古谷幸一とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 古谷幸一の意味・解説 

古谷幸一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 08:43 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
古谷 ふるたに 幸一 こういち
1927年頃撮影
基本情報
生誕 (1891-05-18) 1891年5月18日
日本 山口県厚狭郡須恵村(現:山陽小野田市
死没 1951年
ジャンル クラシック劇伴
職業 作曲家宝塚歌劇団理事

古谷 幸一(ふるたに こういち、1891年5月18日[1] - 1951年[2])は、日本作曲家宝塚歌劇団理事[3]

来歴

1891年(明治24年)、山口県厚狭郡須恵村(現在の山陽小野田市)に生まれる[1]。旧制山口国学院中学校へ進学したが中退、1907年(明治40年)より2年にわたり地元の尋常小学校訓導を務めた後、1909年(明治42年)に東京音楽学校器楽科へ入学し山田源一郎、パウル・ショルツらの師事を仰いだ[1]

1917年大正6年)に東京音楽学校を卒業後、宝塚歌劇団に作曲家として加入を打診されたが辞退し第六高等女学校および浅草区柳北尋常小学校の教員を務める。1922年(大正11年)に5年越しの要請を受諾して宝塚歌劇団へ加入、宝塚音楽学校講師および劇伴の作曲家として昭和前期まで活動し、理事に至った[3]

岳父(夫人の父)は元海軍軍楽隊長の瀬戸口藤吉[1]

作品

  • アミナの死
  • ジャンヌ
  • 紐育行進曲
  • 喜歌劇「人格者」(作詞:堀正旗)
  • ミュージカル「トーキー時代」

宝塚歌劇以外の作品

阪急電鉄傘下の職業野球チーム・阪急軍(現オリックス・バファローズ)の初代球団歌。

顕彰

参考文献

出典

  1. ^ a b c d 東京日日通信社(1927), pp90-91
  2. ^ 宝塚歌劇団(1994), p176
  3. ^ a b c “宝塚が八千草薫ら殿堂100人を発表”. 日刊スポーツ. (2014年1月11日). https://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20140111-1242409.html 2022年3月22日閲覧。 



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  古谷幸一のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「古谷幸一」の関連用語

古谷幸一のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



古谷幸一のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの古谷幸一 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS