主張と展開
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「1962年6月のアルカトラズ脱獄事件」の記事における「主張と展開」の解説
この脱獄は、1989年に『Unsolved Mysteries』でロバート・スタック(Robert Stack)によるセグメントで調査された。2つの説が試験され、1つは、トライアスリート1人にアルカトラズから本土まで泳がせたことで、もう1つは、経験豊かなカヤッカー3人が、アングリン家の人々とモリスが使用したその場しのぎのいかだのレプリカで同じルートを漕がせたことである。いかだは耐航性がなく、彼らの進行に影のようについていたモーターボート1台に救助されなければならなかったために、いかだ乗り手らが失敗したいっぽうで、泳ぎ手は岸に着くことに成功した。 1993年に、トマス・ケント(Thomas Kent)という名前の元アルカトラズ受刑者はテレビ番組に、自分は脱出を計画するのを手伝った、と語り、捜査官らに「重要な新しい手がかり」("significant new leads")を提供した、と主張した。彼は、クラレンス・アングリンのガールフレンドが浜の男たちに会って彼らをメキシコに連れて行くことを承知した、と言った。彼は泳げないので実際の脱獄への参加を拒否した、と言った。当局はケントの話に懐疑的であった、なぜならばインタヴューのために彼には2,000ドルが支払われていたからである。 引退した元連邦副保安官アート・ロデリック(Art Roderick)は、ジョン・ルロイ・ケリー(John Leroy Kelly)(1993年に死亡)という男を捜査したが、彼は看護師に、長時間にわたる臨終の告白を口述筆記させた。ケリーは、自分と自分のパートナーが湾からモリスとアングリンズをボートに拾いあげ、シアトル・ワシントン地域に運んだ、と主張した。のちに、ケリーと彼のパートナーは、逃亡した受刑者3人をカナダに移送することを装って、彼らの家族が彼らのために集めていた4万ドルを手に入れるために、脱獄犯らを裏切り、謀殺した。ケリーは、生涯にわたる罪悪感を感じて、聖職者に、そして看護師に自分がしたことを告白する義務があると感じた。ロデリックその他は、脱獄犯3人が埋葬されたとケリーが言ったシアトルの場所を見つけた。現場での発掘では骨を掘り起こさなかった。 現代の実験的かつコンピュータシミュレートされた証拠が示唆するのは、試みの最終的な結果は、男たちがいかだで出発した正確な時刻に、そしていかだのてっぺんに座ってパドルを使用しているか、それとも一部浸水していかだにしがみつき主な推進力として脚を使用しているかということに、依存していたかもしれないということである。 ディスカヴァリー・チャンネルの2003年の『怪しい伝説』#Episode 8 – "Alcatraz Escape"は、受刑者らが利用し得るのと同じ材料と道具で作ったいかだに乗って島からの脱出の実現可能性を試験し、それが可能であると判断した。アルカトラズ島脱出後の受刑者らの意図された目的地がエンジェル島であるのとは対照的に、伝説バスターズは、脱獄犯らは潮を使って別の場所に行くと理論づけた。伝説バスターズチームが作り乗り組んだ間に合わせのいかだは、首尾よく湾を横切り、マリン・ヘッドランズ(Marin Headlands)に到着した。スケールテスト(時間のためにカットされしかしのちに「MythBusters #Episode SP4 – "MythBusters Outtakes」で放映)の一部が示しているのは、のちに湾内で見つかった残骸は、受刑者らによって解放され、それらが発見された場所までただよい、湾の潮汐を戦略的に利用して、当局をトレイルまいたかもしれないということである。伝説バスターズは、見つかったパドルは、受刑者らがFBIを服役者らの道からまく方法としてマリンヘッドランズに到着したのちに、エンジェル島方向に湾内にただよいもどった、という考えを探求した。サンフランシスコ湾岸地域の縮尺モデルを使って、もしマリン・ヘッドランズから放流されたならば潮がパドルをエンジェル島方向に流したかもしれないが、脱出がどのように成功したかもしれないかについての彼らの説の場合のように、理論を証明または反証する具体的な証拠は、存在しなかった。 