生死を賭しての反撃とは? わかりやすく解説

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生死を賭しての反撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 09:29 UTC 版)

カロン・ド・ボーマルシェ」の記事における「生死を賭しての反撃」の解説

なぜグズマン夫人15ルイだけ返還しなかったのか、ボーマルシェはその点が気になっていた。15ルイ書記与えるためとして要求された金であったが、自身でも以前友人を介して書記10ルイ渡そうとしており、中々彼が受け取ろうとしなかったことを知っていたからだ。10ルイでさえ受け取るのに渋るような男が、それに追加して15ルイ受け取ることなどあるだろうかこのように考えたボーマルシェは、早速手紙認めて返還要請を行うが、夫人からは「書記与えるために要求した金額であるから返還の必要はない」との返答があった。この返答受けて書記確認した結果15ルイ書記渡っていないことが発覚した。 こうしてグズマン夫人私利私欲から出た行為が明らかとなったわけだが、初めからこの点を利用して反撃しようと考えていたわけではなかったらしい。15ルイといえば精々現在の日本円にしてもおよそ5、6000程度少額であり、夫人それよりはるかに高額なダイヤモンド散りばめた時計などをしっかり返還しているのも事実なのであってこの程度の金額執着するはずもないと考えてたようだ。この件に関してどのように対処すべきか本屋ルジェ手紙宛てているが、彼は無礼なことに返事をよこさなかった。それまでボーマルシェは「15ルイ程度の額なら諦めて良いし、ルジェ顔を立てた対応をしても良い」と考えてたようだが、この一件態度一変させ、徹底的にこの件を利用することにした。 1773年5月8日ボーマルシェはついに釈放された。いざ自由を手に入れると、彼はパリサロン巡り歩いて自身体験したグズマン判事夫妻との一件面白おかしく話のネタにして見せた寝耳に水反撃驚いたグズマン夫妻は、ボーマルシェを完全に社会的に抹殺すべく、止めを刺そうと動いた虚偽陳述書でっちあげルジェ署名させ、それを証拠として高等法院贈賄未遂罪ボーマルシェ告訴したのであるそれだけでは不十分と考えたのか、ルジェ友人であった劇作家証言書を補強として提出するなどの徹底ぶりであった6月21日審理開始され、グズマン判事夫妻相手にしたボーマルシェ闘争始まったルジェたしかに上得意であったグズマン判事圧され虚偽陳述書作成かかわったが、良心の呵責からその不法行為苦しんでいた。妻にすべてを打ち明けて相談した結果裁判真実述べるべきと諭され、7月上旬になって法廷陳述書虚偽であることを正式に認めたその結果ルジェ1か月近く身柄拘束され尋問応じなければならなくなりボーマルシェ初めとする関係者も度々召喚命令受けて出頭する面倒をこなさなければならなくなった。 この当時高等法院慣例では、贈賄罪審判非公開行われ判決理由公表義務ではなかった。しかも、死刑を除くありとあらゆる刑罰適用が可能であったから、法曹界がその一員であるグズマンを救おう思えばそれが可能であったし、ボーマルシェ身柄などどうにでも片づけられるのであったこのようにボーマルシェ仕掛けた闘い自身にかなり不利な立場でのものであったわけだが、彼にそれ以外方法残されていなかった。すでに控訴審置いて敗訴決定した以上、何も手を打たなければ莫大な罰金やら賠償金立ち直れないほどの打撃被ってしまう。独り身ならまだしも、彼は父親や妹などの家族抱え一家の長であり、それだけ勝負に出るほかなかったのだ。 とはいえ正攻法まともに闘って勝ち目が薄い。そこでボーマルシェ考え出した対抗策は、その文才活かして世論味方につけることであった裁判世間注目集めれば、秘密裏審議を行うわけにもいかなくなるし、判決理由も非公表とはいかなくなるからだ。こうした考え則って1773年9月5日ボーマルシェはこの事件に関する最初著作覚え書』を出版した。この『覚え書』は40ページ満たない小冊子で、内容パーリ=デュヴェルネーとの契約まつわること、グズマン判事夫妻との一件裁判でのルジェ偽証などの事実報告と、敵対者たちへの反論構成されており、これらを喜劇として面白おかしくまとめたものであった。この著作はたちまち話題となり、宮廷貴族から町民に至るまで、あらゆるところで評判になったという。 これに勇気づけられたボーマルシェは、同年11月18日に『覚え書補遺』を発表した。この作品出版目的は、グズマンが主張する贈賄未遂非難対す自身弁解世間広く知らしめることにあった実際、この裁判の争点は「100ルイダイヤモンド散りばめた時計は、何の目的贈られたのか」の一点のみであってボーマルシェとグズマン夫妻はこの点を巡って激しく対立したボーマルシェが『覚え書』の公表世間広く主張訴えたのと同様に、グズマン夫人やその取り巻きたちも文書公表し激し誹謗中傷浴びせた。ところが、肝心のグズマン判事沈黙守っていた。遺された資料から判断するに、グズマン夫人考え足りない愚かなであった。夫を庇おうとするあまりに敵対者有利な証言行ったりしているわりに、彼女の名義発表され文書はやたらとラテン語法律用語出てくる内容で、明らかに教養ある人物によって認められたものであった。これはおそらく判事書いたであろう。これ以外にも先述たようにルジェ使って虚偽陳述書作成したり、黒幕としてうごめいてはいるが絶対に自分の手汚さない。