社内政治とロバート・マクナマラの役割
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「エドセル」の記事における「社内政治とロバート・マクナマラの役割」の解説
エドセルと、当時のフォード・モーター経営陣の一人で後にケネディ・ジョンソン両政権の国防長官を務めたロバート・マクナマラの関係は、エドセルに批判的な多くの人々によりしばしば失敗の要因として言及される。国防長官としてのマクナマラが開発に深く関与したF-111 アードバーク戦闘爆撃機の渾名の一つが「フライング・エドセル」と呼ばれる等、「マクナマラ自身がエドセル計画の推進者であった」という構図は、マクナマラ自身がケネディ・ジョンソン両政権下にて、米国の事実上の敗戦で幕を閉じる事となるベトナム戦争の推進者であった事の批判や世界銀行総裁としての批判と併せて、ザ・タイム等のメインストリーム・メディア(英語版)でもしばしば言及されてきた。しかし、「Disaster in Dearborn: The Story of the Edsel」を著したトーマス・E・ボンソールによれば、それは必ずしも正確な認識では無いとしている。 エドセルの物語の興味深い側面は、社内政治(英語版)が社内のアイデアを潰してしまう事例のケーススタディーとなっている点である。エドセル自体の車両としての完成度とフォード・モーターの楽観的な車両計画が失敗の要因として最も挙げられるものであるが、フォード・モーターの社内資料によれば、エドセルは実際にフォード・モーター経営陣の間における意見の相違の犠牲者となっていた可能性を示している。 第二次世界大戦中に急逝したエドセル・フォードの後継に、フォード・モーターは病床に有ったヘンリー・フォード1世を経営に復帰させるというミスを犯した。ヘンリー1世は既に認知症の症状を呈しており、フォード・モーターは大戦末期には国有化一歩手前の状態まで経営状態が悪化していた。第二次大戦終結後、アメリカ海軍から復員したヘンリー・フォード2世はヘンリー1世の早期の引退を望むエレナー・クレイ・フォードら創業家一族の後押しもあり、急遽フォード・モーターの指揮を執る事となったが、若年故に経営経験が不足していたヘンリー2世を補佐する目的で、ロバート・マクナマラを始めとする"ウィズ・キッズ(英語版)"(神童)と呼ばれる10名の元アメリカ陸軍航空軍の軍人達が採用された。彼ら10人はアメリカ陸軍の若手将校の中でも、戦争の4年間で平時の25年に相当する経験を積んだと評価された最精鋭の管理チームであり、特にマクナマラの米陸軍航空隊時代における兵站や軍需物資の生産管理手法を応用したコスト削減及び抑制のスキルは、戦後崩壊寸前の状況にあったフォード・モーターを立て直す事に貢献した。結果として、マクナマラはフォード・モーター社内で相当な発言力を持つ様になった。実際にヘンリー2世は何か経営上の疑念が生じた時には必ずマクナマラに助言を求め、マクナマラ自身も曖昧な見立てや観測ではなく、具体的な事実と数字に基づく明快な回答を行っていたため、ヘンリー2世はマクナマラに全幅の信頼を置いていたとされている。しかし、マクナマラはGMやクライスラーに対抗する目的で多ディビジョン化を推進していた長老のヘンリー1世の方針とは逆に、同社の他の製品をほぼ完全に排除するかの如くフォード車のマーケティングに専念していた。従って、マクナマラの高度なスキルは同社が製造していたコンチネンタルやリンカーン、マーキュリー、エドセルのブランドの車体の開発やマーケティングには殆ど活用される事はなかった。 マクナマラはコンチネンタル、リンカーン、マーキュリー、エドセルの各部門の独立形成に反対し、エドセル部門設立から僅か4ヶ月後の1958年1月、リンカーン、マーキュリー、エドセルをMEL部門に統合した。彼はまた1958年にコンチネンタル部門を廃止し、リンカーン部門に合併した。彼は続いて、1958年に採用された2種類のホイールベースと独自のボディ構造の除去を目的に、エドセルに照準を合わせた。その結果、1959年のエドセルはフォード車とプラットフォームや内部ボディ構造を共有する事となった。そして、1960年のエドセルはフォード車と僅かに違う姿で登場した。