【ブラック・シーの戦い】(ぶらっくしーのたたかい)
1993年10月3日から4日にかけ、ソマリア首都モガディシュにおいてアメリカ軍の特殊部隊が遭遇した熾烈な銃撃戦。
内戦の激しかったソマリアでは飢餓が蔓延しており、30万人以上が餓死する深刻な状況となっていた。
このためソマリアにおける平和維持活動(UNOSOM)では、当初平和的支援が目指され、アメリカ海兵隊の警護下で食糧配給が進められた。
ある程度の効果はあったものの、海兵隊の撤収後は再び抗争が激化して食糧の略奪などが恒常化し、焼け石に水であった。
これを反省し、1993年に開始された第2次国連ソマリア活動(UNOSOM2)では、アメリカ軍を中心として、最大勢力であるババルギディル族(アイディド派)を武力制圧することが目標とされた。
通常部隊による任務の達成は非常に困難で、パキスタン兵がアイディド派に惨殺されたり、逆に停戦受け入れのための会合をしていた穏健派に対してアメリカ軍のAH-1Wが突如対戦車ミサイル(TOW)を撃ち込むなどの事件が発生し、事態はさらに悪化。
以後は特殊部隊によるアイディド派幹部の拉致が主な作戦となった。
作戦には陸軍デルタフォース、第75レンジャー連隊、第160特殊作戦航空連隊、海軍SEALs、空軍パラジャンパーなどで構成されたタスクフォース(特殊部隊)が投入された。
8月から特殊部隊の作戦が開始され、武器商人を捕まえるなどの成果を挙げてはいたが、政情の不安定なモガディシュでは情報が錯綜し、国連職員を誤認逮捕したり、9月25日には1機のMH-60Lが撃墜されるなどの問題が相次いだ。
もっとも、アメリカ軍は国連職員の汚職を疑っており、結果としてそれを立件できなかっただけともいわれる。
そのせいもあり、アメリカ軍は国連軍との連携を拒んだものと見られる。
しかし、これが災いしてアメリカ単独でこの作戦を決行したため、後述の救出作戦の際、パキスタン軍の援軍を含めた救出部隊が出発するまで数時間を要した。
しかしアイディド派支配地域であるバカラ・マーケット(別名ブラック・シー)において幹部の会合が開かれるという情報を得た現地司令官のウィリアム・F・ガリソン少将は、ワシントンに対し装甲車とAC-130ガンシップの派遣を要求したが、ワシントンが「あまり目立たせたくない」との判断からこの要求を却下。
代わりにHMMWVに追加装着する簡易型の装甲板を送ってきた(結果的にこの装甲板はソマリア民兵の使用するAK47から発射される7.62mm弾を防ぐことができず、貫通し兵士を負傷させた)。
作戦は「アイリーン作戦」と命名され、10月3日に会合が開かれる建物が確認された直後、発動された。
「アイリーン」という作戦開始コード発動後、会合が行われる建物を制圧、幹部を拘束する任務を帯びたデルタフォース隊員が搭乗する人員搭載型MH-6Jリトルバードと武装に特化したタイプのAH-6Jリトルバード、それに周辺確保・警戒を任務とするレンジャー隊員を乗せたMH-60Lブラックホーク、撤収用のHMMWV、そして護送用のトラックからなる強襲部隊を出動させた。
アイディド派幹部2名を含む捕虜の確保には成功したが、民兵のRPG-7によって2機のMH-60Lが撃墜され、さらに2機のMH-60Lが飛行不能に陥った。
撤収する予定だったアメリカ兵の多くは、墜落機の乗員救助と機密機器爆破の必要から墜落地点へ向かったが、民兵に包囲されて足止めを食らい、篭城戦を強いられた。
篭城したアメリカ軍は一晩中戦い続け、地上部隊の支援のため、リトルバードがミニガンによる機銃掃射とロケット弾攻撃で援護を続けた。
そして翌朝、アメリカ第10山岳師団・パキスタン軍・マレーシア軍の合同チームによって救出されるまでに18名が死亡、多数が負傷した。
一方、ソマリア民兵や民間人の死傷者は500名とも1000名ともいわれる。
(アメリカ側の死者が19名とされる場合があるが、これは撤退時に戦死したマレーシア兵1名、または作戦の3日後に基地への迫撃砲攻撃によって死亡したデルタ隊員1名のいずれかを含めて言ったものと思われる)
戦死者のうち、仲間を救うため自ら絶望的な状況へ降り立っていった2名のデルタ隊員、ゲイリー・ゴードンとランディ・シュガートには、後に名誉勲章が授与された。
この戦いは、ベトナム戦争以降にアメリカ軍が体験した、もっとも激しい銃撃戦といわれている。
