総社神社とは? わかりやすく解説

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総社神社

読み方:ソウシャジンジャ(soushajinja)

教団 神社本庁

所在 秋田県秋田市

祭神 天照皇大神 ほか


総社神社

読み方:ソウシャジンジャ(soushajinja)

別名 常陸国総社宮

教団 神社本庁

所在 茨城県石岡市

祭神 伊弉諾尊 ほか


総社神社

読み方:ソウシャジンジャ(soushajinja)

別名 総社宮

教団 神社本庁

所在 長崎県北松浦郡田平町

祭神 伊邪那岐神 ほか


総社神社

読み方:ソウジャジンジャ(soujajinja)

別名 讃岐総社

教団 神社本庁

所在 香川県坂出市

祭神 伊弉諾尊 ほか

神社名辞典では1989年7月時点の情報を掲載しています。

常陸國總社宮

(総社神社 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/19 10:05 UTC 版)

常陸國總社宮

拝殿
所在地 茨城県石岡市総社二丁目8-1
位置 北緯36度11分16.3秒 東経140度16分8.6秒 / 北緯36.187861度 東経140.269056度 / 36.187861; 140.269056座標: 北緯36度11分16.3秒 東経140度16分8.6秒 / 北緯36.187861度 東経140.269056度 / 36.187861; 140.269056
主祭神 伊弉諾尊
大国主尊
素戔嗚尊
瓊々杵尊
大宮比売尊
布留大神
社格 常陸国総社
県社
創建 (伝)天平年間(729年-749年
本殿の様式 流造
別名 總社神社・明神さま
例祭 常陸國總社宮大祭(9月の第3月曜日を含む土日月)
地図
常陸國總社宮
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鳥居

常陸國總社宮常陸國總社宮(ひたちのくにそうしゃぐう)は、茨城県石岡市総社にある神社常陸国総社で、旧社格は県社。

社名には新字体の「常陸国総社宮」の表記も用いられるほか[1]、別称として「總社神社總社神社(そうしゃじんじゃ)」とも称される。石岡の産土神であり、地域住民からは「明神さま」とも呼ばれている[2]

概要

古代国司は各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していた。これを効率化するため、各国の国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。当社はそのうちの常陸国の総社にあたる。

当社は石岡の中心市街地を抱く丘陵の縁辺に鎮座し、西からにかけて恋瀬川の低地を望み、社地は旧常陸国衙に隣接する[3]氏子1994年(平成6年)時点で約2,500戸で、各町ごとに氏子会が組織されている[4]

毎年9月に催行される例祭「常陸國總社宮例大祭」は「石岡のおまつり」とも称され、関東三大祭りの1つに数えられる[5]

祭神

現在の祭神は次の6柱。

寛政3年(1791年)の『総社神宮祭礼評議』では、祭神は大己貴命(おほなむちのみこと:大国主尊に同じ)であり、「七体の木像にて、内六体は怪敷(あやしき)形」であるとしている[6]

歴史

社伝によれば、奈良時代天平年間(729年 - 749年)の創建とされる。ただし『石岡市史 下巻』では、総社の制度が確立したのが平安時代末期であることから疑問を呈している[7]

当初の社名は「国府の宮」であったが、延喜年間(901年 - 923年)に天神地祇(てんしんちぎ)の6柱のが祀られるようになって「六所の宮」となり、さらに「総社」(古代の読みは「そうじゃ」[8])に名を改めた[9]。また創建当初は現在の常陸国分尼寺跡付近にあったとされるが、天慶年間(938年 - 947年)に大掾氏(平詮国)が常陸府中(石岡)に築城した際に鎮守のために現社地に遷したという[10]神主は代々清原氏が世襲していた[11]

少なくとも治承3年5月(ユリウス暦1179年6月)に「造営注文案」が出され、宮域の整備がなされたものと推定されている[12]。造営には吉田神社筑波山神社などの常陸国内諸社や郷が鎌倉時代末期まで決まっていたが、14世紀初頭になると、代々その任を担ってきた地頭らが造営を拒否し、神社側は鎌倉幕府に提訴、幕府は造営負担を命じるとともに地頭らに造営の先例の有無を記載した請文の提出を要請した[13]。この時の請文が「総社宮文書」として6通ほど残されているが、いずれも「造営の先例はない」としている[14]。これは社寺保護政策を強めていた幕府に対する関東御家人の反発の潮流の1つに位置付けられる[15]。また総社に対する権威の否定、国衙機能の変質・解体として見ることも可能である[16]。さらに鎌倉時代末期には、大掾氏の一族が社地の田畑について知行権を行使していた[16]

