1962年6月のアルカトラズ脱獄事件とは? わかりやすく解説

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1962年6月のアルカトラズ脱獄事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/30 05:18 UTC 版)

座標: 北緯37度49分36秒 西経122度25分24秒 / 北緯37.82667度 西経122.42333度 / 37.82667; -122.42333

1962年6月のアルカトラズ脱獄事件
脱獄の目的地であるエンジェル島を背景にしたアルカトラズ島
(1962年3月、サンフランシスコ湾)。
日付 1962年6月11日
時刻 午後10:30ころ (UTC-7)[1]
場所 アルカトラズ連邦刑務所
アメリカ合衆国、カリフォルニア州、サンフランシスコ、アルカトラズ島

1962年6月のアルカトラズ脱獄事件June 1962 Alcatraz escape 、1962年のアルカトラズだつごくじけん)は、1962年、アメリカ合衆国太平洋岸のカリフォルニア州サンフランシスコ湾内のアルカトラズ島にある最高水準のセキュリティ施設であるアルカトラズ連邦刑務所からの脱獄事件である。 この事件では、フランク・モリスとジョンおよびクラレンス・アングリン兄弟(Frank Morris and brothers John and Clarence Anglin)の3人の受刑者が独房から脱獄し、いかだで島を脱出した。

サンフランシスコ湾内に入った後の脱獄犯の消息は明らかにされていない[2][3][4]。4人目の受刑者アレン・ウェスト(Allen West)は、残りの人々に加わるのに間に合うように独房を脱出することができず、脱出の試みを中止することを決めた。 この脱獄は、看守らをだますにせの頭部や、即席の道具といかだの制作など、精巧な計画のもとで実行された。1979年に、FBIは正式に捜査を終了し、男たちは陸地に到着しようと努めている間にサン・フランシスコ湾内で溺死したと結論づけた[5][6][7]。しかしながら、保安局は脱獄犯らを指名手配者一覧表に載せつづけている[8][9]。新たな重要な状況証拠が、表面化しつづけており、受刑者がなんとか生き延びたかどうかについてのさらなる研究と議論に燃料を補給している。

これ以前の試み

アルカトラズが連邦刑務所であった29年間で、脱獄の試みは14回あり、関与した受刑者は36人であった[10]。36人のうち23人はふたたび捕らえられ、6人が撃ち殺され、2人が溺死し、5人(3人はモリスとアングリン兄弟、2人はセオドア・コールとラルフ・ローである)が「行方不明で、溺死と推定される」("missing and presumed drowned")と一覧表に載る[11][9]

受刑者

フランク・モリス

フランク・モリス(Frank Morris)

フランク・リー・モリス(Frank Lee Morris、1926年9月1日 - 1962年6月11日失踪)は、ワシントンD.C.に生まれた[12]。彼は子供時代に両親に捨てられ、そして11歳で孤児になり[13]、幼少期の大部分を養家で過ごした。彼は13歳で最初の犯罪で有罪判決を言い渡され、そして10代後半までに麻薬所持から武装強盗に至る範囲の犯罪で逮捕されていた[14][15]。彼は監獄における前半期の大部分を受刑者らに昼食を供して過ごした。彼はさらに年をとったとき、マイアミ・ビーチで、車の窃盗と武装強盗で、重窃盗の容疑で逮捕された[16]。アルカトラズ刑務所の副看守の記録カードは、彼の「関与犯罪」("Crimes Involved")を一覧にしている、「未成年非行-2。家出(あるいは駆け落ち)(Runaways)-2。破壊と立ち入り-1。強盗-1。麻薬と武装強盗-1。不法飛行、マン法(Mann Act)(売春その他の目的で女を他州に移送することを禁止する)、および銀行強盗-1。」("Juv. Deliq.-2; Runaways-2; Breaking & Entering-1; Burglary-1; Narcotics & Armed Robbery-1; Unlawful Flight, Mann Act, & Bank Robbery-1")。伝えられるところによれば、モリスはIQの試験では、人口全体の上位2%内にランクし、IQは133であった[17]。彼はフロリダとジョージアで服役し、その後、銀行強盗のために10年間、服役している間にルイジアナ州刑務所から脱獄した。彼は1年後に、不法目的侵入を犯している間にふたたび捕らえられ、1960年1月20日に受刑者番号 AZ1441 としてアルカトラズに送られた[18]

ジョンおよびクラレンス・アングリン

ジョン・アングリン(John Anglin)
クラレンス・アングリン(Clarence Anglin)

ジョン・ウィリアム(John William)(1930年5月2日 - 1962年6月11日失踪)とクラレンス(Clarence)(1931年5月11日 - 1962年6月11日失踪)のアングリン兄弟は、ジョージア州ドナルソンヴィル(Donalsonville)の13子の一家に生まれた。両親のジョージ・ロバート・アングリン(George Robert Anglin)とレイチェル・ヴァン・ミラー・アングリン(Rachael Van Miller Anglin)は、季節農場労働者であった。1940年代前半に、一家はフロリダ州タンパ(Tampa)を20マイル南にいったところにあるフロリダ州ラスキン(Ruskin)に移住し、そして同地の市場向け野菜園(truck farm)とトマト畑で働いていた。毎年6月に、彼らはミシガンまで北に移住してサクランボを摘み取った。クラレンス・アングリンは左手首には "Zona" のタトゥーがあり、右上腕には "Nita" のそれがあると知られていた[19]

