聖人伝とは? わかりやすく解説

聖人伝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 13:27 UTC 版)

フランク王国」の記事における「聖人伝」の解説

メロヴィング期の象徴的な、そしてもっとも発展した文学ジャンルキリスト教の聖人伝である。聖人伝はメロヴィング朝時代文学活動において量的に最大部分占めている。こうした聖人伝を多数残す原動力となったのが文学活動における教会・修道院重要性増大であった7世紀半ばまでには古代以来都市公的な学校順次消滅する一方6世紀ごろからキリスト教司祭育成するための司教区学校が、古代学校伝統とは独立的にガリア全域広がっていった。これは古代学校十分に施すことができない宗教的聖職者教育を施すために教会独自に用意した教育機構であったまた、修道院においても文筆活動活発化した。修道院にはもともと書写室が備わり、古典キリスト教の教父たちの著作、そして聖書典礼文書筆写が行われていたが、聖コルンバヌス影響下で創設された、ガリア北部ブルグンディア修道院には特に整備され書写室が常に設けられ筆写作業修道院の手労働重要な要素になっていった。聖人伝の多くはこうした修道院作成された。この時代には「著者」という概念成立しておらず、文書書写する人が「こうした方がいい」と考えればその都度変更加えられながら書写された。 当時重要な作品としてあげられるのが669年以降にニヴェル(英語版)で書かれた『聖女ゲルトルーディス(フランス語版)伝』、ルペーで書かれた『聖アイユル伝』、688年以前フォントネル書かれた『聖ヴァンドリル(英語版フランス語版)伝』、670年頃にルミルモン(英語版)で書かれた『聖アメ英語版)伝』、707年以前ラン書かれた『聖女サラベルジュ伝』などである。

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聖人伝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/11 16:10 UTC 版)

聖マルガリタ (修道士処女伝説)」の記事における「聖人伝」の解説

マルガリタ裕福高貴な美し乙女であったマルガリタ貴族青年結婚することになったが、結婚式夜に純潔栄光願って髪を切り男装して出奔したマルガリタ遠く離れた修道院にたどり着くと修道士ペラギウス名乗り修道院勉強することとなったペラギウスはその敬虔さ清らかさのために、女子修道院修道院長推薦され務めることとなった悪魔ペラギウス貶めるために、ある修道女誘惑し妊娠させた。その立場上、いつでも修道女との密会機会があったペラギウスは、修道士からも修道女からも疑われることとなり、裁判なしに有罪とされた。ペラギウス修道院追放され洞窟幽閉された。ペラギウスには毎日ひとつの小さなパンと少しの与えられるけだったが、洞窟の中で変わらず神に感謝捧げ続けたそのうち自分命が尽きることを悟ったペラギウスは、修道院長修道士たちに充て手紙残した手紙には俗世ではマルガリタ呼ばれていたこと、修道女たちの手埋葬してほしいこと、修道女によってマルガリタ純潔証明されるであろうことが書かれていた。手紙読んだ修道士たちは修道女たちとともに洞窟向かった修道女たちはペラギウス名乗るマルガリタ生娘であったことを知った修道士修道女たちは贖罪マルガリタ女子修道院埋葬されここまで

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/18 02:58 UTC 版)

エルサレムのペラギア」の記事における「聖人伝」の解説

『黄金伝説』では次のように伝えられている。 アンティオキアのペラギア裕福美し貴婦人だったが、淫蕩高慢であったペラギア取り巻き引き連れて歩いている姿を見かけヘリオポリス司教ノンヌスはひどく心を痛め、自らの至らなさを主に謝罪したある日、ノンヌスが教会説教をしていると、群衆中にペラギアの姿があった。ペラギアはノンヌスの言葉心を打たれ回心洗礼受けたペラギア洗礼受けたのち、自らの財産をすべて貧しい人たち分け与えて町を出たペラギアオリーブ山修道士として暮らし禁欲贖罪の日々を過ごしたペラギア評判広まりペラギウスという修道士として知られることとなったその後、ノンヌスの助祭巡拝出かける際、ペラギウスの噂を聞いていたノンヌスは助祭巡拝の後にペラギウス訪ねるよう言った。訪ねた助祭痩せこけたペラギウスペラギアだとは気が付かなかったが、ペラギア助祭覚えていたので、司教ペラギウスのために主に祈ってもらうよう願った3日後に助祭ペラギウス元に再び訪れるとペラギア死んでいた。助祭がノンヌスに知らせると、ノンヌスは葬儀のために聖職者たちをすべて連れてペラギウス元に向かった。彼らがペラギウス遺体運びだすとペラギウスが女だったと気づき、驚くとともに神に感謝をささげ、ペラギア遺骸葬ったここまで