中世には国司代による奉幣の祭祀が3月3日7月16日に行われていた[17]。また、少なくとも戦国時代まで常陸国内の神事を執行・主導する立場にあり、仏事に対しても関与できるほどの権力を有していた[18]。そして、7名の総社供と呼ばれる仏教僧も神社に奉仕していた[11]

永享12年5月(ユリウス暦:1440年5月)には太田道灌奥州へ向かうにあたって武運を祈るため参拝し、戦に勝って戻った折に軍配団扇1握と短冊2葉を寄進し、以下のような短歌を詠んだ[10]

曙の 露は置くかも 神垣や 榊葉白き 夏の夜の月

道灌の子孫である太田資宗は先祖・道灌の寄進した軍配に感激し、軍配を納めるの梨地の筥(はこ)を作り、そのに由緒を書いて寛文8年4月(グレゴリオ暦1668年5月)に神社へ奉納した[10]

江戸時代には、本殿に加え、幣殿・拝殿・神宮寺を有し、末社として高房明神と稲荷明神を管轄していた[18]寛永4年(1627年)、常陸府中藩主の皆川隆庸が現在の社殿を再建する[19]。この年に江戸幕府によって社領を25石と定められた[18]。その後、松平信定天和3年(1683年)に拝殿を修築、1886年(明治19年)6月に氏子らで拝殿神門の修築と本殿を銅の瓦葺に変更した[19]

明治維新後、近代社格制度では始めは郷社に列したが、1900年(明治33年)9月に県社に昇格した[19]。これを記念して石岡町民は寄付を集めて神社の基金を作り、三条実美に社殿奉額の社号の筆を依頼した[19]1978年(昭和53年)、総社神社周辺域に新町名「総社」が設定され、一丁目と二丁目がおかれ、神社は総社二丁目となった[18]。この時、地名としての「総社」の読みは「そうしゃ」とすることが会議で決定された[8]

2005年(平成17年)4月14日、本殿が石岡市指定有形文化財(建造物)となった[20]

境内

境内

境内の広さは2,513.26(8.3ha[21]。本殿は流造葺292m2(3四方)で、石岡市指定有形文化財に指定されている[21][20]

また拝殿脇には日本武尊腰掛石があるほか、神門外の土俵では常陸國總社宮大祭に合わせて相撲大会が執り行われる[19]江戸時代の總社宮大祭は現在の祭とは異なり、相撲大会(角力)のみが神事として挙行されていた[5]

摂末社

  • 愛染神社
  • 愛宕神社
  • 厳島神社
  • 稲荷神社
  • 星の宮
  • 松尾神社
  • 八坂神社
  • 十二社
  • 神武天皇遥拝所

文化財

茨城県指定文化財

  • 有形文化財
    • 常陸総社文書(ひたちそうしゃもんじょ)(古文書)
      總社宮に関する文書のみならず、国衙の史料も含んでいる[22]。これらの文書は『茨城県史料 中世I』に収録されている[18]1983年(昭和58年)3月18日指定[23]
    • 扁額三十六歌仙絵(へんがくさんじゅうろっかせんえ)(絵画)
      常陸国小川城主の女千代益が文亀3年(1503年)に寄進した、三十六歌仙絵馬[24]。作者は成田小次郎平益親[25]。1983年(昭和58年)3月18日指定[26]
    • 漆皮軍配(伝 太田道灌奉納)(工芸品)
      当社の有する「三武将の軍配」[24]の1つ。1983年(昭和58年)3月18日指定[27]
    • 漆皮軍配(伝 佐竹義宣奉納)(工芸品)
      「三武将の軍配」の1つ。1983年(昭和58年)3月18日指定[28]
  • 有形民俗文化財
    • 土橋町の獅子頭
      宝暦年間(1715年-1764年)頃の作で、ヒノキ作り。常陸国総社宮例大祭で露払いを行う。平成4年1月24日指定で、所有者は土橋町。