また、撃墜されたパイロットの遺体が引きずり回される映像が報道されたこともあいまって、アメリカの世論に大きな衝撃を与えた。
このため、作戦が所期の目的を達成したにもかかわらず、クリントン大統領はソマリアからの撤兵を決断する。
以後アメリカ政府は、直接国益に適わない派兵はおこなわないようになり、翌年のルワンダ大虐殺においても兵を動かさなかった。
アメリカが退いた後のUNOSOM2は武力行使を避けるようになり、1995年に活動を終息させた。
アイディド派を率いていたアイディド将軍も、その翌年には死亡。
以後、ソマリアには暫定政府らしきものが登場するも、独自に復興した北部ソマリランドを除き、依然きわめて不安定な状況にある。
なお、アメリカ軍が苦戦した理由のひとつとして、その指揮命令系統が予想外に脆弱だったことが挙げられる。
高度な装備を持ってはいても、哨戒機や観測ヘリコプターが収集した情報をJOC(統合作戦指揮所)で判断し、それをC2経由で現場に指示するという縦割りの命令系統が、タイムラグを産み、複雑な市街戦に対して迅速に対応できなかったのである。
この戦訓がアメリカ軍に対して、末端の車両までデータリンクを施すC4Iの導入を強力に推し進めた。
また、本戦闘に参加した民兵は、アフガン紛争で旧ソ連軍のヘリコプターを相手に戦った経験のあるアフガン民兵に指導を仰ぎ、
- 本来対戦車用のRPG-7を空に向けて発射しても噴射炎を浴びぬように、事前に地面に穴を掘っておき発射器の後端をその穴に差し入れてから発射すること。
- RPG-7のヒットトゥーキル式の弾頭信管を時限式に換装してヘリコプターを破壊できる可能性を高くする。
などの工夫をして米軍との戦闘に備えてきたため、米軍の最新鋭ヘリコプターがきわめて簡易な対戦車ロケットによって撃墜される結果となった。
民兵の抵抗が激しかったことについては、治安回復という作戦目的がソマリア人に理解されていなかった、という側面もある。
UNOSOMの段階では「食べ物をくれるアメリカ人」という認識であったものが、UNOSOM2初期の無理な作戦により徐々に反米意識を高め、しまいには「アイディド将軍が捕らえられたり、殺されたりしたら、アメリカ軍がソマリア人を大量虐殺する」というデマゴギーまで浸透していたという。
さらには作戦の際には流れ弾も多かったうえに、民兵と住民とが入り乱れていたため、本来戦闘に関係なくとも銃弾に倒れた住民も多数いたと見られている。
このためアイディド派だけでなく、その地域住民まで含めて無謀なまでの徹底抗戦をおこない、死傷者をいたずらに増やす結果となった。
(もっともそのせいもあり、アイディド派の捕虜となったパイロットのマイケル・デュラント准尉を取り戻すためアメリカ軍側が「無条件で捕虜を返還しなければ報復する」と脅したところ、アイディド派はあっさりと返還に応じた)
さらに言えば、特定部族の武力制圧という手段自体が、超大国による内政干渉として拒絶された面も大きい。
食糧援助は望んでも、外力による平和の強制は望んでいない人々が多かったのである。
戦争、特に不正規戦における人心掌握の重要性を示す故事であるが、これが現在のアメリカ軍、特にイラク戦争の戦後処理に活かされているかについては疑問が残る。
余談だが、当時アイディド将軍の息子フセイン・アイディドがアメリカ海兵隊に所属しており、ソマリアへも派兵されていた。
将軍の死後はフセインが跡を継いだが、派閥の分裂が激しく、モガディシュを掌握するには至っていない。
投入された航空機
AH-6 リトルバード 攻撃ヘリ 4機 MH-6 リトルバード 輸送ヘリ 4機 MH-60 ブラックホーク 8機(C2[指揮統制] 1機、デルタ輸送 2機、レインジャー輸送 4機、CSAR[戦闘捜索救難] 1機) OH-58 カイオワ 観測ヘリ 3機 P-3 オライオン 哨戒機 1機 (早川書房 『ブラックホーク・ダウン アメリカ最強特殊部隊の戦闘記録』 マーク・ボウデン著 伏見威蕃訳 より引用)
モガディシュの戦闘
(ブラック・シーの戦い から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/06 00:56 UTC 版)
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モガディシュの戦闘 | |