兄弟は、農夫兼労働者として働いた。クラレンスは14歳だったとき、最初にサーヴィス・ステーションに侵入しようとしているところを見つかった[20]。彼らは1950年代前半に、銀行などの施設を狙った集団強盗し始めたが、だれも負傷しないことを確実にするために、通例は閉鎖された目標であった。彼らは、銀行強盗の間に1回だけおもちゃの銃を武器として使ったともしている[21]。彼らはアラバマ州コロンビアのコロンビア銀行支店(Bank of Columbia branch)を襲った後、1958年に逮捕された[22][23]。1958年に、ジョン・アングリンは、おもちゃの銃で、兄弟クラレンスおよびアルフレッドとともに、アラバマ州コロンビアの、コロンビア貯蓄銀行(Columbia Savings Bank Building)を強盗した[23]。両者ともに15年ないし20年の判決を受け、フロリダ州刑務所(Florida State Prison)、リーヴンワース連邦刑務所(Leavenworth Federal Penitentiary)、次にアトランタ刑務所(Atlanta Penitentiary)で服役した[要出典]。兄弟は、アトランタの刑務所からの脱獄に何度も失敗したのち、アルカトラズに移送された[24]。ジョンは1960年10月24日に受刑者 AZ1476 として、クラレンスは1961年1月10日に受刑者 AZ1485 として、到着した[18]

アレン・ウェスト

アレン・ウェスト

アレン・クレイトン・ウェスト(Allen Clayton West、1929年3月25日 - 1978年12月21日[25]は、ニューヨーク市に生まれた。彼は1955年に車を盗んだ罪でアトランタ刑務所に収監され、次にフロリダ州刑務所に収監された。彼はフロリダでの脱獄に失敗したのち、1957年にアルカトラズに移送され、受刑者 AZ1335 になった[18]。ウェストはアルカトラズに移送されたとき28歳で、8年生の教育を受けていた。ウェストは生涯で20回超、逮捕された[26]。1978年12月に、激しい腹部痛に苦しんで、ウェストは、シャンズ・ティーチング病院(Shands Teaching Hospital)に搬送され、12月21日に、急性腹膜炎のために49歳で死亡した[27]

脱獄

脱獄犯の独房 流しの下の換気開口部が広げられている

1961年12月に隣接する房に割り当てられた4人の受刑者は、モリスの主導の下で脱獄計画を立て始めた[10]。それは、彼らがアトランタ刑務所時代からすでに互いを知っていたという相互信頼を保証するのを助けた[28]。その後6か月間にわたって、男たちは刑務所の敷地で見つかった捨てられたのこぎりの刃、食堂からこっそり持ち出した金属製のスプーン、そして真空掃除機のモーターから作った即席の電気ドリルを使って、流しの下の換気ダクトを広げた[9]。男たちは、ペイントしたカードボードの壁で複数の穴の進行を、音楽時間の周囲の騒音に加えてモリスのアコーディオンの大きな音でドリルの音を隠した[28][10]

かつて、それら複数の穴は通り抜けるだけの横幅があったし、脱獄犯らは夜ごと、独房の段々のすぐ後ろに無防備になっているユーティリティ通路に出て、独房棟の空いている最高部に登り、そこで彼らは刑務所スタッフに知られずに秘密の作業場を立ち上げた。ここで、彼らは、盗まれ寄贈された材料の中でもとりわけ50超のレインコートで、縫い目は丁寧に手縫いし、蒸気パイプの熱で密閉した 6 x 14 フィートのゴムいかだだけでなく、彼らの1人が偶然 『Popular Mechanics』で見つけたデザインに基づく、救命具を複数作った。いかだを作った彼らは、ふいごとして機能するように装備されたコンサーティーナでそれを膨らませ、廃材とくすねたねじで必要なパドルを取り付けた。やっとのことで、彼らは屋上ゆきの換気シャフトを登り、途中で重くて扱いにくい換気扇格子1つを見つけてそれを所定の位置に固定するリベット複数を外した[28][10]

モリスの独房から見つかったにせの頭部。1人の看守が横木ごしに伸ばして押すと、頭部がベッドから転がり床に落ち、鼻がこわれた

男たちは石鹸、歯磨き粉、コンクリート粉およびトイレットペーパーを用いて張り子(papier-mâché)の頭部を作り、整備工場メンテナンスショップの塗料と理髪店の床の髪を付けて整えた後、タオル複数と衣類を二段ベッドの毛布の下に重ね、ダミーの頭部を枕の上に置き、眠っているように見せかけた[29]

1962年6月11日夜に、すべての準備が整い、男たちは脱獄を始めた[10]。しかしながら、ウェストのベントの周りのこなごなに崩れかけているコンクリートを補強するために使用されたセメントが固まって穴が小さくなり、格子を本来の場所に固定していた。彼がなんとかして格子を取り外し、出口への穴をふたたび広げたときには、残りの3人はすでに立ち去っており、ウェストはやがて発見されることになった。彼は刑務所の屋上に逃げ(busted out)、日の出ころに独房に戻って寝に就いた。ウェストはつづいて捜査官らに完全に協力し、彼らに脱獄計画の詳細な説明を与え、その結果、その中での自分役割のために刑罰を科されなかった[28]

