で仁田山城主であった里見家連(宗連)などが散見され、家連は後に上杉謙信の討伐を受けて戦死を遂げて、子の宗義(後に戦死)と義宗は碓氷郡里見郷に逃れて、榛名里見氏と称したという。また、家連の許には同族の縁を頼り、安房国を追われた安房里見氏一族の里見勝広という人物が身を寄せたと伝えられる。
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鎌倉時代・室町時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/30 14:29 UTC 版)
鎌倉時代初期には美濃和紙は余り使用されていなかったが、南北朝の動乱や応仁の乱によって利用者の懐事情が悪化した結果、安価な美濃和紙が使用されるようになった。 美濃国守護である土岐氏は富国強兵のため、産業開発を促進し、製紙業を後押しした。そうして大量に生産された美濃和紙は文化人の多い土岐氏を慕って来訪した公家、僧侶によって日本各地に伝播され、その後は京都宝滋院を拠点とする近江枝村の商人によって流通した。
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鎌倉時代・室町時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 08:01 UTC 版)
源頼朝による奥州藤原氏征伐のときは、伊達郡国見町の厚樫山(あつかしやま、当時は国見山とも)を中心に藤原氏の防衛線が張られ、事実上の決戦場となった。このとき、常陸国伊佐郡を本拠地としていた中村氏(伊佐氏)が佐藤基治を破った。源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした後、信夫佐藤氏は滅亡を免れたが、信夫荘(信夫郡の松川以北)に押し込められ、小領主に転落した。なお、伊達郡は中村氏に与えられ、伊達郡に分家した中村氏はその後伊達氏を名乗るようになった。以後、伊達氏が現在の宮城県・岩手県南部に転封されるまで、信夫郡・伊達郡は伊達氏支配となる。 なお、この間に大森城や、杉妻の大仏城が築城され、中心地域は岑越から杉妻に移っていた。
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鎌倉時代・室町時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 01:49 UTC 版)
古くは鎌倉時代の初期以降の、13-14世紀の仏像の衣服にこの文様が用いられている。それは密教系の尊像や曼荼羅の地の模様として集中しているとされ、慶派の奈良仏師による尊像に採用された。 十大弟子立像(1220年前後、京都・大報恩寺) - うち一体の衣装に麻の葉文様が使われている 愛染明王像 (1247年、奈良・西大寺)- 衣服の文様の一部に描かれている。 当初は多くの柄のひとつであり、時には上からさらに丸紋が重ねられ気付きにくいものであったが、室町時代には麻の葉文様の部分は面積的にも大きくなってくる。仏教美術が没落していく中で粗雑な像の衣服にも麻の葉が取り入れられ、またこれらは比較的地位が低い尊像であったが民衆からはしたわれており、このことが麻の葉文様の民衆への普及に関係しているのではとも言われる。
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