飛躍の時代
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1964年 原潜闘争で飛躍(学)。 1965年 社青同全国学生班協議会解放派(学)と東京解放派(労)が結成。 日韓闘争(労学)、早大闘争(学)を主導。 1965年7月 都学連をブントや中核派とともに再建(学)。 1966年 全学連をブントや中核派とともに再建(学)。 1966年 東交反合理化闘争を主導、社青同東京地本の中軸となる(労)。 1966年9月3日 社青同東京地本大会で解放派と協会派が衝突(九三事件)。社青同中央を握る社会主義協会派により東京地本が分裂され、東京地本は独立する(樋口圭之介委員長)。全国各地は各地本内部で、主導権を争いながら共闘している(労)。 1968年 東大闘争の主軸を担う(学)。 1968年12月 革マル派が早大文連及び早祭実支配のため、解放派メンバーを襲撃。解放派は早大より追いだされる。延長戦として、1月、東大闘争のさなか、駒場の解放派も襲撃する。 70年安保に向かう、ベトナム反戦運動の高揚の中で、反戦青年委員会が当初は、社会党・総評の主導で結成される(社会党青年局長であった高見圭司が中心であった)が、「反戦」の主導権は次第に新左翼のほうに移っていく(労)。 1969年9月 革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)が結成される。 革労協結成をめぐっては、(社会党都本部の三分の一を占めるほどの)反戦派の内、解放派の初期メンバーが中心になって結成した社会党内グループである「革同」(社会党革命同志会)との分岐の問題があった。ドイツ革命期における、早期の新党結成か、ぎりぎりまで社民内分派闘争を追及するか、と同様の問題である。「社民内外を貫く公然たる分派の形成」との表現は、この二面の止揚なのか妥協なのか。学生運動では数年前から事実上、単独党派として活動しているので、このあたりの問題にリアリティーが薄い。これは後の狭間派の分離の伏線でもあるという意見もある。 1969年 68年に三派全学連から中核派が離脱した後のいわゆる反帝全学連が機能停止に陥っていた中、「プロレタリア統一戦線の一翼としての全学連運動」をかかげた第二十回定期全国大会を開催し、ここに解放派系全学連が誕生した。初代委員長は早稲田大学の石橋興一。 1969年10月11月決戦 (当時の首相佐藤栄作の訪米阻止に向けた一連の闘争)。日本生産性本部、日本工業倶楽部、総理大臣官邸、自民党本部、NHKに突入。 1969年11月13日 銀座駅の周辺の地下街でデモを行った後、銀座駅、泉岳寺駅で火炎瓶を投擲するテロを発生させる。通行人や乗客ら16人が巻き込まれて火傷などの重軽傷を負う。 1970年5月 社会党都本部占拠 1970年6月 安保決戦(工場からの反乱を政府中枢へ) 1970年11月 社会党大会、13名の除名に対する抗議闘争 1971年2月 協会向坂派系執行部が社青同第10回大会を単独開催。解放派系地本はこれを認めない声明を発表する。 1971年3月 パリ・コミューン百周年集会を全国各地で開催。 1971年5月30日 集会場で中核派系の全国部落研と衝突、以降組織全体で部落解放運動に関わる。 1971年6月 参議院選挙全国区に高見圭司が立候補14.6万票(次々点。1977年までに1人が任期途中で死亡したため、次点に繰り上げ)を獲得。選挙時のスローガンは「議会にゲリラを!」だった。 1971年9月、解放派系地本、同盟員は神奈川大学で独自に社青同第10回大会を開催、樋口圭之介を委員長とする執行部を選出。これ以後解放派組織は革労協と社青同の二本立てとなる。
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飛躍の時代
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「市川團十郎 (9代目)」の記事における「飛躍の時代」の解説
市川宗家に戻って九代目團十郎を襲名した後も、團十郎はしばらくの間は河原崎座との縁が切れなかった。河原崎座はその名を改め新堀座となっていたが、義理の甥の八代目権之助に座元の任は重く、すぐに経営難に陥って團十郎に泣きついたのである。團十郎は結局新堀座の座元を兼ねて借財を背負わなければならなかった。だが、1876年(明治9年)に十二代目 守田勘彌に招かれて新富座に出勤した頃からようやく芸が伸び始める。負債の埋め合わせのために地方回りをすることもたびたびあった。1877年(明治10年)に西南戦争が起こるとそれを題材とした『西南雲晴朝東風』で西郷隆盛を演じ、大当たりした。 文明開化の時代にあって、明治19年に学者や政治家が集まった演劇改良会による演劇改良運動が起こり、従来の荒唐無稽な歌舞伎への反省から歌舞伎の革新を志し、団十郎も学術関係者や文化人と組んで時代考証を重視した演劇に取り組んだ。海外の演劇事情を知るため、欧米視察も考えた。これがやがて「活歴」と呼ばれるようになる一連の演目を世に出すことになった。しかし観客の支持は得られず、興行的には散々だった。それ以降は古典作品の型の整備に取り組んだ。 1887年(明治20年)には演劇改良運動の一環として、明治天皇の御前で初の天覧歌舞伎を催すという栄誉に浴し、『勧進帳』の弁慶などを勤めた。この天覧歌舞伎は外務大臣・井上馨邸で開催されたが、九代目は井上のほかにも演劇改良会を通じて伊藤博文や松方正義などの元老とも交流を持ち、歌舞伎俳優の社会的地位の向上につとめた。 1889年(明治22年)、歌舞伎座が開場、先任者の守田勘彌は座頭に九代目を招いた。ここでも活歴を演じたたため客足が伸びず、おっぺけぺー節で一世を風靡していた川上音次郎の一座が歌舞伎座を使うこととなり、九代目は明治座に退いた。音二郎一座が海外公演に出たのち再び歌舞伎座に招かれた際には、川上に汚された舞台に鉋をかけることを要求したという。活歴を諦め再び歌舞伎に立ち戻った九代目は1893年(明治26年)に『勧進帳』で人気を回復。この頃から九代目は五代目 尾上菊五郎・初代 市川左團次らとともに東京の劇界を盛り上げ、「團菊左」と呼ばれる明治歌舞伎の黄金時代を築いた。またこの時期に作者・河竹黙阿弥を得て『北条九代名家功』(高時)、『極付幡随長兵衛』(湯殿の長兵衛)、『天衣紛上野初花』(河内山)、『船弁慶』、『大森彦七』などを完成し、また福地桜痴と組んで『春興鏡獅子』『侠客春雨傘』などを創り上げるなど、数多くの名作を残した。また父・七代目の撰した「歌舞伎十八番」18種を補足するかたちで、自らの得意芸を多く盛り込んだ「新歌舞伎十八番」32〜40種も撰している。 晩年は『娘道成寺』の白拍子花子をオルガンやバイオリンの伴奏で勤めたりして、最後まで新しい歌舞伎を追求していた。後進の指導にもあたり、十五代目 市村羽左衛門、五代目 中村歌右衛門、初代 中村鴈治郎、七代目 松本幸四郎、六代目 尾上菊五郎、初代 中村吉右衛門などの有望な若手を育てた。
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