日中関係史
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近世
豊臣秀吉と明王朝
1573年に室町幕府を京都から追放させた織田信長は延暦寺を焼き払うなど寺社勢力に対しては、政教分離の方針で臨み、また、キリスト教に対しては寛容な政策を採った。信長は本能寺の変で自害、その後山崎の戦いで明智光秀を討って信長の政策を継承した豊臣秀吉は荘園を完全に消滅させ、刀狩で兵農分離を明確にして、生野銀山・石見銀山などの鉱山を直轄した。1587年の九州征伐後はバテレン追放令でキリスト教を禁止とするも、南蛮貿易は積極的に続けた。また、秀吉は日本人の海外交易を統制し、倭寇を禁圧する必要から、1592年に初めて朱印状を発行してマニラ・アユタヤ・パタニになどに派遣したとされる。
日本を統一した秀吉は「征明」を企て、対馬の宗氏を介して明と冊封関係にあった李氏朝鮮に征明への協力を求めたが交渉は決裂したため、1592年に朝鮮半島への侵攻を開始した(文禄の役)。日本軍が平壌を占領しようとすると、明は朝鮮からの要請に応じて、明は平壌を「朝鮮の地であるが、明の領内でもある」とし、明軍の派遣を決定する[20]。明・朝鮮連合軍と日本軍は幾多の戦いを経て膠着。一時休戦をして明との講和を試みるが、交渉は決裂する。秀吉は、1597年の慶長の役で再び出兵するが、翌年に秀吉が死んで日本側は撤兵する。
徳川家康と明王朝
秀吉の死で幼少5歳であった息子の秀頼を五大老が補佐する体制が敷かれる。その中で台頭したのが徳川家康であった。1600年に豊後に漂着したオランダ船に乗り組んでいたヤン・ヨーステンとウィリアム・アダムスを家康は貿易・外交顧問として雇い南蛮貿易を積極的に奨励した[21]。同1600年の関ヶ原の戦いで石田三成が率いる西軍に勝利した家康は、1603年に征夷大将軍に就任して江戸幕府を開く。太平の世の到来で高級衣料である支那絹に対する需要が増大し、明産などの輸入生糸を糸割符仲間に独占購入・販売させる糸割符制を導入、朱印船貿易を実施した。これ以後、1635年まで350隻以上の日本船が朱印状を得て海外に渡航した。明からも民間人が多数来日し、九州を中心に唐人町が形成された。しかし、かつて倭寇に苦しんだ明は日本船と明船の出入港を禁止、文禄・慶長の役で険悪な関係となってからはなおさらであった[22]。両商船は明国官憲の監視が及ばない東南アジア諸港へ合法的に赴いて彼の地で合流、「出会貿易」で明産の生糸や絹を売り買いしていた。明製品以外にも武具に使用される鮫皮や鹿皮、砂糖など東南アジア産品の輸入も行われた。日本からは銀・銅・銅銭・硫黄・刀などの工芸品が輸出された。当時、明では銀が不足していたため朱印船の主要な交易相手である明商人は銀を欲した[23]。しかも当時、日本では石見銀山などで銀が盛産されており、決済手段として最も適していた。
家康は将軍職の世襲制を敷いて1605年に息子の秀忠に職位を譲り、自らは大御所として振舞う。また、薩摩藩の島津氏は武力により首里城を開城させ琉球王国を支配下に置き、廃藩置県後の琉球処分まで琉球は日明(日清)両国に属することになる。1612年に直轄領で禁教令が、翌年には全国へ適用範囲が広がった。大坂の陣で「豊臣氏を滅ぼした」翌年1616年に家康は死去する。
江戸幕府と清王朝
前述のとおり、徳川家康から徳川秀忠の時代にかけては、江戸幕府は明との国交回復及び勘合貿易の再開をもくろんだ。しかし、倭寇や文禄・慶長の役の経緯から日本に警戒心を持つ明に断られ失敗した。徳川家光が3代将軍に就任する頃になると幕藩体制が整うと、江戸幕府は日本を中心とした華夷秩序の編成をもくろみ、海禁(「鎖国」)政策を確立していく。1633年、幕府は長崎奉行に対して、老中が発行する奉書を持つ船以外の海外渡航や帰国を禁止する第一次鎖国令を発令し、1635年にはすべての日本人の東南アジア方面への海外渡航と帰国を禁止する第三次鎖国令が発令されて朱印船貿易は終末を迎えた。1641年にオランダの商館を平戸から出島に移転させることによって、江戸幕府は「鎖国」を完成させた。
一方中国東北部では、1616年にツングース系の女真族が後金を打建て、1636年には清と国号を改め、李氏朝鮮を服属、自らを満洲族と称した。1644年に明を滅ぼし、中国全土を支配下に置いた。その後も明の残党勢力らによる反乱が続いたが、台湾に逃れて抵抗していた鄭成功一族も1683年に滅ぼして台湾を領有することに成功、清は康熙帝・雍正帝・乾隆帝と最盛期を迎える[24]。しかしマテオ・リッチらによるキリスト教伝授などの影響を受けて、1796年から白蓮教徒の乱が起きるとそれを鎮圧するのは漢民族によって組織された郷勇であった。この頃から清は衰退傾向にあったと言える。