あくまで被害者として同情を誘う戦略であったのか、他人を盾として安全圏身を置くつもりであったのか、真意わからないが、結局この行為は無駄であった12月23日、グズマンにも召喚命令が発せられ、厳し尋問が行われることとなったのである12月20日ボーマルシェはこの件に関する3作目著作覚え書補遺追加』を発表した夫妻取り巻きたちや、グズマン夫人名義発表され文書詳細な反論嘲笑加え贈賄罪疑いに対して決定的な反駁行った。以下はその抜粋である: たしかにわたしは執拗に拒絶されていた面会実現するために金を贈った。(中略)人々は公正明大判事金銭によって腐敗堕落させられないが、その一方腐敗堕落した判事言い分聞いてもらうためには金銭を使わざるを得ない。ところで、ある判事が公正明大なのか、腐敗しているのかを判断するには、どのような目安基づいたらよいのだろうか?(中略)少なくとも、金銭要求されてから、自分の金が先方届いた途端に招じ入れられたとすれば腐敗しているのだ、と確信を抱くに決まっているではないか。この場合元凶はいずれだろう?不幸な犠牲者はどちらだ?海賊に裸にされた旅行者だって、奴隷の状態を脱するにはさらに身代金を払うではないか。それを人々は、彼が海賊腐敗堕落させたと言うだろうか? この反論加えてボーマルシェはグズマン判事人間性暴露するエピソードを『覚え書補遺追加』に加えて発表した高潔自負するグズマンはかつて、町民夫婦の娘の洗礼名付け親として立ちあった際に、偽名と偽住所用いて受洗証にサインをしていたのだったそれだけとどまらず名付け親として養育費援助する約束を全然履行してくれない」との夫婦訴えまでもが、添えられていた。カトリック重要な秘蹟である洗礼立ち会うという大役果たしながら、虚偽事柄用いて洗礼穢しという事実は、世間がグズマンの人間性厳し目を向けるのに十分すぎる内容であった。 すでにボーマルシェ圧倒的有利な状況形成されていたが、彼は反撃の手緩めず1774年2月10日に『第四覚え書』を発表した。この覚え書に、スペイン滞在の際の一件記した1764年スペイン旅行記断章』を付している。この作品では法廷描写メインに、グズマン夫妻言動徹底して滑稽に描き嘲笑し徹底的にぶちのめす世間大受けした冊子であった3日6000部が完売しボーマルシェ時の人となったのである彼の人気は、町民の間だけにとどまらなかった。ルイ15世愛人デュ・バリ夫人は、この作品ボーマルシェとグズマン夫人法廷でのやり取りを、滑稽な芝居書き換えヴェルサイユ宮殿何度も上演させて楽しんだという。 第四覚え書は、文学者作家からも高い評価獲得したヴォルテールはグズマン夫人取り巻き親しかったこともあって、はじめのうちボーマルシェ好意的でなかったが、発表された『覚え書』や当事者たちの反応自身精査するうちにボーマルシェに傾いていき、『第四覚え書』で完全に彼を支持する至ったジャック=アンリ・ベルナルダン・ド・サン=ピエールボーマルシェモリエール比肩する存在であると褒めちぎっているし、ゲーテは『スペイン旅行記断章』に触発され戯曲『クラヴィーゴ』を制作した『回想録』において述べている。彼らだけでなく、特に女性たちボーマルシェ熱烈に支持した。こうして、世論味方につけるという当初の目的見事に果たされたが、問題はこれが高等法院連中通じかどうかであった1774年2月26日判決の日を迎えた。この日の裁判は朝6時から開廷された。これは異例早さであったが、ボーマルシェ策略によってこの裁判並びにその判決世間注目集まってしまったために、高等法院担当者たちは彼らからの非難恐れたのだろう。ところがパリ市民たちは続々集まってきた。すでに午前8時には高等法院広間は人で埋め尽くされていたらしいが、一向に判決下される気配がない。判決当日になっても、判事たちはいまだに意見統一できておらず、激しく議論していたのであった12時間にわたる議論の末、ついに判決下された。「グズマン判事高等法院出入り差し止め。グズマン夫人譴責処分15ルイ返却ボーマルシェ譴責処分と『覚え書』の焼却。」という内容であった痛み分けのように見えて実質ボーマルシェ勝利であったが、この判決聞いた広間市民たちはすぐに怒りだした。判事たちはそれを予想していたので、各々がこっそり法廷から逃げ帰ったという。ボーマルシェ大衆温かく迎え入れられコンチ大公シャルトル公爵彼のために豪勢な宴を開催したとのことである。 『覚え書』の発表は、勝利だけでなく、運命出会いをももたらした。この作品読んで感動したスイス系フランス人女性マリー=テレーズ・ヴィレルモーラスは、ボーマルシェ面識はなかったが、彼に会うことを熱望した2人音楽通じて仲を深め、そして恋に落ちたという。彼らは子を儲けたが、ボーマルシェ結婚に関して極めて慎重になっていたから、正式に結婚したのは1786年のことであった。実に12年後のことである。 この判決によってグズマン判事失脚し市井溶け込んで生活していたが、20年後のフランス革命の折に国家反逆罪として断頭台の露と消えた1794年7月25日のことである。マクシミリアン・ロベスピエール失脚2日前のことであったアンドレ・シェニエと同じ囚人護送車乗せられ、同じ日に処刑されたという。

※この「生死を賭しての反撃」の解説は、「カロン・ド・ボーマルシェ」の解説の一部です。
「生死を賭しての反撃」を含む「カロン・ド・ボーマルシェ」の記事については、「カロン・ド・ボーマルシェ」の概要を参照ください。

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