脱獄犯らの独房群の背後の、ガードされていないユーティリティー通路

サービス通路から、モリスとアングリン兄弟は換気シャフトを屋上まで登った。看守らには彼らがシャフトから脱出したときの大きな音が聞こえたが、それ以上何も聞こえなかったために、騒音の正体は探られなかった。彼らは用具を運びながら、厨房の通気管を50フィート (15 m)滑り降りて地面に降り、それから2つの12-フート (3.7 m)の有刺鉄線の境界フェンスを登った。彼らは、発電所近くの北東の海岸線――刑務所の探照灯と銃塔のネットワークの盲点――でコンサーティーナでいかだを膨らませた。捜査官らの推理では、彼らは午後10時過ぎのある時点で、いかだに乗り、それを進水させ、北方2マイルの目的のエンジェル島(Angel Island)をめざして出発した[28][10]

捜査

FBIの、ジョン・アングリンの指名手配のポスター

脱獄が発見されたのは、ダミー頭部の計略が成功したために1962年6月12日の朝になってからであった[30]。脱獄のとき、刑務所長オリン・G・ブラックウェル(Olin G. Blackwell)は、ナパ郡_のベリエッサ湖(Lake Berryessa)で休暇中で、その男たちが海を生き延びて岸に着いたかもしれないとは考えなかった[31]。複数の軍事および法執行機関の共同努力で、次の10日間、大規模な陸、海、空の調査を実施した。6月14日に、沿岸警備隊のカッターがエンジェル島南岸の約200ヤード (180 m)沖合で浮かぶパドル1つを拾った。同日にほぼ同じ場所で、別のボートの労働者らが、名前複数、住所複数、アングリン家の人々の友人らや親戚らの写真複数が付属した、ビニール袋に包まれた札入れ1つを見つけた[9]。6月21日に、いかだの残骸であると考えられるレインコート素材の断片複数が、ゴールデン・ゲート・ブリッジからそれほど遠くない浜で発見された。翌日に、アルカトラズ島の50ヤード (46 m)沖合で、刑務所のボート1そうが、同じ素材で作られた、空気の抜けた救命胴衣1つを拾い上げた。男たちの行方を裏付ける他の物理的な証拠は、これまで発見されていない[32][28]。また、FBIの最終報告によると逃走に使ったいかだそのものは見つからなかったとされている[10][28]

FBI公務員らは、少なくとも公的には、男たちが溺死したことに肯定的であった[33]。彼らは、「個人の私物は彼らが持っていた唯一の持ち物であり、男たちはそれらを置き去りにする前に溺死していたであろう」("the individuals' personal effects were the only belongings they had, and the men would have drowned before leaving them behind")という事実を引証した。しかしながら、当局が遺体を捜したとき、何も見つからなかった。パトリック・マホニー(Patrick Mahoney)は、アルカトラズと本土とを行き来するランチを営んだが、男たちが死んだということをいくらか疑い、「わたしは彼らがそれをしなかったと感じたが、わたしたちが死体を見つけるだろうと思った。わたしたちは1体の遺体も見つけなかった」("I felt that they didn't make it, but I thought we'd find a body.We didn't find a body.")と話している。連邦保安官(U.S. Marshal)マイケル・ダイク(Michael Dyke)がニュースに語ったように、サンフランシスコ湾で行方不明になった3人に2人の死体は最終的に回収されている[34]。捜査中、サンフランシスコの警察官ロバート・チェッキ(Robert Checchi)は、6月12日午前1時にアルカトラズ近くの湾内で違法なボート1艘を見かけた、と言った。数分後に、ボートはゴールデン・ゲート・ブリッジの下に向かって発った。これが、受刑者らは、船で自分らを拾うために外の共謀者らに協力を求めたかもしれないという推測につながった。捜査の間、FBIはチェッキの話をぼつにした(dismissed Checchi's account out of hand)。

FBIの複数の報告によれば、脱獄の1か月後の1962年7月17日に、ノルウェー船『 Norefjell 』がゴールデン・ゲート・ブリッジから15海里 (28 km; 17 mi)沖合の海上に遺体が1体、浮かんでいるのを発見した。船は遺体を回収せず、10月まで目撃情報を報告しなかった[35]。サン・フランシスコ郡検死官ヘンリー・ターケル(Henry Turkel)は、1か月超のちに遺体がまだ海面に浮いていることのありそうにないことを強調して、これが脱獄犯らの1人であったかもしれないという推測に疑いを投げかけた。そのかわりに、ターケルは、遺体は5日前にゴールデン・ゲート・ブリッジから跳び降り自殺した34歳の失業した銀行員、セシル・フィリップ・ハーマン(Cecil Phillip Herrman)の遺体であったかもしれないと提案した。近隣諸郡の検死官数人が、遺物が脱獄犯の1人に属していたということはあり得ると述べて、ターケルの意見に異議を唱えた[36][37]。人間の骨は、脱出から8か月後に、ポイントレイズ(Point Reyes)に、ゴールデン・ゲート・ブリッジの北方の海岸に打ちあげられて、ノルウェーの船が遺体1体を発見した場所の近くに発見された。骨は回収され、「John Bones Doe」という名前で埋葬された。当時は、骨に関する病理学報告は、それらがモリスの年齢と身長の男に属していたことを示していたが、それ以外では決定的でなかった。