マクナマラは1959年にエドセルの広告予算を削減する方向にフォード・モーター社内を動かし、1960年には実質的に広告予算を廃止するに至った。エドセルを奈落へ突き落とす最終的な打撃は1959年秋に下された。マクナマラはこの時、ヘンリー・フォード2世と残りの経営陣にエドセルが破滅したと確信させ、エドセルの生産終了と部門閉鎖を実行した。マクナマラはまたリンカーン・ブランドの廃止すら検討したが、1960年にアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディにより米国国防長官に指名された事によりフォード・モーター社長を辞任し、1961年にエルウッド・エンゲル(英語版)がリンカーンを再設計した事により、その努力は水泡に帰した。 1964年アメリカ合衆国大統領選挙において、共和党候補のバリー・ゴールドウォーターはマクナマラ国防長官を非難する材料としてエドセルの失敗を槍玉に挙げた。結局、ゴールドウォーターの資金面での援助者であったフォード・モーター元副社長のアーネスト・ブリーチは、米国上院議員向けの説明において「マクナマラ国防長官は、エドセルの企画及び計画のどの部分においても一切関与はなかった。」と弁明する羽目になった。しかし、マクナマラに対するこうした個人攻撃はその後も長年に渡り続く事になった。マクナマラは後に世界銀行の総裁に就任するが、自身に対するエドセルに関連した告発が行われた際には、アーネスト・ブリーチからの弁明書簡のコピーを各報道機関に配布する様、部下に指示していたという。 なお、マクナマラ本人は生前の1997年のニューヨーク・タイムズの電話インタビューにて、自身がエドセルを好んでいなかったという事実関係は認める一方で、エドセルの商品展開に不利益となる干渉を行ったり、部門閉鎖に積極的に関与したという説については否定した。マクナマラは「私がエドセルを非合理的に閉鎖させたと主張する者は、歴史をもう一度見直した方が良い。当時誰であってもエドセルを救済できる可能性は全くなく、また救済されるはずもなかった。何故なら、エドセルは災害であったからだ。」と述べるに留まった。しかしその一方で、エドセルが一般公開される前である1957年8月28日のプレス・プレビューの夕食会の席上、マクナマラは「私はそれらを段階的に廃止する計画を持っている」という発言を行った事が記録されている。マクナマラはエドセル発表の翌日、フォード・モーター副社長に就任し、フォード・モーター製の全ての自動車とトラックの販売に関する権限を握った。マクナマラはエドセル発売の僅か4ヶ月後にMEL部門統合を断行し、1959年にはエドセル・ディーラーの多くを他ディビジョンのディーラーに転換させた。エドセルの拡販を諦めていなかった多くの熱意あるディーラーマンが、この時エドセルの販売から離れていった。自動車ライターのジョセフ・シャーロックはこうした状況を総括し、「まだ乳児であったエドセルを、マクナマラは複数回も突き刺した。これではブランドが生き残れなかったのも不思議ではない。」と評した。 マクナマラがフォード・モーター社内で独自に研究していた事は、シートベルトを始めとする先進的な安全装備、燃費の良い小型の車体、そして後年の自動車排出ガス規制を先取りする様なエミッション・コントロール(英語版)のシステムであった。これらは1950年代のアメリカの自動車産業ではほとんど考慮されていない事であり、シートベルトに至っては装着する事が運転者の運転技術を信頼しない事を意味する侮辱と捉えられる風潮がある状況であった。マクナマラの部下であったリー・アイアコッカの回想によれば、1950年代に排気ガスの排出量について熱弁を振るうマクナマラに対して、それが何を意味しているのか社内の誰も理解できていない状況があったという。また、マクナマラは自身が提唱する安全装備の普及により自動車事故に起因する搭乗者の傷害を半減出来ると信じており、マクナマラの理念が多数盛り込まれた1956年式フォード(英語版)は、同年式のシボレー(英語版)に19万台以上販売台数で差を付けられた。彼を信頼したヘンリー2世ですら、こうした事態に激怒し「シボレーは車を売っているが、マクナマラは安全を売っている。」と周囲の記者に愚痴を零す始末であった。