飛躍の天理大学時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/07 05:39 UTC 版)
1962年の4月に天理大学柔道部に入部するも、実力の劣る湊谷は、実力ごとにAからDまでクラス分けされた中の最低ランクDに分類され、監督・コーチ陣からは名前すら覚えて貰えなかった。また、長身細身の体格から“ホネ”と揶揄され、先輩からは柔道部特有の"かわいがり"(いわゆるシゴキ)を受けた。一日に3-4回(最高で11回)は絞め落とされたそうである。この頃のことを湊谷は、「何度も退部を考えた事はあったが、生活費を工面してくれる兄や貧しいながらも学費を捻出してくれた父の事が頭をよぎり、負け犬となって富山に帰るわけにはいかなかった」と述懐している。 体格で劣る湊谷は従来の練習に加え、筋力トレーニングや走り込み、1人打ち込みなど自主トレーニングを遮二無二こなし、2年生の夏になるとブルース・リーのように細いながらも筋肉質の体を手に入れた。この頃には背筋力も200kgを越え、3年生の先輩の半分は相手にすらならないほど強くなり、秋には柔道部内のクラスもAに昇格。そのスタイルは天理大典型の攻めの柔道で、176cmの長身から奥襟を取って連射砲の如く繰り出す大内刈・大外刈・小外掛・内股・支釣込足や掬投に長じ、1963年はその卓越した実力を証明するかのように全日本学生選手権大会(軽量級)で3位入賞を果たした。軽量級ながら体重無差別で行われる学生団体戦のレギュラーにも抜擢され、また出場するだけでも名誉とされた1964年の全日本学生東西対抗大会で優秀選手賞を受賞するなどして、この頃には東京五輪の候補選手に選ばれている。大学4年次の1965年には、リオデジャネイロで開催される世界選手権大会の代表選考会で東京五輪覇者の中谷雄英(明治大学)を破り、代表に選ばれた。世界選手権では、決勝戦で同じ日本代表の松田博文(関西大学)に敗れるも銀メダルを獲得し、一躍その名を広めた。
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