FBIは「男たちがエンジェル島に到着することは理論的には可能であるが、湾の乱流と極寒の水を生きのびる確率は無視できる」という公式見解を示した[10]。公式の否定のラインを支柱で支えるのにおそらく役立ったものとして、FBIの最終報告は、つぎのような開示につづいた、すなわち、ウェストによると、そのような窃盗は非常に近い場所で報告されていないという断定的な主張とともに、脱獄犯らは上陸時に衣類と車1台を窃盗することを計画していた、というものであった[10][28]

余波

アルカトラズ島(2020年撮影)

ウェストのその後

ウェストは、実際の脱獄に参加しない唯一の共謀者であった。彼は換気装置の格子を外した後に独房を出るだけの時間がなかったため、他の3人は彼を置き去りにせざるを得なかった。彼は捜査に完全に協力したので、訴えられることはなかった[38][39]

1963年にアルカトラズが刑務所としての役目を終えた後、ウェストはワシントン州マクニール・アイランド(McNeil Island)に移され、のちに、アトランタ刑務所に戻された。服役したのち、ジョージアとフロリダで2つの判決が続き、彼は1967年に釈放され、翌年にフロリダで再び重窃盗の容疑で逮捕された。1972年10月に、フロリダ州刑務所で、彼は、人種的に動機づけられたのかもしれない事件で、別の受刑者に致命傷を負わせた。その後彼は殺人の有罪判決による終身刑を含む複数の刑に服していたが、1978年に急性腹膜炎で死亡した[25]

類似案件

1962年12月16日に、受刑者ジョン・ポール・スコット(John Paul Scott)は、ゴールデン・ゲート・ブリッジ南端のアルカトラズからフォートポイント(Fort Point)まで2.7海里 (5.0 km; 3.1 mi)の距離を泳ぐことに成功した 。だが、低温症と疲労で苦しんでいるところを、若者らによって見つけられた[40][40]末、レターマン・ジェネラル病院(Letterman General Hospital)に搬送され、すぐにアルカトラズに戻された[41][41]。これはアルカトラズの受刑者が水泳で海岸に到着した唯一の証明された事例である[42][43][44]。スコットの脱獄は、モリス達の時よりもやや不利な条件で行われ、逃走手段も盗んだゴム手袋を膨らませて浮き袋代わりにするという貧弱なものだったが、このモリス達の溺死説が揺らぐ結果となった。こんにちでは、多数のアスリートが、毎年2回開催されるトライアスロン・イベント英語版の1つとして、同じアルカトラズからフォートポイントに至るルートを泳いでいる[45][46]

事件のその後

アトランタで受刑者1人1日あたり3ドルにたいして、1日あたり約10ドルと、他の刑務所よりも運営費がはるかに高く[47]、その上半世紀もの間潮風にさらされたことで建物が老朽化したため、当時の司法長官であるロバート・F・ケネディは1963年3月21日にアルカトラズ刑務所の閉鎖を命じた。

FBIは17年間の調査ののち、1979年12月31日にファイルを閉じた[9]。彼らの公式の発見は、受刑者らは十中八九、エンジェル島に到達しようとしながら、湾の冷たい水で溺死した、彼らが強い海流と華氏50度ないし55度(約摂氏10度ないし約12.8度)の冷たい海水温で海岸まで1.25マイル(約2キロメートル)進んだということはありそうにないというものであった。彼らは、公式ラインを支える証拠として、いかだで見つかった遺物と男たちの私物を引証したが、その公式ラインとは、いかだは、アルカトラズから進水したのち、どこかで壊れて沈んだ、受刑者3人はそのために泳ぎに行こうとしたが、しかしその後、確実に低体温症で死に、彼らの遺体はサンフランシスコ湾の急流によって海に押し流されたというものであった[5][6][7][10]


その後、調査はFBIはから米連邦保安局(U.S. Marshals Service)に引き継がれ、調査は継続されている。2009年に米副保安官マイケル・ダイク(Deputy U.S. Marshal Michael Dyke)は ナショナル・パブリック・ラジオにて以下のように話している。 「生きている令状はあり、保安局は人々を探すことをあきらめていない」("There's an active warrant, and the Marshals Service doesn't give up looking for people.")[48]ダイクはまた、サンフランシスコ湾で行方不明になった人々の3人に2人の遺体が最終的に回収されていると指摘した[34]

目撃報告

男3人の脱獄以来、報告された彼らの多くの目撃情報と、主張された彼らの所在のてがかりがある。脱獄の翌日に、自分はジョン・アングリンであると主張する男が、米連邦保安局との面会を手配するように、サン・フランシスコの弁護士、ユージニア・マッゴーワン(Eugenia MacGowan)に電話した。マッゴーワンが拒否すると、発信者は通話を終了した[49][50]。FBIはいたずらとして通話を片付けた。