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戦争:ソマリア内戦 | |
年月日:1993年10月3日-10月4日 | |
場所:モガディシュ市内 バッカラ市場周辺 |
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結果:Habar Gidir(ハウィエ)派の幹部たちの捕縛に成功するも、米軍の損害甚大 | |
交戦勢力 | |
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指導者・指揮官 | |
ウィリアム・ガリソン | 不明 |
戦力 | |
米陸軍デルタフォースC中隊 第75レンジャー連隊第3大隊B中隊 第160特殊作戦航空連隊第1大隊 情報支援活動 第10山岳師団 米海軍SEALs チーム6 米空軍第24特殊戦術飛行隊 パキスタン陸軍 マレーシア陸軍 合計160名 |
民兵1,500-2,000名 |
損害 | |
<アメリカ合衆国> 戦死19名、負傷73名、捕虜1名 MH-60墜落3機(1機は空港に不時着) <マレーシア> 戦死1名、負傷7名 <パキスタン> 戦死1名、負傷2名 |
戦死200-500名[1] 負傷500-812名[2] 捕虜2名 |

モガディシュの戦闘(モガディシュのせんとう)は、1993年10月3日、ソマリアの首都モガディシュにおいてアメリカ軍とソマリア民兵とのあいだで発生し、のちにアメリカがソマリア内戦介入から撤収するきっかけとなった戦闘である。戦闘の激しかった地域の名を取って「ブラック・シーの戦い」とも呼ばれる。
概要
1993年10月3日に統合特殊作戦コマンド(JSOC)の実行した特殊作戦であり、ソマリアで行われたもので、第一目標はソマリア民兵の将軍であるモハメッド・ファッラ・アイディードの側近二人を捕らえることだった。後にこの出来事は世界中のメディアによって『モガディシュの戦闘』と名づけられた。
冷戦の終結と共に始まったソマリア内戦は泥沼化し、戦争による難民の飢餓が国際的な課題となった。国際連合(UN)は難民への食糧援助を行うため、平和維持活動から平和強制活動による軍事的介入を行った。アイディード派による敵対者たちへの軍事的包囲をやめさせ、飢餓状態を救おうとした。
作戦は国連主導のものではなく、米国(当時の大統領はビル・クリントン)が単独で行ったものであった。米軍は作戦を30分程度で終わらせる自信があったが、実際には15時間を費やし、2機のヘリコプターを失い、銃撃戦によって19名の米兵を殺害され(国連軍兵士2名を入れると21名)、ソマリア民兵・市民200名以上(米政府発表は1,000名以上)を殺害した。撃墜された1機目のヘリ「スーパー61」の『We got a Blackhawk down, We got a Blackhawk down(ブラックホークの墜落を確認、ブラックホークの墜落を確認)』という墜落時の交信で有名である。スーパー61が墜落した第一墜落地点は激戦地となった。
1999年、マーク・ボウデンにより'Black Hawk Down: A Story of Modern War'(邦題『ブラックホーク・ダウン アメリカ最強特殊部隊の戦闘記録』早川書房刊)という本として出版され、2001年にはリドリー・スコット監督により、『ブラックホーク・ダウン』として映画化された。
作戦状況
主にレンジャーとデルタフォースから成るアメリカ特殊作戦部隊は、アイディード派の外務大臣オマール・サラッド・エルミン(Omar Salad Elmim)と最高政治顧問モハメッド・ハッサン・エワレ(Mohamed Hassan Awale)を捕らえる事を目的とした作戦コード「アイリーン」を発動した。
作戦計画
作戦コード「アイリーン」
- ナイトストーカーズが航空支援を担当し、以下の機種が投入される。
- MH-60 ブラックホーク
- OH-6 カイユース
- MH-6/AH-6 リトルバード - OH-6の特殊部隊向けモデル。
- 侵入
- 離脱
- ハンヴィーの車両部隊が、全員を収容する。
- ナイトストーカーズが空から支援する。