事件がFBIから米国保安局に転送されたとき、全ファイルは、National Geographic Channel の2011年の、『Vanished from Alcatraz』というタイトルのドキュメンタリーで詳細に調べられた。マイケル・ダイク副保安官は、逃亡者のいかだは回収されず、車の盗難も報告されていないというFBIの公式報告書とは対照的に、新たに発見された公式記録のなかに、脱獄の翌日、1962年6月12日にエンジェル島でいかだが発見されたと報告されているのを発見した。足跡がいかだからそれていることも報告された。そのうえ、車1台、1955年の青いシボレー(カリフォルニアナンバープレート付き; KPB-076)が、脱獄の翌日にカリフォルニア州マリン郡(Marin County)で窃盗されたとも報告された。6月12日午前11時30分に、カリフォルニア州ストックトン(サンフランシスコの東80マイル)の運転手がカリフォルニア・ハイウェイ・パトロールに、青いシボレーのなかの男3人にむりやり道からはずれさせられたと報告したいうことも報告された。研究者らはいくらか掘り下げを行い、情報がぜんぜん新しいものではないことを発見した。新聞数紙は実際に、文書の話と一致する車の盗難を報じた。ダイクによれば、エンジェル島の反対側にボート複数がドック入りしていたし、それで受刑者らはそのうちの1つにアクセスして本土に行くことができた。この発見は、当局は3人組が生き残ったことを示唆する証拠を知っていた、そして証拠の隠蔽工作が行われた、という推測を促し、それとともに、男たちは溺死したと宣言し、アルカトラズの評判を「脱出防止」("escape-proof")刑務所として保存するだけでなく、脱獄犯らがリラックスして、見つけやすい目標になることを希望することもできる。『Vanished from Alcatraz』の間、保安官ダイクは「ジョン・ボーンズ・ドウ」の遺体を発掘し、骨のDNAは、モリスの父方の親戚の1人のDNAサンプルと比較された。DNAは一致しなかったし、それで骨はモリスのものではなかった。 その同年に、フランク・モリスのいとこだと主張するバド・モリス(Bud Morris)という89歳の男は、脱獄前に「8、9」("eight or nine")回、自分は、どうやら賄賂として、アルカトラズの看守らに封筒をわたした、と主張した。彼はさらに、逃亡の直後に自分はサン・ディエゴの或る公園でいとこと面と向かって会ったと主張した。当時「8、9歳」("eight or nine")であった彼の娘は、自分は「お父ちゃんの友達フランク」("Dad's friend, Frank")との会合に居あわせたが、「[脱獄について]何もわからなかった」("had no idea [about the escape]")と言った。彼の話と、彼のモリスとの関係は、けっして証明されていない。 逃亡の試みの50周年である2012年に、連邦副保安官マイケル・ダイク(Michael Dyke)は、自分が「事件に関してまだときどきリードを[受け取り]、まだ生きている複数の令状が残っている」("still [receives] leads once in a while regarding the case and there are still active warrants")ことを認めた。その同じ年に、アングリン家の人々の姉妹2人、マリー・アングリン・ウィンダー(Marie Anglin Winder)とミール・アングリン・テイラー(Mearl Anglin Taylor)、およびアングリン家の人々の甥2人、デイビッド(David)およびケネス・ウィドナー(Kenneth Widner)は、アングリン家の人々の同胞(きょうだい)11人のもう1人、1964年にアラバマ州モンゴメリーのキルビー刑務所から脱出しようとして感電死したアルフレッド(Alfred))はじつは捜査官らが自分の兄弟の居所を突き止めるのを助けなかったから看守らに殴り殺されたという考えを公表した。 