八重洲
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八重洲(やえす)は、東京都中央区の町名。隣接する千代田区丸の内・大手町・有楽町、中央区日本橋・京橋とともに、日本最大のオフィス街を構成している。広義では東京駅の東側一帯を指し、駅西側一帯の丸の内と対比される[注釈 1]。八重洲一丁目と八重洲二丁目が設置されている。郵便番号は一丁目が103-0028[2]、二丁目が104-0028[3]。
大手町 | 日本橋本石町 | 日本橋室町 | ||
丸の内 | 日本橋 | |||
八重洲 | ||||
銀座 | 京橋 |
注釈
- ^ 「大丸有」に対して、「日八京」(銀座を含めて「日八京銀」)エリアと総称。
- ^ 江戸時代後期の江戸切絵図では、内濠沿いの道(現在の日比谷通り)に「八代洲河岸(川岸)」の文字が記されている。1849年(嘉永2年)の江戸切絵図(「御曲輪内大名小路絵図」)には、和田倉門から馬場先門にかけての内濠(馬場先濠)沿いの道(現在の日比谷通り)に「八代洲川岸」の文字が見られ[10]、同年の別の切絵図(尾張屋清七版「御江戸大名小路絵図」)では馬場先門の南側の濠沿いの道に「八代洲河岸」の文字が記されている[11]。
- ^ ルイス・ソテロらフランシスコ会宣教師に江戸における宿所を提供していた人物で、1613年8月16日に殉教した(鳥越の殉教)。
- ^ 「八官」については、江戸歴史散歩愛好会『お江戸の名所の意外なウラ事情』(PHP研究所、2008年)が「八官神社」の章で紹介する各説による。オランダ人ハチクワンに求める説は『日本歴史地名大系』(平凡社)が、常珍八官に求める説は武蔵義弘『知られざる東京の史跡を探る』(鳥影社)が唱えており、古川愛哲『「江戸・東京」地名を歩く』(経済界)は「八官」はオランダ人・中国人・韃靼人の意味があると述べているが、隣接してマリアに通じる「丸屋町」があることから「八官町」も「バチカン」と関係するのではないかという推測を述べている。
- ^ 「八代曾河岸」という項目名で立項されており、和田倉門から馬場先門にかけての堀端を指すとする。 八代曾河岸(やよそかし)。わたくらより馬場さきの御濠はたを云。むかしは此所に町屋ありし也。慶長の頃ヤンヨウス、ハチクハンなとといふ異国人きたりしに此辺にてヤンヨウスに町屋敷を下されてよりの名といふ。ハチクワンは八官町にて屋敷を下されける也。又冶容子(ヤヨウス)河岸とも書よし、八代洲とも書。 — 『再校江戸砂子名蹟誌』巻一(須原屋伊八板)、「大下馬より南方 并御堀端東南西北」。
『江戸砂子温故名蹟誌』(国立国会図書館デジタルコレクション) - ^ 耶揚子河岸。彌余子、八代洲、八代曾、八重洲とも書せり。皆仮借の文字なり。【紫一本】に云、昔ヤヨウスと云異国人に、此所にて屋敷を賜りしよりの名なりと。案に『慶長日記』に十九年甲寅九月朔日、阿蘭陀人耶揚子虎子二匹を献ずるよしみへたり。『駿府政事録』同じ。此人なるべし。 — 『御府内備考』巻之七・御曲輪内之五、「屋敷地名并里俗小名」。
『大日本地誌大系』第1巻(雄山閣、1929年)p.134(国立国会図書館デジタルコレクション) - ^ 江戸の北町奉行所は慶長6年(1601年)に呉服橋門内に設置され、以後何度か移転しているが、文化3年(1806年)から幕末まで呉服橋門内(現在の呉服橋交差点南西、東京駅日本橋口付近。千代田区丸の内一丁目)に置かれた。「都旧跡 北町奉行所跡」の解説板が、東京駅の八重洲北口付近(丸の内トラストタワーN館東側)にある。
- ^ 同様に、日本橋川と京橋川の間には、紅葉川も含め舟入堀と呼ばれる9本の運河群があった。これらの運河は紅葉川に先立って埋め立て・短縮された[15][16]。
- ^ 『御府内備考』巻之三。[1]。
- ^ 文久2年(1862年)には2度の火災で江戸城の本丸・二の丸・西の丸御殿が焼失(以後再建されず)。文久3年(1863年)以後、将軍徳川家茂は3度にわたって上洛しており、慶応元年(1865年)の第2次長州征伐で上洛したあと江戸には戻ることなく大坂城で没した。徳川慶喜は将軍在任中に江戸城に入っていない。
- ^ 現在の丸の内二丁目北部は永楽町一丁目であった。
- ^ 1970年の住居表示実施以降は「丸の内」表記となる。
出典
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- ^ “八重洲二丁目・京橋地区”. 中央区. 2020年7月3日閲覧。
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- ^ 「新語も八重ブラ」『日本経済新聞』昭和30年1月21日
- ^ “客引き等の相手方となるべき者を待つ行為を規制する区域の指定について”. 警視庁 (2016年3月11日). 2022年8月27日閲覧。
- ^ 本節での町名の成立年代は『角川日本地名大辞典 東京都』による。
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- ^ “竹久夢二「港屋絵草紙店」ゆかりの地記念碑”. 岡山県 (2009年3月27日). 2020年6月18日閲覧。
- ^ 『日本現今人名辞典』ち1頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年2月10日閲覧。
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