石岡市指定文化財

  • 有形文化財
    • 常陸国総社宮本殿(建造物) - 平成17年4月14日指定。
    • 常陸国総社宮随身像(彫刻) - 1985年(昭和60年)11月8日指定[20]

その他

  • 入野左衛門尉就景奉納の軍配 - 「三武将の軍配」の1つ。

現地情報

所在地

交通アクセス

周辺

脚注

  1. ^ 茨城県庁"常陸国総社宮大祭 [発見!!いばらき]"(2012年4月21日閲覧)
  2. ^ 石岡市史編纂委員会 編(1979):386ページ
  3. ^ 「常陽藝文」編集部 編(1992):63ページ
  4. ^ 高橋ほか(1995):20ページ
  5. ^ a b 茂木・島田(1995):4ページ
  6. ^ 茂木・島田(1995):3ページ
  7. ^ 石岡市史編さん委員会 編(1985):352ページ
  8. ^ a b 石岡市史編纂委員会 編(1979):序説(ページ番号なし)
  9. ^ 石岡市史編纂委員会 編(1979):383 - 384ページ
  10. ^ a b c 石岡市教育委員会 編(1986):253ページ
  11. ^ a b 石岡市史編さん委員会 編(1985):356ページ
  12. ^ 石岡市史編さん委員会 編(1985):352 ー 353ページ
  13. ^ 佐々木(1976):31ページ
  14. ^ 佐々木(1976):31 - 32ページ
  15. ^ 佐々木(1976):33ページ
  16. ^ a b 石岡市史編さん委員会 編(1985):355ページ
  17. ^ 茂木・島田(1995):33ページ
  18. ^ a b c d e 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):566ページ
  19. ^ a b c d e 石岡市教育委員会 編(1986):254ページ
  20. ^ a b c 石岡市生涯学習課"市指定文化財 茨城県石岡市"(2012年2月23日閲覧)
  21. ^ a b 石岡市史編纂委員会 編(1979):385ページ
  22. ^ 永仁の徳政令の実施を示す「永仁5年4月1日 常陸国留守所下文」(永仁5年4月1日はユリウス暦の1297年4月23日)など(「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):566ページ)。
  23. ^ 茨城県教育委員会"常陸総社文書"(2012年2月23日閲覧)
  24. ^ a b 石岡市史編纂委員会 編(1979):384ページ
  25. ^ 石岡市史編さん委員会 編(1985):358ページ
  26. ^ 茨城県教育委員会"扁額三十六歌仙絵"(2012年2月23日閲覧)
  27. ^ 茨城県教育委員会"漆皮軍配(伝太田道灌奉納)"(2012年2月23日閲覧)
  28. ^ 茨城県教育委員会"漆皮軍配(伝佐竹義宣奉納)"(2012年2月23日閲覧)

参考文献

  • 石岡市教育委員会 編『石岡の地誌』石岡市教育委員会、昭和61年3月25日、403pp.
  • 石岡市史編纂委員会 編『石岡市史 上巻』石岡市長 鬼沢賢造 発行、昭和54年2月11日、1065pp.
  • 石岡市史編さん委員会 編『石岡市史 下巻』石岡市長 鈴木堅太郎 発行、昭和60年3月31日、1334pp.
  • 茨城新聞社 編『茨城県大百科事典』茨城新聞社、1981年10月8日、1099pp.
  • 「常陽藝文」編集部 編『常陸国風土記』財団法人常陽藝文センター、平成4年8月1日、184pp.
  • 高橋伸夫・小野寺淳・松村公明・舩杉刀修・芳賀博文(1994)"石岡市中心部における都市空間の特性"地域調査報告(筑波大学地球科学系人文地理学研究グループ).16:1-23.
  • 茂木栄・島田潔(1995)"常陸国総社宮に関わる祭要素の持続と変化"國學院大學日本文化研究所紀要.75:1-39.
  • 佐々木銀弥(1976)"常陸国総社宮文書のスリ消しをめぐって"古文書研究(日本古文書学会).10:31-33.

