飛距離の追求と100mジャンプ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 08:00 UTC 版)
「スキーフライング」の記事における「飛距離の追求と100mジャンプ」の解説
20世紀初頭のスキージャンプはノルウェーの選手が圧倒的に強かった。この頃ジャンプの飛距離は多くがアメリカ合衆国の整備されたジャンプ台で更新されたが、主催者はノルウェーの優秀なジャンパーを招いて競技を開催した。1913年、ノルウェー出身のラグナー・オムトベット(Ragnar Omtvedt)がアイアンウッドのジャンプ台で史上初めて50mを超えた。1931年にはシグムント・ルートがスイスのダボスで80mを突破した。 1931年、ユーゴスラビアのエンジニア、スタンコ・ブロウデク(Stanko Bloudek)がこれまでよりはるかに大きなジャンプを可能にするジャンプ台を計画した。クラーニ近郊のプラニツァに建設されたブロウトコヴァ・ヴェリカンカは現在の規格に当てはめると建築基準点(K点)が108mになる巨大なジャンプ台であった。 当時のFISの規定ではジャンプ台に設定された限界距離(極限点、K点)を8パーセント超える飛距離が出るとスタート位置を下げて飛距離を抑えることとなっており、1936年2月に限界距離の最大は80mと定められた。すなわち80+80×0.08=86.4m以上のジャンプは公認されなかった。 1934年3月25日、ブロウトコヴァ・ヴェリカンカでノルウェーのビルゲル・ルートが初めて90mの大台を超える92mを飛んだ。1936年までに全体的に50m上方に移動され、K点が120mとなった。限界距離が80mより大きいジャンプ台はFISにより使用禁止となったが、1936年3月のプラニツァの大会は開催された。ノルウェーの選手は協会からこの大会への参加を止められた。 1936年3月15日の大会ではオーストリアの17歳の新鋭ヨーゼフ・ブラドルが史上初めて100mの大台を突破する101mを記録した。 FISによって規制された直後に記録されたこのジャンプが今日、「スキーフライング」の始まりと認識されている。 この大会に参加できなかったノルウェーのシグムント・ルートは1938年に出版した自叙伝でブロウトコヴァ・ヴェリカンカを「ここは人間が自らその身を投げ出す最大の奈落の底である」と評している。 ブロウトコヴァ・ヴェリカンカが建設される数年前の1927年、スイスのエンジニアであるラインハルト・シュトラウマン(Reinhard Straumann)がスキーフライングの基礎研究に空気力学計算を取り入れて構築した。 1936年になって風洞実験によって得られた知見を用いてブロウトコヴァ・ヴェリカンカが改修され、ユーゴスラビアスキー連盟のメンバーはスキージャンプからスキーフライングを独立させるルールを提案した。この提案をFISは考慮しなかった。このため、彼らはその時点で協会のジャンプ委員会のメンバーだったシュトラウマンにスタンコ・ブロウデクとの接触を依頼した。これを受けてFISはスキーフライングを「実験」とみなして、シュトラウマンが空気力学に関する研究を推進するための手法として理由付けした。 その結果1938年にブラドルが107.0mの新記録を樹立し、国際スキー連盟は、プラニツァのフライング台の規制を解除した。しかしそれ以外のジャンプ台については引き続き極限点80mの基準が残された。 1941年にはドイツのルドルフ・ゲーリング(Rudi Gehring)が118mに記録を伸ばした。
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