しかし、マクナマラが心血を注いだ1956年式フォードは、1965年に制定された最初の米国連邦自動車安全基準(英語版)を完全にクリアする先進性を有していた。 マクナマラは自動車に対して資産的な価値や蒐集対象、あるいは技術者の理想の具現対象といった思想を持っておらず、飽くまでも「単なる移動手段」としか捉えていなかったが、それ故に自動車が「安価で安全に家族を輸送できるモノ」である事を追究し、大胆なコストカットの提案やそれまでの米国自動車業界で至上とされていた概念を覆す様なアイデアを次々にフォード車に投入した。一例を挙げれば、元々は2人乗りとして出発した初代サンダーバード(英語版)を、1958年式の二代目サンダーバード(英語版)では後部座席を追加した4人乗りに変更し、発売初年度のみでエドセル部門はおろか、初代サンダーバードの1955年から1957年までの総生産台数を上回る販売台数を叩き出した。しかし、こうした彼の自動車に対する姿勢は、しばしばフォード・モーター社内の生粋の自動車業界人とは激しく対立する事になった。実際にマクナマラがケネディにより国防長官に抜擢され、フォード・モーターを去った直後からフォード部門内でも従来のマクナマラの方針に反する設計変更が行われ始め、本来は144立方インチ (2.4 L) または170立方インチ (2.8 L) の直列6気筒スリフトパワーシックスであったフォード・ファルコンは、1963年式にV型8気筒のチャレンジャー260V8 (4.27 L) を搭載した。これは後のマッスルカーに先行する試みであり、ギャラクシー、フェアレーン、カスタムといったマクナマラが関わった1957年式フォードの各車種も、マクナマラがフォード・モーターを去って以降1961年式フォード(英語版)を境に過剰なまでの大排気量化が進んでいった。この後1960年代の10年間、フォード・モーターを始めとするアメリカ車はNASCARの全州的な人気の獲得にも支えられる形で、一時的なマッスルカー及びポニーカー(英語版)全盛期を迎えるが、1970年代初頭の石油危機と共にアメリカ車の大排気量・ハイパワー路線は完全に破滅し、俗にアメリカ車の悪夢の時代(英語版)とも呼ばれる長い低迷期を迎える事となってしまう。また、マクナマラがフォード・モーターを通じて自動車業界に持ち込んだコスト管理の概念は、マクナマラがフォード・モーターを去って以降は、事故で失われる人命に対する賠償金と開発コストを天秤に掛けるというマクナマラ本人の安全思想とは逆の方向に発展していき、アイアコッカが開発指揮を執った1970年のフォード・ピントによりフォード・モーターにとって最悪の結末を迎える事となる。 フォード・モーターの市場調査と社内政治の杜撰さを示す証言は、リー・アイアコッカの指揮下でフォード・マスタングを設計したドナルド・N・フレイ(英語版)によっても成されている。フレイによれば、マスタングなどの成功作においてしばしばフォード・モーター自ら言及する「入念な市場調査により消費者動向を事前に掴んでいた」という発言は正当ではなく、フォード・モーターにおける市場調査の結果は、しばしば実際の車体の発売後に社の内外に公開され、ひどい場合は事後に行われたものをさも発売前に行ったかの様に見せ掛けたり、発表前の市場調査結果を実際の車体の販売状況に合わせて改竄する事すらあったという。フレイはまた、車体開発において現場側の独走が経営陣に追認される事態もしばしばあった事を証言している。実際にマスタングは、エドセルの失敗を深く後悔したヘンリー2世により4度に渡り却下された企画であったが、フレイを始めとする技術陣は経営陣の承認が全く無い不安定な環境の中で秘密裡にマスタングの開発を続け、5度目の提案にて「マスタングが失敗した場合には自らの解雇を受け入れる」事を条件にヘンリー2世の承認を取り付けたという。最終的にマスタングは成功作となり、マスタングのパワートレインは豪州フォード版ファルコンにも流用されて成功を収めた。アイアコッカは「事前の市場調査と自らの先見の明」を自画自賛したが、フレイは「彼らは全体の結果を神聖化する為に、全てを後から書き換えた。あなたが今手にしているフォード・モーターの調査資料は、全くくだらないものでしかない。」と語った。
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