外部リンク


総社

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/19 14:29 UTC 版)

備中国総社宮岡山県総社市
創祀当時に備中国にあった神社計304社を合祀する。

総社惣社(そうじゃ、そうしゃ、すべやしろ)とは、日本で、特定地域内の神社祭神を集めて祀った(= 合祀)神社のことである。総社宮総神社総社神社などとも呼ばれることがある。

多くは令制国の範囲で集めたものを指すが、荘園などの地域内のものを集めたものもある。祭神の合祀だけでなく、神社そのものの統合である場合もある。

概説

国の総社

日本の律令制において、国司着任後の最初の仕事は赴任した令制国内の定められた神社を順に巡って参拝することであったが、平安時代になって国府の近くに総社を設け、そこを詣でることで巡回を省くことが制度化された。

総社の多くは中世にいったん廃れたが、後に再興されたものも多い。ただし今に至るまで再興されずにいるものや、どの神社が総社だったのかわからなくなってしまった国もある。

地域の総社

国の総社のように全国一律に同時期に設けられたものではなく、設けられた理由や時期、主導した人物等は地域によって様々である。規模も大小様々なものが存在している。

国の総社一覧

「神社名」の(推)は推定、(廃絶)は廃絶したもの(後継社はない)、(不明)は所在不明(後継社の有無不明)[1]

「式内」は式内社(名神=名神大社)、「近代」は近代社格制度の社格(官大=官幣大社、国中=国幣中社)、「別表」は別表神社

ただし、表に挙げた神社以外に異説もある。

国名 神社名 所在地 社格 備考
式内 近代 別表
畿内
山城国 (不明)
大和国 (推)国府神社 奈良県高市郡高取町下土佐
河内国 志貴県主神社 大阪府藤井寺市惣社 大社 村社
和泉国 五社総社 大阪府和泉市府中町 泉井上神社境内社
摂津国 (不明) [注 1]
東海道
伊賀国 (不明)
伊勢国 (推)伊奈冨神社 三重県鈴鹿市稲生町 小社 県社
(推)三宅神社 三重県鈴鹿市国府町 小社 村社
志摩国 (推)国府神社 三重県志摩市阿児町国府 村社
尾張国 尾張大国霊神社 愛知県稲沢市国府宮町 小社 国小 別表
三河国 総社 愛知県豊川市白鳥町上郷中 県社
遠江国 淡海国玉神社 静岡県磐田市見付 小社 県社
駿河国 神部神社 静岡県静岡市葵区宮ヶ崎町 小社 国小 別表 [注 2]
伊豆国 (不明) [注 3]
甲斐国 (推)甲斐奈神社 山梨県笛吹市春日居町国府 小社 村社 [注 4]
(推)甲斐奈神社 山梨県笛吹市一宮町橋立 小社 村社
のち府中八幡宮 山梨県甲府市 県社
相模国 六所神社 神奈川県中郡大磯町国府本郷 郷社
武蔵国 大國魂神社 東京都府中市宮町 官小 別表
安房国 (推)六所神社 千葉県館山市亀ヶ原 [注 5]
のち鶴谷八幡宮 千葉県館山市八幡 県社
上総国 (推)戸隠神社 千葉県市原市惣社 村社 [注 6]
のち飯香岡八幡宮 千葉県市原市八幡 県社
下総国 六所神社 千葉県市川市須和田
常陸国 常陸國總社宮 茨城県石岡市総社 県社
東山道
近江国 (不明)
美濃国 (推)南宮御旅神社 岐阜県不破郡垂井町府中
飛騨国 飛騨総社 岐阜県高山市神田町 県社
信濃国 (推)科野大宮社 長野県上田市常田 県社 [注 7]
(推)伊和神社 長野県松本市惣社 村社
上野国 総社神社 群馬県前橋市元総社町 県社
下野国 大神神社 栃木県栃木市惣社町 小社 県社
陸奥国 陸奥総社宮 宮城県多賀城市市川奏社 村社
出羽国 六所神社 山形県鶴岡市上藤島 郷社
北陸道
若狭国 総神社 福井県小浜市府中 村社
越前国 総社大神宮 福井県越前市京町 県社
加賀国 石部神社 石川県小松市古府町 小社 郷社
能登国 総社 石川県七尾市古府町 村社
越中国 (不明) [注 8]
越後国 府中八幡宮(合祀) 新潟県上越市西本町
佐渡国 総社神社 新潟県佐渡市吉岡総社
山陰道
丹波国 (推)宗神社 京都府南丹市八木町屋賀宗社
丹後国 (廃絶) [注 9]
但馬国 気多神社 兵庫県豊岡市日高町上郷 小社 郷社
因幡国 (不明)
伯耆国 国庁裏神社 鳥取県倉吉市国分寺 式外 県社
出雲国 六所神社 島根県松江市大草町 県社
石見国 伊甘神社 島根県浜田市下府町 小社 村社
隠岐国 (推)玉若酢命神社 島根県隠岐郡隠岐の島町下西 小社 県社
(推)有木神社(合祀) 島根県隠岐郡隠岐の島町有木 村社
山陽道
播磨国 射楯兵主神社 兵庫県姫路市総社本町 小社 県社 別表
美作国 美作総社宮 岡山県津山市総社 県社
備前国 備前国総社宮 岡山県岡山市祇園 郷社
備中国 備中国総社宮 岡山県総社市総社 県社
備後国 総社神社 広島県府中市元町 小野神社境内社
安芸国 (推)総社 広島県安芸郡府中町本町
(推)多家神社(合祀) 広島県安芸郡府中町宮の町 名神 県社
周防国 佐波神社(合祀) 山口県防府市惣社町 県社 明治以前は「金切神社」
長門国 (推)総社宮 山口県下関市長府惣社町 忌宮神社別宮
(推)若宮神社(合祀) 山口県下関市長府宮の町
南海道
紀伊国 (推)府守神社 和歌山県和歌山市府中 村社
淡路国 十一明神神社 兵庫県南あわじ市市十一ヶ所 村社
阿波国 (推)八幡総社両神社 徳島県徳島市国府町観音寺 村社
(推)大御和神社 徳島県徳島市国府町府中 小社 県社 元は「印鑰神社」
讃岐国 総社神社 香川県坂出市林田町総社 郷社
伊予国 伊加奈志神社 愛媛県今治市五十嵐 小社 村社
土佐国 総社 高知県南国市国分 郷社 土佐国分寺境内社
西海道
筑前国 (不明)
筑後国 味水御井神社 福岡県久留米市 高良大社境外社
豊前国 惣社八幡神社 福岡県京都郡みやこ町国作総社 郷社
豊後国 (不明)
肥前国 (廃絶)
肥後国 総社神社 熊本県熊本市中央区万町 北岡神社境外社
日向国 都萬神社 宮崎県西都市 小社 県社
大隅国 祓戸神社 鹿児島県霧島市国分府中 村社
薩摩国 (推)九楼守公神社 鹿児島県薩摩川内市宮内町 新田神社境外社
壱岐国 総社 長崎県壱岐市石田町湯岳射手吉触 興神社境外社
対馬国 (不明)

