飛躍期と黄金期 (1950年代 - 1960年代)
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1950年、エスタディオ・ナシオナルでFCジロンダン・ボルドー(フランス)を下してラテン・カップを制した。ラテン・カップはスペイン、フランス、イタリア、ポルトガルの各国優勝クラブが争った大会であり、当時のヨーロッパでもっとも権威ある国際カップ戦だった。1954年にはブラジル人のオットー・グロリア監督が就任し、それまでのWMフォーメーションに代わる4-2-4フォーメーションを採用したほか、サッカーがプロスポーツであるという意識をポルトガルにもたらした。1950年代には強豪クラブがこぞって大規模なスタジアムを建設しており、ベンフィカも1952年にエスタディオ・ダ・ルス(2003年に完成した同名のスタジアムとは異なる)をオープンさせた。当初40,000人収容だったスタジアムはクラブの発展とともに増築され、1980年代にはヨーロッパ最大・世界第3位の135,000人収容まで拡張されている。1950年代後半には、ストライカーのジョゼ・アグアスなどポルトガル人選手の他に、キーパーのアルベルト・ダ・コスタ・ペレイラやマリオ・コルナなどモザンビーク出身選手も在籍していた。1950年代にはプリメイラ・ジヴィゾンで3回優勝し、タッサ・デ・ポルトガルで6回優勝した。 UEFAチャンピオンズカップでは第1回大会の1955-56シーズンから1959-60シーズンまでレアル・マドリード(スペイン)が5連覇していたが、レアル・マドリードの6連覇を阻んだのはベンフィカだった。1959年にはハンガリー人のベーラ・グットマン監督が就任し、1960-61シーズンの同大会では1回戦でウーイペシュト・ドージャFC(ハンガリー)、準々決勝でオーフスGF(デンマーク)、準決勝でSKラピード・ウィーン(オーストリア)を破って決勝に進出。スイスのベルンで行なわれた決勝はスペイン王者のFCバルセロナ(スペイン)との対戦となり、2-2の同点から相手キーパーのアントニ・ラマレッツがオウンゴールを記録してベンフィカの初優勝が決まった。1961年夏にはモザンビーク出身のエウゼビオが本格的にチームに加わり、黒豹と呼ばれたエウゼビオ、コルナ、ジョゼ・アウグスト・トーレスなどで構成される攻撃陣は抜群の破壊力を誇った。1961年9月にはインターコンチネンタルカップでナシオナル・モンテビデオ(ウルグアイ)と対戦したが、プレーオフの末に敗れた。1961-62シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは1回戦でFKアウストリア・ウィーン(オーストリア)、準々決勝で1.FCニュルンベルク(ドイツ)、準決勝でトッテナム・ホットスパーFC(イングランド)を破り、2シーズン連続で決勝に進出。オランダのアムステルダムで行なわれた決勝では、アルフレッド・ディ・ステファノやフェレンツ・プスカシュ、ルイス・デル・ソルなどを擁したレアル・マドリードと対戦。プシュカーシュが前半だけでハットトリックを達成し、2点差を付けられたベンフィカは劣勢だったが、4点に絡んだエウゼビオの活躍で5-3と逆転し、大会2連覇を果たした。1962年のインターコンチネンタルカップではペレを擁するサントスFC(ブラジル)と対戦したが、ホーム&アウェーともに敗れて優勝を逃した。この時代のポルトガルリーグでは植民地出身選手が何人もプレーしていたが、植民地以外の外国人選手の登録は認められていなかった。 1962-63シーズン、1964-65シーズン、1967-68シーズンにもUEFAチャンピオンズカップの決勝に進出したが、それぞれACミラン(イタリア)、インテル(イタリア)、マンチェスター・ユナイテッドFC(イングランド)に敗れて準優勝に終わっている。1960年代にはプリメイラ・ジヴィゾンで8回(1959-60、60-61、62-63、63-64、64-65、66-67、67-68、68-69)優勝し、タッサ・デ・ポルトガルで3回(1960-61、63-64、68-69)優勝し、UEFAチャンピオンズカップで2回(1960-61、61-62)優勝した。1965年にはエウゼビオがバロンドールを獲得し、1968年にはフランス・フットボール誌によってヨーロッパ最高のクラブに選出された。
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