作戦開始後の数分間、4組のチョーク(積載班、ヘリコプターへの搭乗を前提として編成された戦闘班の意)から成るレンジャーが作戦対象のビルの四隅に展開し、安全地帯を確保する事に成功したものの、ソマリア人の住民や民兵の手により、ハンヴィーで構成された地上部隊が安全地帯に辿り着けないように、岩や火のついたタイヤを用いてモガディシュの通りにバリケードが作られていた。
モガディシュ街路の上空70フィート(約21メートル)でホバリングするヘリコプターからレンジャーおよびデルタフォースが降下、民兵のリーダーたちを捕らえるという任務を順調に達成したが、長時間に渡る遅延の間に、数分後にはソマリア民兵によってMH-60 ブラックホーク1機が撃墜された。
ブラックホークによる急襲部隊と車両から展開した地上部隊は互いを視認できないまま20分間ひたすらに戦線を維持していたが、何とか接触する事に成功する。だが、この直後に2機目のブラックホーク(スーパー64)が撃墜された。この際、デルタフォースの2人の狙撃員、ランディ・シュガート一等軍曹とゲーリー・ゴードン曹長が、近づきつつある民兵たちから負傷したブラックホークのパイロット(マイケル・デュラント准尉)を守るために地上に降下した。民兵の規模や攻撃の危険を知りつつ、また、統合タスクフォース指令センターからヘリにとどまった方がよいと助言されながらも、躊躇することなく地上に降下したその決断力からベトナム戦争以来の名誉勲章を授与された。しかし、両兵士とも数で勝る民兵たちによって殺害されている。


地上部隊はやがて最初の墜落地点に到着した。約90人のレンジャーたちは激しい銃撃によって包囲された。航空支援が十分に受けられない状況下で、次の日の早朝に米軍第10山岳師団やマレーシアとパキスタンの国連部隊が救援に来るまで、レンジャーたちは夜通し戦い続けた。他の国連部隊による救援の計画や調整は作戦の困難さを考慮しながら行われたため、時間がかかった。
兵士たちの話によると、戦闘が続くにつれてアイディード派の民兵たちは兵士を遮蔽するために市民を彼らの前に押し出していた。しかしながら、アメリカ軍兵士が民兵を隠すような市民を何度もためらわずに射殺したため、市民による遮蔽は減った。また、少数の米兵(車両)を多数で挟み銃撃し、その流れ弾による同士討ちも多数目撃されている。
10月4日午前6時30分、米軍は国連のパキスタン・スタジアムに引き上げてきた。米兵18人が死亡・74人が負傷(後に1人死亡)、国連軍兵2人が死亡・9人が負傷していた。
この戦闘は、ソマリアの国連活動の中でアメリカ軍が直面したもっとも激しい市街戦のうちの1つであった。また、この戦いの後、死亡した米兵(上記の降下した2名とブラックホークの乗員)の遺体が裸にされ、住民に引きずり回されるという悲惨な映像が公開され、アメリカのニュース番組で放映された(後に身体を切断された状態で発見される)。これに衝撃を受けたアメリカ国民の間で撤退論が高まった。アメリカ世論を背景にビル・クリントンは1994年、ソマリアからの撤兵を決定したが、この戦闘が平和維持活動から撤退したことの理由の1つとして挙げられている。また、クリントンはこの作戦の痛手によって、その後は地上軍の派遣を渋り、ミサイルや航空機によるハイテク戦争への方向を推し進めていく。
この作戦の所期の目的は達成されたため「作戦上は成功」であったが、当初30分程度で終了する予定の任務が夜をまたいで15時間にもおよび、多くの犠牲を出した。
脚注
- ^ “Anatomy of a Disaster”. Time. (18 October 1993). オリジナルの18 January 2008時点におけるアーカイブ。 19 January 2008閲覧。
- ^ Bowden, Mark (16 November 1997). “Black Hawk Down: A defining battle”. The Philadelphia Inquirer. オリジナルの1 July 2007時点におけるアーカイブ。 25 June 2007閲覧。
関連項目
- ソマリア内戦
- 戦闘一覧
- 市街戦
- 第二次国際連合ソマリア活動
- ブラックホーク・ダウン
- ランディ・シュガート
- ゲイリー・ゴードン
- シュガート級車両貨物輸送艦
- ゴードン級車両貨物輸送艦
- Delta Force: Black Hawk Down - PC、PS2、Xboxにて発売されたFPSゲーム。
- ブラック・シーの戦いのページへのリンク