「鎖国」政策の中で、オランダ・李氏朝鮮・琉球・蝦夷地と共に交流を続けた清は出島・対馬・琉球・松前を通した定高貿易を行った。江戸幕府は4代将軍家綱の頃から文治政治への転換を図り、1630年に輸入が禁止されたキリスト教関係の書籍を除いて多くの漢籍が輸入された。儒学を研究する木下順庵ら儒学者は待遇を受け、1690年に林羅山は上野にあった孔子廟を湯島聖堂として新設し直したりして朱子学も発展した[25]。大陸の考証学に先立って伊藤仁斎・荻生徂徠らによる古学が興ったり、国学者の本居宣長が「からごころ」に代わって「やまとごころ」を主張したりした。しかし、19世紀に入るとロシア帝国の外交官が通商を求めてきたり、大英帝国・アメリカ合衆国の軍艦が長崎港に侵入したりするようになって[26]、米露の江戸幕府に対する開国要求が強まっていく。
注釈
- ^ 中華民国が台湾省台湾及び周辺の島嶼部(澎湖諸島・金門県・馬祖列島など)を実効支配しているため書類上の存在。
- ^ 解釈が異なる見解については、立憲君主制の項にある注釈の中の記載を参照。
- ^ 全国人民代表大会閉会中に職権を代行する。
- ^ 実際には中国の国政を動かすのは中国共産党であり、共産党の最高指導集団である中央政治局常務委員会が権力を掌握する構造となっており、実権は中国共産党中央委員会総書記が握っている。また、中華人民共和国主席(国家主席)の権限は儀礼的・名誉的なもので、彼らの権力の源泉は支配政党である共産党の総書記職である。
- ^ 日米安全保障条約(いわゆる「日米同盟」)に基づいて在日米軍が駐留。
出典
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- ^ 「夫れ楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国と為る。歳時を以って献見すと云ふ。」
- ^ 「建武中元二年、倭の奴国、貢を献じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南海なり。光武、賜うに印綬を以ってす。安帝の永初元年、倭の国王師升等、生口百六十人を献じ、請見を願う。垣霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐して歴年主なし。」
- ^ 「倭人は帯方の東南大海の中にあり、<省略>旧百余国。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十国。郡より倭に至るには、<中略>邪馬壱国(邪馬台国)に至る。女王の都する所なり。<中略>その国、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。<中略>景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。<中略>卑弥呼以て死す。<省略>更に男王を立てしも、国中服せず。更更相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。<省略>」
- ^ ただしその期間中でも単に「東夷」と記された記事は存在しており、その中に倭国も含まれている可能性は存在するが、それを確かめることはほぼ不可能である。また、高句麗の広開土王碑の碑文には4世紀ごろの日本に関する記述がある。
- ^ 「興死して弟武立ち、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍倭国王と称す。順帝の昇明二年,使を遣はして表を上りて曰く、『封国は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰、躬ら甲冑を環き、山川を跋渉して、寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷(編者注、熊襲・隼人のこと)を服すること六十六国を渡りて海北を平ぐること九十九国。<中略>』と。」
- ^ 仏教が伝来した年には2つの説がある。『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』を根拠とする538年が有力とされているが、『日本書紀』には552年に百済の聖王(聖明王)が欽明天皇に仏像と経典を献上したという記述がある。
- ^ それに関連してこの600年の遣隋使派遣が、603年の冠位十二階や604年の十七条憲法など推古朝の一連の改革に影響を与えたとする見方もある。
- ^ 天皇親政が本格的に始まるのは8・9世紀の桓武天皇・嵯峨天皇の頃である。
- ^ 1072年に白河上皇が院政を始める。
- ^ 倭寇は前期と後期に大別されるが、前期倭寇が活動したのは、室町時代初期で、南北朝時代の動乱により中央の統制がゆるく倭寇も活動し易かった。前期倭寇は、室町幕府や北九州の守護大名の日明貿易の独占、対馬と李氏朝鮮の間の交易再開、朝鮮における李成桂による征討などによって下火になっていく。
- ^ cf. 儒教主義・中華帝国・中華思想
- ^ 明から冊封を受けた後醍醐天皇の息子の懐良は「日本国王良懐」と称した。
- ^ 1432年に宣徳条約で回数などが規定される。遣明船には博多や堺などの有力商人も同乗し、明朝廷の許可を得た商人との間で私貿易が行われていた。
- ^ 中野等『文禄・慶長の役』戦争の日本史16、吉川弘文館、2008年,74頁
