飛躍の時代とは? わかりやすく解説

飛躍の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 00:56 UTC 版)

社青同解放派」の記事における「飛躍の時代」の解説

1964年 原潜闘争飛躍(学)1965年 社青同全国学生協議会解放派(学)東京解放派(労)結成日韓闘争(労学)、早大闘争(学)主導1965年7月学連ブント中核派とともに再建(学)1966年 全学連ブント中核派とともに再建(学)1966年 東交合理化闘争主導社青同東京地本中軸となる(労)1966年9月3日 社青同東京地本大会で解放派協会派が衝突(九三事件)。社青同中央を握る社会主義協会派により東京地本分裂され、東京地本独立する樋口圭之介委員長)。全国各地各地本内部で、主導権争いながら共闘している(労)1968年 東大闘争主軸を担う(学)1968年12月 革マル派早大文連及び早祭実支配のため、解放派メンバー襲撃解放派早大より追いだされる延長戦として、1月東大闘争のさなか、駒場解放派襲撃する70年安保に向かう、ベトナム反戦運動高揚の中で、反戦青年委員会当初は、社会党総評主導結成される社会党青年局長であった高見圭司中心であった)が、「反戦」の主導権次第新左翼のほうに移っていく(労)1969年9月 革命労働者協会社会党社青同解放派)が結成される革労協結成めぐっては、(社会党本部三分の一占めるほどの)反戦派の内、解放派初期メンバー中心になって結成した社会党グループである「革同」(社会党革命同志会)との分岐問題があった。ドイツ革命期における、早期新党結成か、ぎりぎりまで社民内分闘争追及するか、と同様の問題である。「社民内外を貫く公然たる分派形成」との表現は、この二面止揚なのか妥協なのか。学生運動では数年前から事実上単独党派として活動しているので、このあたりの問題リアリティーが薄い。これは後の狭間派分離伏線でもあるという意見もある。 1969年 68年に三派全学連から中核派離脱した後のいわゆる反帝全学連機能停止に陥っていた中、「プロレタリア統一戦線一翼としての全学連運動」をかかげた第二十回定期全国大会開催し、ここに解放派全学連誕生した初代委員長早稲田大学石橋興一。 1969年10月11月決戦当時首相佐藤栄作訪米阻止向けた一連の闘争)。日本生産性本部日本工業倶楽部総理大臣官邸自民党本部NHK突入1969年11月13日 銀座駅周辺地下街デモ行った後、銀座駅泉岳寺駅火炎瓶投擲するテロ発生させる通行人乗客16人が巻き込まれ火傷などの重軽傷を負う。 1970年5月 社会党本部占拠 1970年6月 安保決戦工場からの反乱政府中枢へ) 1970年11月 社会党大会13名の除名対す抗議闘争 1971年2月 協会向坂派執行部社青同第10回大会単独開催解放派地本はこれを認めない声明発表する1971年3月 パリ・コミューン百周年集会全国各地開催1971年5月30日 集会場中核派系全国部落研と衝突以降組織全体部落解放運動関わる1971年6月 参議院選挙全国区高見圭司立候補14.6票(次々点。1977年までに1人任期途中で死亡したため、次点繰り上げ)を獲得選挙時のスローガンは「議会ゲリラを!」だった。 1971年9月解放派地本同盟員神奈川大学独自に社青同第10回大会開催樋口圭之介を委員長とする執行部選出。これ以後解放派組織革労協社青同二本立てとなる。

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飛躍の時代

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市川團十郎 (9代目)」の記事における「飛躍の時代」の解説

市川宗家戻って九代目團十郎襲名した後も、團十郎しばらくの間河原崎座との縁が切れなかった。河原崎座はその名を改め新堀となっていたが、義理の甥の八代目之助に座元の任は重く、すぐに経営難に陥って團十郎泣きついたのである團十郎結局新堀座の座元兼ねて借財背負なければならなかった。だが、1876年明治9年)に十二代守田勘彌招かれ新富座出勤したからようやく芸が伸び始める。負債埋め合わせのために地方回りをすることもたびたびあった。1877年明治10年)に西南戦争が起こるとそれを題材とした『西南雲晴朝東風』で西郷隆盛演じ大当たりした文明開化時代にあって明治19年学者政治家集まった演劇改良会による演劇改良運動起こり従来荒唐無稽な歌舞伎への反省から歌舞伎革新志し団十郎学術関係者文化人組んで時代考証重視した演劇取り組んだ海外演劇事情を知るため、欧米視察考えた。これがやがて「活歴」と呼ばれるうになる一連の演目世に出すことになった。しかし観客支持得られず、興行的に散々だったそれ以降古典作品の型の整備取り組んだ1887年明治20年)には演劇改良運動一環として明治天皇御前で初の天覧歌舞伎を催すという栄誉浴し、『勧進帳』の弁慶などを勤めた。この天覧歌舞伎外務大臣井上馨邸で開催されたが、九代目井上のほかにも演劇改良会を通じて伊藤博文松方正義などの元老とも交流持ち歌舞伎俳優社会的地位の向上つとめた1889年明治22年)、歌舞伎座開場先任者の守田勘彌座頭九代目招いた。ここでも活歴演じたたため客足伸びず、おっぺけぺー節で一世を風靡していた川上音次郎一座歌舞伎座を使うこととなり、九代目明治座退いた。音二郎一座海外公演出たのち再び歌舞伎座招かれた際には、川上汚され舞台に鉋をかけることを要求したという。活歴諦め再び歌舞伎に立ち戻った九代目1893年明治26年)に『勧進帳』で人気回復この頃から九代目五代目 尾上菊五郎初代 市川左團次とともに東京劇界盛り上げ、「團菊左」と呼ばれる明治歌舞伎黄金時代築いた。またこの時期作者河竹黙阿弥得て北条九代名家功』(高時)、『極付幡随長兵衛』(湯殿の長兵衛)、『天衣紛上野初花』(河内山)、『船弁慶』、『大森彦七』などを完成し、また福地桜痴組んで春興鏡獅子『侠客春雨傘』などを創り上げるなど、数多く名作残した。また父・七代目の撰した「歌舞伎十八番18種を補足するかたちで、自らの得意芸を多く盛り込んだ新歌舞伎十八番3240種も撰している。 晩年は『娘道成寺』の白拍子花子オルガンバイオリン伴奏勤めたりして、最後まで新しい歌舞伎を追求していた。後進の指導にもあたり、十五代市村羽左衛門五代目 中村歌右衛門初代 中村鴈治郎七代目 松本幸四郎六代目 尾上菊五郎初代 中村吉右衛門などの有望な若手育てた

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