生死を賭しての反撃
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「カロン・ド・ボーマルシェ」の記事における「生死を賭しての反撃」の解説
なぜグズマン夫人が15ルイだけ返還しなかったのか、ボーマルシェはその点が気になっていた。15ルイは書記に与えるためとして要求された金であったが、自身でも以前、友人を介して書記に10ルイを渡そうとしており、中々彼が受け取ろうとしなかったことを知っていたからだ。10ルイでさえ受け取るのに渋るような男が、それに追加して15ルイを受け取ることなどあるだろうか?このように考えたボーマルシェは、早速手紙を認めて返還要請を行うが、夫人からは「書記に与えるために要求した金額であるから、返還の必要はない」との返答があった。この返答を受けて書記に確認した結果、15ルイは書記に渡っていないことが発覚した。 こうしてグズマン夫人の私利私欲から出た行為が明らかとなったわけだが、初めからこの点を利用して反撃しようと考えていたわけではなかったらしい。15ルイといえば精々現在の日本円にしてもおよそ5、6000円程度の少額であり、夫人はそれよりはるかに高額なダイヤモンドを散りばめた時計などをしっかり返還しているのも事実なのであって、この程度の金額に執着するはずもないと考えていたようだ。この件に関して、どのように対処すべきか本屋のルジェに手紙を宛てているが、彼は無礼なことに返事をよこさなかった。それまでボーマルシェは「15ルイ程度の額なら諦めても良いし、ルジェの顔を立てた対応をしても良い」と考えていたようだが、この一件で態度を一変させ、徹底的にこの件を利用することにした。 1773年5月8日、ボーマルシェはついに釈放された。いざ自由を手に入れると、彼はパリのサロンを巡り歩いて、自身が体験したグズマン判事夫妻との一件を面白おかしく話のネタにして見せた。寝耳に水の反撃に驚いたグズマン夫妻は、ボーマルシェを完全に社会的に抹殺すべく、止めを刺そうと動いた。虚偽の陳述書をでっちあげてルジェに署名させ、それを証拠として高等法院に贈賄未遂罪でボーマルシェを告訴したのである。それだけでは不十分と考えたのか、ルジェの友人であった劇作家の証言書を補強として提出するなどの徹底ぶりであった。6月21日、審理が開始され、グズマン判事夫妻を相手にしたボーマルシェの闘争が始まった。ルジェはたしかに上得意客であったグズマン判事に圧されて虚偽の陳述書作成にかかわったが、良心の呵責からその不法行為に苦しんでいた。妻にすべてを打ち明けて相談した結果、裁判で真実を述べるべきと諭され、7月上旬になって法廷で陳述書が虚偽であることを正式に認めた。その結果、ルジェは1か月近く身柄を拘束されて尋問に応じなければならなくなり、ボーマルシェを初めとする関係者も度々召喚命令を受けて、出頭する面倒をこなさなければならなくなった。 この当時の高等法院の慣例では、贈賄罪の審判は非公開で行われ、判決理由の公表も義務ではなかった。しかも、死刑を除くありとあらゆる刑罰の適用が可能であったから、法曹界がその一員であるグズマンを救おうと思えばそれが可能であったし、ボーマルシェの身柄などどうにでも片づけられるのであった。このように、ボーマルシェが仕掛けた闘いは自身にかなり不利な立場でのものであったわけだが、彼にはそれ以外の方法は残されていなかった。すでに控訴審に置いて敗訴が決定した以上、何も手を打たなければ莫大な罰金やら賠償金で立ち直れないほどの打撃を被ってしまう。独り身ならまだしも、彼は父親や妹などの家族を抱える一家の長であり、それだけに勝負に出るほかなかったのだ。 とはいえ、正攻法でまともに闘っては勝ち目が薄い。そこでボーマルシェが考え出した対抗策は、その文才を活かして世論を味方につけることであった。裁判に世間の注目を集めれば、秘密裏に審議を行うわけにもいかなくなるし、判決理由も非公表とはいかなくなるからだ。こうした考えに則って、1773年9月5日、ボーマルシェはこの事件に関する最初の著作『覚え書』を出版した。この『覚え書』は40ページに満たない小冊子で、内容はパーリ=デュヴェルネーとの契約にまつわること、グズマン判事夫妻との一件、裁判でのルジェの偽証などの事実報告と、敵対者たちへの反論で構成されており、これらを喜劇として面白おかしくまとめたものであった。この著作はたちまち話題となり、宮廷貴族から町民に至るまで、あらゆるところで評判になったという。 これに勇気づけられたボーマルシェは、同年11月18日に『覚え書補遺』を発表した。この作品の出版目的は、グズマンが主張する贈賄未遂の非難に対する自身の弁解を世間に広く知らしめることにあった。実際、この裁判の争点は「100ルイとダイヤモンドを散りばめた時計は、何の目的で贈られたのか」の一点のみであって、ボーマルシェとグズマン夫妻はこの点を巡って激しく対立した。ボーマルシェが『覚え書』の公表で世間に広く主張を訴えたのと同様に、グズマン夫人やその取り巻きたちも文書を公表し、激しい誹謗中傷を浴びせた。ところが、肝心のグズマン判事は沈黙を守っていた。遺された資料から判断するに、グズマン夫人は考えの足りない愚かな女であった。夫を庇おうとするあまりに敵対者に有利な証言を行ったりしているわりに、彼女の名義で発表された文書はやたらとラテン語や法律用語の出てくる内容で、明らかに教養ある人物によって認められたものであった。これはおそらく判事が書いたのであろう。これ以外にも先述したように、ルジェを使って虚偽の陳述書を作成したり、黒幕としてうごめいてはいるが絶対に自分の手は汚さない。