- ^ 徳川家康は海外交易に熱心な人物で、1601年以降、安南・スペイン領マニラ・カンボジア・シャム・パタニなどの東南アジア諸国に使者を派遣して外交関係を樹立した。
- ^ 1605年に徳川家康は李氏朝鮮との講和を成立させて、朝鮮通信使を通しての交流が再開した。しかし、6代将軍家宣の時、1711年からは通信使に対する待遇を簡素化する。
- ^ cf. 一条鞭法
- ^ cf. ネルチンスク条約・キャフタ条約・新疆の設置
- ^ cf. 新井白石の正徳の治
- ^ cf. フェートン号事件・異国船打払令・モリソン号事件・蛮社の獄
- ^ 1982年より英中間で香港問題に関する協議が進められ、1984年に中英共同声明で1997年に香港が中国に返還されることが決まった。
- ^ cf. en:Chinese Exclusion Act(華人移民排斥)
- ^ 日本における「中国」の意味の変遷について述べておくと、古代より日本では「中国」の呼称を朝鮮半島南部と一括りにして<から>(韓・加耶・加羅)としていた。その後、長安・洛陽など黄河流域を<から・もろこし>(漢・唐)と呼び、揚州など長江流域を<くれ>呉と呼ぶようになった。唐滅亡以降は、<から>(唐・漢)が一般的な呼称となっていった。
- ^ アメリカとは日米和親条約・日米修好通商条約を結ばされ、日米両国の関係が幕を開けることになる。こうした日本に対する不平等条約の改正問題は、岩倉使節団や井上馨の鹿鳴館に代表される欧化政策などを経て、陸奥宗光が1894年に日英通商航海条約を取り付けたのを契機に解消されていった。また関税自主権が完全に回復されたのは1911年で、小村寿太郎によるものである。
- ^ いわゆる「夷を以て夷を制す」という外交術である。
- ^ cf. 日英通商航海条約
- ^ ロシア帝国の強い意向で三国干渉が行われた結果、遼東半島は清に返還された。そのため「臥薪嘗胆」というスローガンのもと日本世論の対ロシア感情は急激に悪化した。
- ^ cf. 人類館事件
- ^ この時にロシア帝国は遼東半島南部の旅順・大連を、ドイツ帝国は山東半島の膠州湾を租借している。
- ^ 1897年、李氏朝鮮は国号を大韓帝国に改訂し、日韓議定書・桂・タフト協定・日韓保護条約を経て1906年に伊藤博文が韓国統監府の初代統監に就任する。ハーグ密使事件の後、伊藤博文は暗殺されるが、1910年の韓国併合をもって国号が「朝鮮」となり、朝鮮総督府が京城に設置され、日本の朝鮮支配は終戦まで続くことになる。終戦後、朝鮮半島は東西冷戦の構造に組み込まれて、1948年に金日成を中心とした北朝鮮と李承晩を中心とした韓国に分裂した後に朝鮮戦争が勃発することになる。1965年には、佐藤栄作内閣と朴正煕政権が国連の枠組みに準じて日韓基本条約を結んだ。その批准を以って韓国併合が無効になり、韓国政府が「朝鮮にある唯一の合法的な政府」であることを確認して、日韓の国交が樹立された。それに対して当時の中共政府や北朝鮮政府は猛反発した [1]/[2]。日本と朝鮮半島の国際関係の詳細は日朝関係史を参照。
- ^ 中国では、この屈辱を忘れぬと「国恥記念日」を制定している。zh:五九國恥も参照。
- ^ 1905年、孫文は既に現地の華僑の協力も得て中国国民党のもととなる中国同盟会を東京で結成していた。
- ^ 日本の満洲独占に不満を持っていたアメリカは排日移民法を可決させた。
- ^ cf. 田中上奏文
- ^ 日本外交文書デジタルアーカイブ 大正15年(1926年)第2冊下巻
- ^ “『日本外交文書』 昭和期II第一部第四巻(上・下)「上海における日本人水兵射殺事件」”. 外務省. 2011年10月8日閲覧。
- ^ 日本外交文書デジタルアーカイブ 昭和期II第1部 第5巻 上巻. 外務省. p. 657 2011年10月5日閲覧。
- ^ 当時描かれた漫画の『のらくろ』などでは「日本=犬」、「中国=豚」と読み取れる戦争シーンが出てくる。そこでは豚は貪欲で犬の利権を侵害したために、犬によって懲らしめられる、とされている。戦後の台湾でも中国大陸から来た中国国民党による統治が日本と比べあまりにも酷かったことから「犬(日本)が去って豚(国民党)が来た」と言われた
- ^ 英国は香港・マレー半島、オランダはインドネシアに利権を持っていた。当時の日本はアメリカに石油を依存していたため、アメリカによる石油禁輸措置は日本に多大なダメージを与えた。
- ^ オーストラリアやイギリス領インド帝国なども、イギリス連邦の一員として日本軍と戦った。日豪関係#対日感情・日蘭関係#歴史#オランダとの戦争・日蘭関係#歴史#日蘭友好関係の復活も参照。
- ^ cf. 連合国軍占領下の日本・敵国条項
- ^ cf. 台湾問題・外省人
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- ^ cf. 小笠原諸島・沖ノ鳥島・排他的経済水域
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