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/22 04:01 UTC 版)

ディンプナ」の記事における「聖人伝」の解説

ディンプナ7世紀アイルランド王女として生を受けた父親異教徒だったものの、母親影響ディンプナキリスト教洗礼受けていた。ある時、ディンプナ母親急死すると、父王はたいへん嘆き悲しみ西洋国々巡って妻の面影宿す美しい女探し求めた。しかしそれは叶わなかった。ところが帰国した王は、娘のディンプナが妻に似て美しく成長したことに気づきすぐさまディンプナ近親婚迫ったキリスト純潔捧げることを望んでいたディンプナは、父を拒み自分聴罪司祭聖ゲルベルネスを頼って共にベルギーヘール逃れた。しかし王に見つかり、それでも拒んだディンプナ父親の手によって斬首され、殉教遂げた。このときディンプナ15歳であった

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/14 00:49 UTC 版)

ビテュニアのマリーナ」の記事における「聖人伝」の解説

マリーナ父親修道院に入ることになった為、父親マリーナ男装させ一人息子として一緒に修道院入った以降マリーナマリノスとして修道生活を送るようになったマリノス17歳の時、父親死期悟り誰にも女であることを明かさないように命じたマリノス修道院での仕事為に、ある人物の家に泊まることが多かったある日、その家の娘がとある騎士の子供を宿したが、困った娘はマリノス犯されたからだと嘘を言った。しかし問い詰められマリノスは罪を認め慈悲願ったこのため修道院の外に追放されることになったマリノス修道院の門の近く住みパン屑拾って暮らすようになった。娘の子生まれるとその子引き取り、さらに2年ほど暮らしたのちに修道院戻され下働きをして暮らしたマリノス死後修道士たちが遺体洗おうとしたときに、マリノス女性であったことが判明した修道士たちは許し請いマリーナ遺体礼拝堂内に葬られた。嘘をついた娘は悪霊取りつかれ、罪を白状することとなったが、娘がマリーナ墓前近づく悪霊去った

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 01:23 UTC 版)

カエサリアのドロテア」の記事における「聖人伝」の解説

311年2月6日童貞殉教者ドロテアカッパドキアカエサレアにおいて、ディオクレティアヌスによる迫害のため殉教したドロテア県知事前に連れだされ、信仰試され拷問受けたのちに死刑宣告された。刑場に向かう途中非キリスト教法律家テオフィロスドロテアに「キリスト花嫁よ、花婿の庭からいくつか果物を私に持ってきてみるがいい」と嘲笑しながら言ったドロテア処刑される前、6歳男の子現れ、彼女のヘッドドレス果物天上バラ香り満たされた。彼女はテオフィロスにそれを送ったテオフィロスはその一度キリストへの信仰告白し拷問台にかかり殉教することとなった。 これがもっとも古い形の聖人伝であり、これを元に様々な形伝播したとされる最初期の聖人伝ではアルドヘルムがエセックスにあるバーキング修道院Barking Abbey)のヒルデリス(Hildelith)女子修道院長宛てて書いたとされるDe laudibus virginitatis』(処女賛美)が知られる

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 01:24 UTC 版)

アンティオキアのペラギア」の記事における「聖人伝」の解説

311年最後大迫害の頃、ペラギアアンティオキアに住む15歳の若い乙女であったペラギア一人で家にいたとき、彼女を逮捕するために兵士たち押しかけた。ペラギア兵士たち自分裁判官元へ連れ出すその前に貞操危機があることを理解していた。ペラギア着替え許可兵士たち願い階段上ると、屋根から川へ身を投げて死んだペラギアは自らの純潔他者の罪を引き起こすきっかけになることからも、不名誉からも逃れることとなった。 彼女の真正さは、アンブロジウスクリュソストモスにより承認された。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 01:26 UTC 版)