1965年1月に、FBIはクラレンス・アングリンがブラジルに住んでいるといううわさを調査した。これはあまりに重要であると考えられたために、係員らが彼を見つけるために南アメリカに派遣されたほどであった。

1967年に男の予想屋が事務局に電話をかけ、自分はモリスとは同窓で、30年間、彼を知っていると主張した。彼は、自分はメリーランド州で彼にでくわしたと言い、彼には「小さなあごひげと口ひげ」("a small beard and moustache")があると説明したが、それ以上の詳細を述べることは拒否した[51]

アングリン兄弟の複数の家族は、長年にわたって、サインされていないポストカードやメッセージを多数、ときおり受け取った。「ジェリー」("Jerry")とサインされたカードが来ることもあれば、「ジェリーとジョー」("Jerry and Joe")とサインされたカードが来ることもあった[52][53]。一家も、うわさによれば1962年に家族の郵便受けで受け取ったとされる、「母へ、ジョンから。メリー・クリスマス」("To Mother, from John. Merry Christmas.")というクリスマスカードを1枚、取り出した。アングリン家の人々の同胞11人の別の1人であるロバート(Robert)も、ときどき電話が鳴り、聞こえるのはもう一方の端で呼吸しているだけだったと言った。 ロバートは言った「いたずらだったんじゃないかと思うが、もしかしたら私の兄弟だったのかもしれない」("I suppose all that could have been pranks, but maybe it was my brothers")[52]アングリア兄弟の母親は、1973年の死亡まで、毎年、母の日に匿名で花を受け取ったし、非常に背が高い、厚化粧した、ふつうでない女2人が彼女の葬式に出席して姿を消したと報じられている[52]。連邦官公吏らは、1960年代の中頃から1970年代にかけて、アングリン兄弟について「6つか7つ」("six or seven")の目撃情報が報告されたと述べており、そのすべてはフロリダ北部またはジョージア州であった。ロバートはまた、1989年にアングリン兄弟の父親が死亡したとき、あごひげを生やした見知らぬ人2人が葬儀の家に姿を現わした、と言った。ロバートによれば、「彼らは数分間、棺の前に立って遺体を見ていた⁠――彼らは⁠⁠。⁠。⁠。涙を流した ⁠――それから、彼らは立ち去った」("They stood in front of the casket looking at the body a few minutes ⁠— they ⁠⁠. ⁠. ⁠. wept ⁠— then, they walked out")と彼は言った[52]

1989年に、「キャシー」("Cathy")とだけ名乗る女が、『Unsolved Mysteries』にコールし、自分はクラレンス・アングリンの写真に見覚えがある、彼はフロリダ州マリアンナ(Marianna, Florida)近くの農場に住んでいる男だと報告した。兄弟はまた、ある女によってその地域と結びつけられたが、彼女は、クラレンス・アングリンの写真に見覚えがあり、彼はマリアンナの近くに住んでいる、と言った。彼女は彼の眼の色、身長その他の身体的特徴を正確に特定した。別の目撃者は、フランク・モリスのスケッチを見てだれだかわかり、彼女がその地域で見た男にいちじるしい類似があると言った[54]

ニューヨーク・タイムズ』ベストセラー作家フランク・M・アハーン(Frank M. Ahearn)によれば、2000年代前半に、米保安局は、アングリン兄弟の1人がブラジルにいるという内報を受け取った。保安局はブラジルに行き、地元のバーテンダーから、兄弟の1人がそこにいるという確証を得た。

マイケル・ダイク元連邦副議長は2009年に National Public Radio に、まだ定期的に手がかりを受け取っていると語った。

主張と展開

この脱獄は、1989年に『Unsolved Mysteries』でロバート・スタック(Robert Stack)によるセグメントで調査された。2つの説が試験され、1つは、トライアスリート1人にアルカトラズから本土まで泳がせたことで、もう1つは、経験豊かなカヤッカー3人が、アングリン家の人々とモリスが使用したその場しのぎのいかだのレプリカで同じルートを漕がせたことである。いかだは耐航性がなく、彼らの進行に影のようについていたモーターボート1台に救助されなければならなかったために、いかだ乗り手らが失敗したいっぽうで、泳ぎ手は岸に着くことに成功した。

1993年に、トマス・ケント(Thomas Kent)という名前の元アルカトラズ受刑者はテレビ番組に、自分は脱出を計画するのを手伝った、と語り、捜査官らに「重要な新しい手がかり」("significant new leads")を提供した、と主張した[55]。彼は、クラレンス・アングリンのガールフレンドが浜の男たちに会って彼らをメキシコに連れて行くことを承知した、と言った。彼は泳げないので実際の脱獄への参加を拒否した、と言った。当局はケントの話に懐疑的であった、なぜならばインタヴューのために彼には2,000ドルが支払われていたからである[28]

