遠山 静雄 (とおやま しずお[1] 、1895年 2月15日 - 1986年 11月10日 [2] )は、日本の照明技師 。舞台照明 の草分け[3] [4] [5] [6] 。広島県 出身[7] 。
来歴
1915年 東京高等工業学校(現東京工業大学 )電気科卒[1] [8] 。東京電気(現東芝 )に4年半勤務のち退職して演劇 の道に入る。1920年 、田中良 を主唱者とする舞台美術会(トンボヤの会)に土方与志 、伊藤憙朔 らと共に参加[9] 。「私がやらなければ恐らく誰もやらないだろう」と1920年から本格的に舞台照明に関わる[10] 。1921年 から新劇 、新歌舞伎 、新舞踊 の舞台照明を担当。当時未開であった舞台照明の研究と確立を目指し、その実践を行うため1929年 、小川昇、神保道臣等と共に「遠山照明研究所」(TIL)を創設した[5] 。門弟志願の第一号が小畑敏一[5] 。最初は遠山の自宅へ集合したが後に銀座 、新橋 へ事務所を設けて、穴沢喜美男、松崎國雄、大庭三郎らが参加した[5] 。1923年 遠山邸で、伊藤熹朔、千田是也 らと上演したメーテルリンク の「アグラヴェーヌとセリセット」は、日本の現代人形劇 の先駆とされる[11] [12] 。1933年 に宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団 )が、東京で年間を通して定期公演を行うために東京宝塚劇場 を建設(開場は1934年 )した。この時、小林一三 から田中良 、山田耕筰 と共に宝塚少女歌劇団の顧問に抜擢される[5] [13] 。東京宝塚劇場の出現は、舞台照明にとって大きなエポックとなった[14] 。1936年 に遠山は正式に東宝に入社して専属となる[14] 。遠山は東宝に専心忠誠を尽くすつもりで「遠山照明研究所」を解体して、前述の穴沢、松崎、大庭らは、その姓を冠する研究所を作って独立した[5] 。支配人秦豊吉 の依頼を受けて田中の後任の舞台課長を引き継ぎ、その後は文芸部長を経て帝劇 支配人等を歴任した[1] [5] 。
戦後の東宝争議 で会社が演劇部内を解消し、演劇関係者は多くが退社[5] [15] 。遠山も東宝に15年在籍し1950年 退職した[1] [5] 。フリーに戻り「遠山照明研究所」を再興させた。同年から日本大学芸術学部 講師となり、装置論と照明論を以降30年講義し多くの後進を育てた。1975年 『日照演劇論』で河竹賞 受賞。1981年 「遠山照明研究所」を有限会社とし運営から退く。 日本舞台照明家協会初代理事長、日本演劇協会 、日本演劇学会 各顧問、日本舞踏協会名誉顧問、国際演劇協会日本センター監事などの要職を歴任した[7] [8] 。
脚注
著書
『舞台照明五十年』相模書房 、1966年。 ゆまに書房、2014(復刻)
『アドルフ・アピア』相模書房、1977年
随筆色の道、1979年
随筆続色の道、1980年
随筆続々色の道、1982年
『舞台照明とその周辺』島津書房、1986年。
『舞台照明学』(上・下巻)リブロポート、1988年
参考ウェブサイト
外部リンク
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関連項目
歴代主演男役・主演娘役・組長・副組長の'・・'は先代次代関係なし、'-'は先代次代関係あり。◎マークは現在宝塚歌劇団に在籍している演出家。