ペルシアのヤコボス」の記事における「聖人伝」の解説

ヤコボスはペルシア首都であるベート・ラパト(Beth-Lapeta)においてキリスト教徒貴族の家に生まれペルシア王に重用されていた。ヤコボスは王に対す忠誠心により非キリスト教の神を崇めたために母と妻から絶縁された。ヤコボスは、家族他人となり、神から遠ざかってしまったことを後悔したある日のことヤコボスは、ペルシア王にキリスト教徒かと問いただされ脅されたが、キリスト教徒だと答え信仰捨てなかった。ペルシア王はキリスト教徒たちへの見せしめのために、ヤコボスを拷問にかけて処刑することにした。刑吏の手により体をこま切れにされることとなったが、ヤコボスは体が一か所切り落とされるたびに神を称えた。ヤコボスは両手足の指、両足両手両腕、両腿の28箇所切断され最後に斬首されて死んだ。ヤコボスの遺体キリスト教徒たちの手により盗み出され埋葬されここまで

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 01:27 UTC 版)

聖エウフェミア」の記事における「聖人伝」の解説

エウフェミアカルケドンで、元老院議員であったフィロフロノスとその妻であるテオドージアの間に生まれたとされる伝承によると、カルケドン知事であったプリスコスは市民全員非キリスト教祭り参加しアレース供物捧げるよう命令出したエウフェミア知事命令無視し隠れてキリスト教の神に祈り捧げているところを49人のキリスト教徒と共に発見され捕まった。彼らは19日間に渡り拷問されたが、誰も信仰捨てなかった。プリスコスは彼らの中で一番若かったエウフェミア仲間から引き離し拷問により信仰放棄させようとした。エウフェミアは鋭いナイフと共に車輪縛り付けられたが、彼女が主に祈ると車輪止まり天使現れ傷を癒した。火の中に放り込まれても、ナイフいっぱいの穴の上歩いても彼女にはつかなかった。エウフェミア猛獣により殺される刑を宣告され、彼女を殺すための猛獣が待つ闘技場入れられた。処刑前にエウフェミアは自らの苦難殉教を神に祈ったライオンは彼女を殺すことはなく、ただ彼女の傷を舐めるだけであった最後に野生の熊から足に小さな傷を与えられ、彼女は死んだとされている。4世紀末にカルケドンエウフェミアの墓の上バシリカ建設された。451年カルケドン公会議はこの聖堂開催された。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/26 00:41 UTC 版)

ニコメディアのアドリアノとナタリア」の記事における「聖人伝」の解説

親衛隊将官だったアドリアノはニコメディアにおいて、ガレリウスと共に22人のキリスト教徒捕らえて拷問にかけ信仰試した。アドリアノは彼らの信仰感銘を受け、自らもキリスト教徒となることを宣言したために投獄され拷問かけられることとなった。アドリアノの妻ナタリアは、アドリアノと共に投獄されているキリスト教徒たちをひそかに応援した迫害のために信仰隠していたがナタリアキリスト教徒であった。 アドリアノは足首切り落とされ金床の上で腿を砕かれたのち、両手切り落とされ殉教したまた、仲間キリスト教徒たちも彼と同じように足を切り落とされ殉教したガレリウス殉教者たち遺骸焼き払うよう命じたため、ナタリアはこっそりアドリアノの片手隠し持った。しかし、遺骸が火の中に放り込まれると突然の大雨で火が消え遺骸無事だったのでキリスト教徒の手コンスタンティノープル運ばれることとなった。 家に戻ったナタリアしばらくの間、アドリアノの片手と共に暮らしていたが、護民官求婚されたため、コンスタンティノープル逃げ出したコンスタンティノープル辿り着いたナタリアはアドリアノの遺骸手を戻すと、アドリアノの夢を見たのち、周り別れ告げて息を引き取ったナタリア遺体殉教聖人たちのそばに並べられた。

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