引退した元連邦副保安官アート・ロデリック(Art Roderick)は、ジョン・ルロイ・ケリー(John Leroy Kelly)(1993年に死亡)という男を捜査したが、彼は看護師に、長時間にわたる臨終の告白を口述筆記させた。ケリーは、自分と自分のパートナーが湾からモリスとアングリンズをボートに拾いあげ、シアトル・ワシントン地域に運んだ、と主張した。のちに、ケリーと彼のパートナーは、逃亡した受刑者3人をカナダに移送することを装って、彼らの家族が彼らのために集めていた4万ドルを手に入れるために、脱獄犯らを裏切り、謀殺した。ケリーは、生涯にわたる罪悪感を感じて、聖職者に、そして看護師に自分がしたことを告白する義務があると感じた[56]。ロデリックその他は、脱獄犯3人が埋葬されたとケリーが言ったシアトルの場所を見つけた。現場での発掘では骨を掘り起こさなかった[57]

現代の実験的かつコンピュータシミュレートされた証拠が示唆するのは、試みの最終的な結果は、男たちがいかだで出発した正確な時刻に、そしていかだのてっぺんに座ってパドルを使用しているか、それとも一部浸水していかだにしがみつき主な推進力として脚を使用しているかということに、依存していたかもしれないということである。

ディスカヴァリー・チャンネルの2003年の『怪しい伝説』#Episode 8 – "Alcatraz Escape"[58]は、受刑者らが利用し得るのと同じ材料と道具で作ったいかだに乗って島からの脱出の実現可能性を試験し、それが可能であると判断した[28]。アルカトラズ島脱出後の受刑者らの意図された目的地がエンジェル島であるのとは対照的に、伝説バスターズは、脱獄犯らは潮を使って別の場所に行くと理論づけた。伝説バスターズチームが作り乗り組んだ間に合わせのいかだは、首尾よく湾を横切り、マリン・ヘッドランズ(Marin Headlands)に到着した。スケールテスト(時間のためにカットされしかしのちに「MythBusters #Episode SP4 – "MythBusters Outtakes」で放映)の一部が示しているのは、のちに湾内で見つかった残骸は、受刑者らによって解放され、それらが発見された場所までただよい、湾の潮汐を戦略的に利用して、当局をトレイルまいたかもしれないということである。伝説バスターズは、見つかったパドルは、受刑者らがFBIを服役者らの道からまく方法としてマリンヘッドランズに到着したのちに、エンジェル島方向に湾内にただよいもどった、という考えを探求した。サンフランシスコ湾岸地域の縮尺モデルを使って、もしマリン・ヘッドランズから放流されたならば潮がパドルをエンジェル島方向に流したかもしれないが、脱出がどのように成功したかもしれないかについての彼らの説の場合のように、理論を証明または反証する具体的な証拠は、存在しなかった。

事件がFBIから米国保安局に転送されたとき、全ファイルは、National Geographic Channel の2011年の、『Vanished from Alcatraz』というタイトルのドキュメンタリーで詳細に調べられた。マイケル・ダイク副保安官は、逃亡者のいかだは回収されず、車の盗難も報告されていないというFBIの公式報告書とは対照的に、新たに発見された公式記録のなかに、脱獄の翌日、1962年6月12日にエンジェル島でいかだが発見されたと報告されているのを発見した。足跡がいかだからそれていることも報告された。そのうえ、車1台、1955年の青いシボレー(カリフォルニアナンバープレート付き; KPB-076)が、脱獄の翌日にカリフォルニア州マリン郡(Marin County)で窃盗されたとも報告された。6月12日午前11時30分に、カリフォルニア州ストックトン(サンフランシスコの東80マイル)の運転手がカリフォルニア・ハイウェイ・パトロールに、青いシボレーのなかの男3人にむりやり道からはずれさせられたと報告したいうことも報告された[59][57][53]。研究者らはいくらか掘り下げを行い、情報がぜんぜん新しいものではないことを発見した。新聞数紙は実際に、文書の話と一致する車の盗難を報じた[60][61]。ダイクによれば、エンジェル島の反対側にボート複数がドック入りしていたし、それで受刑者らはそのうちの1つにアクセスして本土に行くことができた。この発見は、当局は3人組が生き残ったことを示唆する証拠を知っていた、そして証拠の隠蔽工作が行われた、という推測を促し、それとともに、男たちは溺死したと宣言し、アルカトラズの評判を「脱出防止」("escape-proof")刑務所として保存するだけでなく、脱獄犯らがリラックスして、見つけやすい目標になることを希望することもできる[28]。『Vanished from Alcatraz』の間、保安官ダイクは「ジョン・ボーンズ・ドウ」の遺体を発掘し、骨のDNAは、モリスの父方の親戚の1人のDNAサンプルと比較された。DNAは一致しなかったし、それで骨はモリスのものではなかった。

その同年に、フランク・モリスのいとこだと主張するバド・モリス(Bud Morris)という89歳の男は、脱獄前に「8、9」("eight or nine")回、自分は、どうやら賄賂として、アルカトラズの看守らに封筒をわたした、と主張した。彼はさらに、逃亡の直後に自分はサン・ディエゴの或る公園でいとこと面と向かって会ったと主張した。当時「8、9歳」("eight or nine")であった彼の娘は、自分は「お父ちゃんの友達フランク」("Dad's friend, Frank")との会合に居あわせたが、「[脱獄について]何もわからなかった」("had no idea [about the escape]")と言った[62]。彼の話と、彼のモリスとの関係は、けっして証明されていない。