備考

  1. ^ 摂津国総社は難波神社(大阪府大阪市中央区博労町)とする説がある。
  2. ^ 神部神社、浅間神社、大歳御祖神社の三社をまとめて静岡浅間神社と総称される。
  3. ^ 伊豆国総社は三嶋大社(静岡県三島市大社町)が総社を兼ねていたとする説がある。
  4. ^ 甲斐国府は笛吹市春日居町国府→(笛吹市一宮町国分→)笛吹市御坂町国衙と変遷したとされ、2ヶ所に甲斐奈神社がある。のち武田氏が甲府を築くとともに府中八幡宮を造営、機能を移した。
  5. ^ 南房総市府中付近にあった総社が、鎌倉時代に八幡宮と改変し遷座、鶴谷八幡宮となったとされる(鶴谷八幡宮は前身を元八幡に比定)。
  6. ^ 市原市惣社付近にあったとされる総社から、中世以降国府八幡宮の飯香岡八幡宮に機能が移った。
  7. ^ 信濃国府は上田市→松本市と移ったとされており、それぞれに鎮座する。
  8. ^ 越中国総社は気多神社境内にあったとする伝承がある。
  9. ^ 丹後国総社は籠神社(京都府宮津市大垣)が総社を兼ねていたとする説がある。

脚注

  1. ^ 表は、『国史大辞典』諸国総社一覧表を基に、現在の状況を考慮し修正を加えて掲載。

関連項目




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