2014年のデルフト大学(Delft University)の科学者らと Deltares 研究所(research institute Deltares)による海流の研究は、もし受刑者らが6月11日午後11時30分にアルカトラズを発ったならば、彼らはゴールデン・ゲート・ブリッジのすぐ北にあるホースシュー・ベイ(Horseshoe Bay)に進み得たであろうこと、そして湾内に放流された破片は、エンジェル島方向に漂ったであろうし、受刑者らのパドルと所持品が実際に見つかった場所と一致していること、を示している。 2015年のヒストリー・チャンネルのドキュメンタリー『Alcatraz: Search for the Truth』では、アングリン家が長年、収集した状況証拠がさらに紹介された。ケネスとデビッド・ウィドナー(Kenneth and David Widner)はクリスマスカード複数を見せたが、それはアングリンズの手書き文字が含まれており、また逃亡後3年間に家族が受け取ったとされている。手書きがアングリン家の人々のものであることが確認されたいっぽうで、どの封筒も消印を押された切手を含んでいなかったため、専門家はそれらがいつ配達されたのか決定できなかった。一家は、一家の友人フレッド・ブリッツィ(Fred Brizzi)の話を引用したが、彼は兄弟とともに育ち、1975年にリオ・デジャネイロで彼らだとわかったと主張した。彼らは、写真複数を取り出したが、そのなかには、彼らの主張によれば男たちが所有しているブラジルの農場が写っている数枚のみならず、彼らが言うにはブリッツィが撮影した、男性2人が写っている写真を含んでおり、その2人はブリッツィによればジョンとクラレンス・アングリンであり、大きなシロアリの塚の隣に立っている。法医学の専門家らは、写真が1975年に撮影されたことを確認し、男2人はアングリン家の人々である「可能性が非常に高い」("more than likely")と主張した。ブリッツィの話も、代わりの脱獄説を提示した――彼によれば、脱獄犯らは湾を横切るのにいかだを使わず、そのかわりにパドルで島をぐるりとまわってボート・ドックに行き、そこから彼らは電気コードにくっついて逃亡し――電気コードは脱獄当夜、刑務所のドックからなくなっていると報じられていた――真夜中直後に島を出発し本土に航海したとき牽引された刑務所のフェリー・ボートの舵へ、その後、彼らはコードをほどき、目撃者らと元警察官ロバート・チェッキが見たボートまでパドルで行った。ドキュメンタリーの間に、一家は、フロリダ州ラスキンの一家の共同墓地からアルフレッド・アングリンの遺体を掘り出す許可を与えた。ある検死官は、死因はおそらくは感電死であると裏付ける、アルフレッドへの重大な外傷を発見しなかったが、しかし、アルフレッドのDNAは「ジョー・ボーンズ・ドゥー」のサンプルと比較された。それは一致しなかったし、それでそれはアングリン兄弟どちらのものでもなかった。 アングリン家と働いているアート・ロデリックは、2人の男性のブリッツィの写真を「絶対にわれわれがこれまでに得た最高の訴え得る手がかり」("absolutely the best actionable lead we've had,")と呼ばわったが、「それでも、すべてが事実ではないすてきな話になるかもしれない」("it could still all be a nice story which isn't true")と付け加えた。あるいは、写真は、捜査をアングリンの実際のいどころから遠ざけることを目的とする誤った指示であるかもしれない。事件担当の副保安官マイケル・ダイクは、ブリッツィは「麻薬密輸犯でぺてん師」("a drug smuggler and a conman")だと言い、彼の話に懐疑的であった。ブリッツィの未亡人は、自分は、彼がリオでアングリン兄弟を見たと言及するのをいちども聞いていないと宣言しているし、彼女は、彼が物語をでっちあげる傾向がある「ぺてん師」だと率直に認めた。米連邦保安局に勤めるある専門家は、写真の被写体の身体的特徴の測定値を、アングリン兄弟の逮捕写真の測定値と比較した。ただし写真の年齢と状態、および両方の男性がサングラスをかけているという事実は、最終的な決定をする努力を妨げた。 