逃亡の試みの50周年である2012年に、連邦副保安官マイケル・ダイク(Michael Dyke)は、自分が「事件に関してまだときどきリードを[受け取り]、まだ生きている複数の令状が残っている」("still [receives] leads once in a while regarding the case and there are still active warrants")ことを認めた[63]。その同じ年に、アングリン家の人々の姉妹2人、マリー・アングリン・ウィンダー(Marie Anglin Winder)とミール・アングリン・テイラー(Mearl Anglin Taylor)、およびアングリン家の人々の甥2人、デイビッド(David)およびケネス・ウィドナー(Kenneth Widner)は、アングリン家の人々の同胞(きょうだい)11人のもう1人、1964年にアラバマ州モンゴメリーのキルビー刑務所から脱出しようとして感電死したアルフレッド(Alfred))はじつは捜査官らが自分の兄弟の居所を突き止めるのを助けなかったから看守らに殴り殺されたという考えを公表した[50]

2014年のデルフト大学(Delft University)の科学者らと Deltares 研究所(research institute Deltares)による海流の研究は、もし受刑者らが6月11日午後11時30分にアルカトラズを発ったならば、彼らはゴールデン・ゲート・ブリッジのすぐ北にあるホースシュー・ベイ(Horseshoe Bay)に進み得たであろうこと、そして湾内に放流された破片は、エンジェル島方向に漂ったであろうし、受刑者らのパドルと所持品が実際に見つかった場所と一致していること、を示している[64][65]

2015年のヒストリー・チャンネルのドキュメンタリー『Alcatraz: Search for the Truth』では、アングリン家が長年、収集した状況証拠がさらに紹介された。ケネスとデビッド・ウィドナー(Kenneth and David Widner)はクリスマスカード複数を見せたが、それはアングリンズの手書き文字が含まれており、また逃亡後3年間に家族が受け取ったとされている。手書きがアングリン家の人々のものであることが確認されたいっぽうで、どの封筒も消印を押された切手を含んでいなかったため、専門家はそれらがいつ配達されたのか決定できなかった[66]。一家は、一家の友人フレッド・ブリッツィ(Fred Brizzi)の話を引用したが、彼は兄弟とともに育ち、1975年にリオ・デジャネイロで彼らだとわかったと主張した。彼らは、写真複数を取り出したが、そのなかには、彼らの主張によれば男たちが所有しているブラジルの農場が写っている数枚のみならず、彼らが言うにはブリッツィが撮影した、男性2人が写っている写真を含んでおり、その2人はブリッツィによればジョンとクラレンス・アングリンであり、大きなシロアリの塚の隣に立っている。法医学の専門家らは、写真が1975年に撮影されたことを確認し、男2人はアングリン家の人々である「可能性が非常に高い」("more than likely")と主張した[67][68]。ブリッツィの話も、代わりの脱獄説を提示した――彼によれば、脱獄犯らは湾を横切るのにいかだを使わず、そのかわりにパドルで島をぐるりとまわってボート・ドックに行き、そこから彼らは電気コードにくっついて逃亡し――電気コードは脱獄当夜、刑務所のドックからなくなっていると報じられていた――真夜中直後に島を出発し本土に航海したとき牽引された刑務所のフェリー・ボートの舵へ、その後、彼らはコードをほどき、目撃者らと元警察官ロバート・チェッキが見たボートまでパドルで行った[69]。ドキュメンタリーの間に、一家は、フロリダ州ラスキンの一家の共同墓地からアルフレッド・アングリンの遺体を掘り出す許可を与えた。ある検死官は、死因はおそらくは感電死であると裏付ける、アルフレッドへの重大な外傷を発見しなかったが、しかし、アルフレッドのDNAは「ジョー・ボーンズ・ドゥー」のサンプルと比較された。それは一致しなかったし、それでそれはアングリン兄弟どちらのものでもなかった。

アングリン家と働いているアート・ロデリックは、2人の男性のブリッツィの写真を「絶対にわれわれがこれまでに得た最高の訴え得る手がかり」("absolutely the best actionable lead we've had,")と呼ばわったが、「それでも、すべてが事実ではないすてきな話になるかもしれない」("it could still all be a nice story which isn't true")と付け加えた。あるいは、写真は、捜査をアングリンの実際のいどころから遠ざけることを目的とする誤った指示であるかもしれない。事件担当の副保安官マイケル・ダイクは、ブリッツィは「麻薬密輸犯でぺてん師」("a drug smuggler and a conman")だと言い、彼の話に懐疑的であった。ブリッツィの未亡人は、自分は、彼がリオでアングリン兄弟を見たと言及するのをいちども聞いていないと宣言しているし、彼女は、彼が物語をでっちあげる傾向がある「ぺてん師」だと率直に認めた。米連邦保安局に勤めるある専門家は、写真の被写体の身体的特徴の測定値を、アングリン兄弟の逮捕写真の測定値と比較した。ただし写真の年齢と状態、および両方の男性がサングラスをかけているという事実は、最終的な決定をする努力を妨げた[70]