あくまで被害者として同情を誘う戦略であったのか、他人を盾として安全圏に身を置くつもりであったのか、真意はわからないが、結局この行為は無駄であった。12月23日、グズマンにも召喚命令が発せられ、厳しい尋問が行われることとなったのである。 12月20日、ボーマルシェはこの件に関する3作目の著作『覚え書補遺追加』を発表した。夫妻の取り巻きたちや、グズマン夫人名義で発表された文書に詳細な反論と嘲笑を加え、贈賄罪の疑いに対して決定的な反駁を行った。以下はその抜粋である: たしかにわたしは執拗に拒絶されていた面会を実現するために金を贈った。(中略)人々は公正明大な判事を金銭によって腐敗堕落させられないが、その一方、腐敗堕落した判事に言い分を聞いてもらうためには金銭を使わざるを得ない。ところで、ある判事が公正明大なのか、腐敗しているのかを判断するには、どのような目安に基づいたらよいのだろうか?(中略)少なくとも、金銭を要求されてから、自分の金が先方に届いた途端に招じ入れられたとすれば、腐敗しているのだ、と確信を抱くに決まっているではないか。この場合、元凶はいずれだろう?不幸な犠牲者はどちらだ?海賊に裸にされた旅行者だって、奴隷の状態を脱するにはさらに身代金を払うではないか。それを人々は、彼が海賊を腐敗堕落させたと言うだろうか? この反論に加えて、ボーマルシェはグズマン判事の人間性を暴露するエピソードを『覚え書補遺追加』に加えて発表した。高潔を自負するグズマンはかつて、町民夫婦の娘の洗礼に名付け親として立ちあった際に、偽名と偽住所を用いて受洗証にサインをしていたのだった。それだけにとどまらず「名付け親として養育費を援助する約束を全然履行してくれない」との夫婦の訴えまでもが、添えられていた。カトリックの重要な秘蹟である洗礼に立ち会うという大役を果たしながら、虚偽の事柄を用いて洗礼を穢したという事実は、世間がグズマンの人間性に厳しい目を向けるのに十分すぎる内容であった。 すでにボーマルシェに圧倒的有利な状況が形成されていたが、彼は反撃の手を緩めず、1774年2月10日に『第四の覚え書』を発表した。この覚え書に、スペイン滞在の際の一件を記した『1764年、スペイン旅行記断章』を付している。この作品では法廷描写をメインに、グズマン夫妻の言動を徹底して滑稽に描き、嘲笑し、徹底的にぶちのめす、世間に大受けした冊子であった。3日で6000部が完売し、ボーマルシェは時の人となったのである。彼の人気は、町民の間だけにとどまらなかった。ルイ15世の愛人デュ・バリ夫人は、この作品のボーマルシェとグズマン夫人の法廷でのやり取りを、滑稽な芝居に書き換え、ヴェルサイユ宮殿で何度も上演させて楽しんだという。 第四の覚え書は、文学者や作家からも高い評価を獲得した。ヴォルテールはグズマン夫人の取り巻きと親しかったこともあって、はじめのうちはボーマルシェに好意的でなかったが、発表された『覚え書』や当事者たちの反応を自身で精査するうちにボーマルシェに傾いていき、『第四の覚え書』で完全に彼を支持するに至った。ジャック=アンリ・ベルナルダン・ド・サン=ピエールはボーマルシェをモリエールに比肩する存在であると褒めちぎっているし、ゲーテは『スペイン旅行記断章』に触発され、戯曲『クラヴィーゴ』を制作したと『回想録』において述べている。彼らだけでなく、特に女性たちはボーマルシェを熱烈に支持した。こうして、世論を味方につけるという当初の目的は見事に果たされたが、問題はこれが高等法院の連中に通じるかどうかであった。 1774年2月26日、判決の日を迎えた。この日の裁判は朝6時から開廷された。これは異例の早さであったが、ボーマルシェの策略によってこの裁判並びにその判決に世間の注目が集まってしまったために、高等法院の担当者たちは彼らからの非難を恐れたのだろう。ところがパリ市民たちは続々と集まってきた。すでに午前8時には高等法院の広間は人で埋め尽くされていたらしいが、一向に判決が下される気配がない。判決当日になっても、判事たちはいまだに意見を統一できておらず、激しく議論していたのであった。12時間にわたる議論の末、ついに判決が下された。「グズマン判事は高等法院出入り差し止め。グズマン夫人は譴責処分、15ルイの返却。ボーマルシェは譴責処分と『覚え書』の焼却。」という内容であった。痛み分けのように見えて、実質ボーマルシェの勝利であったが、この判決を聞いた広間の市民たちはすぐに怒りだした。判事たちはそれを予想していたので、各々がこっそり法廷から逃げ帰ったという。ボーマルシェは大衆に温かく迎え入れられ、コンチ大公やシャルトル公爵は彼のために豪勢な宴を開催したとのことである。 『覚え書』の発表は、勝利だけでなく、運命の出会いをももたらした。この作品を読んで感動したスイス系フランス人女性マリー=テレーズ・ヴィレルモーラスは、ボーマルシェと面識はなかったが、彼に会うことを熱望した。2人は音楽を通じて仲を深め、そして恋に落ちたという。彼らは子を儲けたが、ボーマルシェは結婚に関して極めて慎重になっていたから、正式に結婚したのは1786年のことであった。実に12年後のことである。 この判決によってグズマン判事は失脚し、市井に溶け込んで生活していたが、20年後のフランス革命の折に国家反逆罪として断頭台の露と消えた。1794年7月25日のことである。マクシミリアン・ロベスピエール失脚の2日前のことであった。アンドレ・シェニエと同じ囚人護送車に乗せられ、同じ日に処刑されたという。
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