その他の状況証拠には、ロバート・アングリンの臨終の告白もふくまれ、彼は、2010年に家族に、自分は1963年から1987年ころまでジョンおよびクラレンスと接触していたと伝えたと言われている。ロバートが1987年に兄弟との接触を失って以来彼らは何も聞いていないと言った、生き残っている家族は、個人的な調査をおこなうためにブラジルに旅行する計画を発表した。しかし、ロデリックは、彼らはブラジル当局によって逮捕されるかもしれない、なぜならばアルカトラズ脱出が未解決のインターポール事件のままだからだ、と警告した。 アメリカのPBSテレヴィジョン・シリーズ『Secrets of the Dead』の2016年のエピソードでは、潮流データを使用してオランダの科学者3人が試みを再現しようと努めた。彼らは、いかだとパドルの手作りのレプリカを作成して、ホースシュー湾に挑戦したが、彼らはそこをより現実的な着陸地点と考えた。いかだは耐航性がなく、彼らの進行を影のようについて行くモーターボートに救助されねばならなかったために、いかだ乗りらは失敗したいっぽうで、彼らはほとんど岸に着いた。 2018年に、FBIは、ジョン・アングリンによって書かれたとされる手紙1通の存在のために、事件捜査を再開せざるを得ないことを確認した。2013年にサン・フランシスコ警察が受け取った手紙の筆者は、フランク・モリスは2008年に死亡し別名でアレクサンドリアに埋葬された、クラレンス・アングリンは2011年に死亡した、と主張している。アングリンとされる者は、自分は癌をわずらっているとさらに述べ、FBIと取引したがり――医療的治療とひきかえに1年、監禁されようと申し出た。アングリンとのリンクを分析すると、それは決定的ではないとみなされた。保安局は現在も捜査を続けているが、この事件は100回目の誕生日まで脱獄犯3人全員に対して未解決のままになっている。 シリーズ『Mission Declassified』(2019年)のいちエピソードで、調査ジャーナリスト クリストフ・プッツェル(Christof Putzel)が脱獄を調査した。彼らは、アングリン家の人々とモリスによって使用された間に合わせのいかだのレプリカに乗って他の男2人とともにパドルをつかって、3人組が変化する潮のために大きな困難もなくエンジェル島にパドルでついたかもしれないということはもっともらしい、と判断した。プッツェルは、エンジェル島でいかだが発見され、そして1955年に発売された青いシボレーが盗まれたと述べている文書に言及し、何百ものドキュメントをくまなく調べて、脱獄後2、3か月間に国じゅうを走っている同じ特徴記述のシボレーについて言及しているさまざまな報告を発見した。脱獄の2週間後のいち報告によれば、シボレー1台が、オクラホマで脱走者らの人相書きに一致する男らとともに見つけられた、インディアナでシボレー1台が、オハイオでシボレー1台が、そしてサウス・カロライナでは、最初の脱出の3か月後に、アングリン兄弟およびフランク・モリスと人相書きが一致する男3人が、森のなかにあじとを得ようと努めていた。ケネス・ウィドナーにインタヴューして、ウィドナーはモリスについて言わねばならなかった「わたしが或る人々とかわした手紙や会話のなかに、彼が発ったということの、とてもよい徴候がある。彼が行くとわたしが考える場所が聞こえるようなものだ」("in letters and conversations I've had with certain people, there's a very good indication that he left; I did kind of hear where I thought he went".)プッツェルはブラジルのタウバテ(Taubaté)に向かい、同地で彼は「アメリカ人らの農場」("The Farm of the Americans")と呼ばれる農場があることを発見し、住民らは、農場を借り1965年から1970年代までそこに住んだアメリカ人2人を覚えており、エル・デュトラ(El Dutra)と呼ばれる1975年の写真の近くの場所を発見した、写真のなかのものと同様の大きなシロアリの塚を発見した。
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