その他の状況証拠には、ロバート・アングリンの臨終の告白もふくまれ、彼は、2010年に家族に、自分は1963年から1987年ころまでジョンおよびクラレンスと接触していたと伝えたと言われている。ロバートが1987年に兄弟との接触を失って以来彼らは何も聞いていないと言った、生き残っている家族は、個人的な調査をおこなうためにブラジルに旅行する計画を発表した。しかし、ロデリックは、彼らはブラジル当局によって逮捕されるかもしれない、なぜならばアルカトラズ脱出が未解決のインターポール事件のままだからだ、と警告した[66]

アメリカのPBSテレヴィジョン・シリーズ『Secrets of the Dead』の2016年のエピソードでは、潮流データを使用してオランダの科学者3人が試みを再現しようと努めた。彼らは、いかだとパドルの手作りのレプリカを作成して、ホースシュー湾に挑戦したが、彼らはそこをより現実的な着陸地点と考えた。いかだは耐航性がなく、彼らの進行を影のようについて行くモーターボートに救助されねばならなかったために、いかだ乗りらは失敗したいっぽうで、彼らはほとんど岸に着いた。

2018年に、FBIは、ジョン・アングリンによって書かれたとされる手紙1通の存在のために、事件捜査を再開せざるを得ないことを確認した。2013年にサン・フランシスコ警察が受け取った手紙の筆者は、フランク・モリスは2008年に死亡し別名でアレクサンドリアに埋葬された、クラレンス・アングリンは2011年に死亡した、と主張している[71]。アングリンとされる者は、自分は癌をわずらっているとさらに述べ、FBIと取引したがり――医療的治療とひきかえに1年、監禁されようと申し出た[71]。アングリンとのリンクを分析すると、それは決定的ではないとみなされた[72]。保安局は現在も捜査を続けているが、この事件は100回目の誕生日まで脱獄犯3人全員に対して未解決のままになっている[57]

シリーズ『Mission Declassified』(2019年)のいちエピソードで、調査ジャーナリスト クリストフ・プッツェル(Christof Putzel)が脱獄を調査した。彼らは、アングリン家の人々とモリスによって使用された間に合わせのいかだのレプリカに乗って他の男2人とともにパドルをつかって、3人組が変化する潮のために大きな困難もなくエンジェル島にパドルでついたかもしれないということはもっともらしい、と判断した。プッツェルは、エンジェル島でいかだが発見され、そして1955年に発売された青いシボレーが盗まれたと述べている文書に言及し、何百ものドキュメントをくまなく調べて、脱獄後2、3か月間に国じゅうを走っている同じ特徴記述のシボレーについて言及しているさまざまな報告を発見した。脱獄の2週間後のいち報告によれば、シボレー1台が、オクラホマで脱走者らの人相書きに一致する男らとともに見つけられた[73]、インディアナでシボレー1台が[74]、オハイオでシボレー1台が[75]、そしてサウス・カロライナでは、最初の脱出の3か月後に、アングリン兄弟およびフランク・モリスと人相書きが一致する男3人が、森のなかにあじとを得ようと努めていた[76]。ケネス・ウィドナーにインタヴューして、ウィドナーはモリスについて言わねばならなかった「わたしが或る人々とかわした手紙や会話のなかに、彼が発ったということの、とてもよい徴候がある。彼が行くとわたしが考える場所が聞こえるようなものだ」("in letters and conversations I've had with certain people, there's a very good indication that he left; I did kind of hear where I thought he went".)プッツェルはブラジルのタウバテ(Taubaté)に向かい、同地で彼は「アメリカ人らの農場」("The Farm of the Americans")と呼ばれる農場があることを発見し、住民らは、農場を借り1965年から1970年代までそこに住んだアメリカ人2人を覚えており、エル・デュトラ(El Dutra)と呼ばれる1975年の写真の近くの場所を発見した、写真のなかのものと同様の大きなシロアリの塚を発見した。

大衆文化

J・キャンベル・ブルース(J. Campbell Bruce)の本 『Escape from Alcatraz』(1963年)は、アルカトラズ島が刑務所がわりになっていた29年間の他の脱出の試みとともに、1962年の脱出を記録している[77]

映画『アルカトラズからの脱出』(Escape from Alcatraz)(1979年)では、クリント・イーストウッドフレッド・ウォードおよびジャック・チボー(Jack Thibeau)が、それぞれフランク・モリス、ジョン・アングリン、クラレンス・アングリンを演じた。ウェスト(チャーリー・バッツ(Charley Butts)という名前の人物に架空化された)はラリー・ハンキン(Larry Hankin)が演じた。

脱獄は、Telepictures 社(今はワーナー・ブラザース所有)が制作した2部構成の1980年のテレビ映画で示された――『Alcatraz: The Whole Shocking Story』、エドローターがモリス役、Louis Giambalvo と Antony Ponzini がアングリン家の人々役で。

Terror on Alcatraz』(1987年)は、モリス役としてアルド・レイが主演し、数十年後にアルカトラズからの脱出現場に戻り、セイフ・デポジット・ボックスの鍵までの地図をもとめて古い独房を探し回る。

脚注

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