運用開始以降のお召し列車けん引に関して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:09 UTC 版)
「国鉄EF58形電気機関車」の記事における「運用開始以降のお召し列車けん引に関して」の解説
61が初めてお召し仕業に充当された1953年10月19日の逸話であるが、松山で開催される国体の開会式及び四国・岡山行幸に出発するため東京駅ホームでお召列車に乗り込む際に国鉄関係者から新製電気機関車の説明を受けた昭和天皇は、列車出発前の東京駅ホームで先頭部まで歩いて行き同機を間近に見たと引用文献及び注釈引用文献にて記載されている。機関車が(天皇自らの意向により)天覧に浴したのは希な事例である。日立製作所が保存している写真には昭和天皇・香淳皇后夫妻が同機を見学している姿が残されている。 61が東京機関区、60が浜松機関区に分割配置された背景には、1953年7月21日に東海道本線が名古屋までの延伸電化と、長距離走行に向かない構造で製造されていた時代でもあり、東海道線全線電化以降は関西方面へはほぼ中間点に位置する名門機関区である浜松で機関車交換をし浜松所属の60が浜松以遠を担当する計画があったためとされる。 しかし、実際には落成後5年ほどは東海道本線でのお召列車運行時の上りと下りで両機を使い分けた。60単独の牽引に関しては、東海道本線における復路専用機関車としての導入直後の1953年10月28日(この時は稼働状況に不安があったSG1は使用せず、暖房車スヌ3122を機関車次位に連結した)の名古屋 - 東京間から1958年10月27日の岐阜 - 東京間のお召列車牽引が本務機しては最後となる。この日以降60のお召列車本務機としてのけん引記録はない。その後は東海道新幹線開業までの東海道本線走行時は61が本務機、60が予備機とされ、東海道新幹線開業前にお召し列車が関西以西に運行される場合は、京都御所内の宿泊所に宿泊されることが大半であり、EF58投入後のお召し列車に関しては夜行運用は行われなかった。また蒸気機関車と異なり電気製品であることから、お召し列車運行がない時でも定期的に絶縁破壊を防ぐための通電を行い、故障防止を兼ねて毎月数回は定期的に一般の列車牽引にも用いられた。 なお60の正規のお召列車けん引回数は5回、皇太子(現上皇)が昭和天皇の名代として列席した英国エリザベス女王の戴冠式より帰朝奉告に伴って運転された伊勢神宮神武天皇陵ほかの山陵等参拝・報告に伴う、1953年11月9日運行の復路ご乗用列車のけん引が1回となっている(この他に、けん引予定だったが、天皇・皇后の行動予定変更で飛行機による帰京となったことが2回あり、お召列車けん引ダイヤのまま随行員や関係者・荷物の輸送の為に1号編成を運転したことが引用文献より2回あることが明らかになっている)。また原宿宮廷専用ホームへの入線は1956年(昭和31年)11月2日の一回限りとなっている。 引用文献で本形式のお召列車けん引専用機製造計画に携わっていた当時の国鉄本社運輸局の西尾源太郎氏によると「両機ともお召専用機として発注したが、お召本務機の中心は61号機であり、60号機はお召本務機は努めるものの、その役割は補佐的なものとした」と語っていることが記載されている。 この他に、東京機関区では別に73を予備機に指定していた。予備機指定解除後に宇都宮運転所に転属して、一般色変更及び電気暖房改造され一般列車の運用にあたった。 73は60同様にぶどう色2号の塗色で、1エンド側連結器右、2エンド側連結器左に供奉車との有線電話連結栓を装備していた。なお運転席内部構造などは公的な履歴簿等の資料がなく詳細が不明であるが、有線電話連結栓および運転席区名札入れ横に乗務員札入れ、国旗掲揚装置を装備している写真が多数公開されていることから、後述する172の整備指示書に記載されている内容に近い整備がされていたのではないかと推測されている(一般形EF58での乗務員名札入及び有線電話連結栓は判明している部分でも172と73のみに装備されている)。 東海道本線運行時は60がいるが、東北・高崎・上越線方面は各地の鉄道管理局において非常救援機を兼ねて73を含む本形式を待機させておくことが通例となっていた。 60と61の相違点として製造メーカーの違いによる、主台車枠や車体の細かな部分における作りの違いと車体長の違いがある。台車枠に関しては、従台車部分の主台枠に補強と車体へのブレーキシューと鉄粉や雨水などの飛散物を防ぐために二軸従台車上部に「先輪覆い」と呼ばれる部品が装着されているが、60は従輪ごとの分割式であり、61は従台車ごとカバーする一体型となっている。車体長関係では、1956年3月31日付国鉄名古屋鉄道管理局報(乙)号外『1956年4月5日 名古屋鉄道管理局 お召列車けん引機関車寸法・機関車及び同乗務員運用』によると、「(原文ママ)機関車前端りょうから後部自連の連結面まで」EF5861 19,514ミリ、EF5860 19,560ミリ。「機関車に附した停止目標から後部自連の連結面までEF5861 18,640ミリ、EF5860 18,250ミリ」と記載されている。これは、乗務員交代駅における乗務員待機位置及び天皇・皇后への奉迎者に対する配慮のほか、御料車の乗降口に敷かれている絨毯に合わせるため、機関車の停止目標を設置する際に必要な数値であり、停車駅ではこれらの通達を基に停止位置表示板を設定していた(一部の停車駅では操車係が停車位置で旗を提示していることもあるが、原宿宮廷ホームではホームに61を基準にした停車位置表示線が書き込まれている)。 また本車両に限らず、お召列車けん引機関車には、所属区の研修担当者である技工長及び技工が後部運転室(電気機関車の場合)に添乗する規定になっている。『1956年11月2日運転 名古屋鉄道管理局:お召列車機関車運行・仕業』『1956年11月2日運転 名古屋鉄道管理局:米原機関区 お召列車予備機関車運行/お召機関車添乗者表』には『お召機関車浜松区EF5860号の添乗者氏名』として浜区(浜松機関区の略称)技工長 ○○ ○○ 同技工 ○○ ○○ (米原 = 原宿間)と記載されている。当然ながら正機関士・副機関士・機関助士・SG担当機関助士の名前が担当職務と共に記載されている。 両機はお召し列車運転時には運行が決まった時点で工場入場の上で車体の再塗装や搭載機器の入念な整備を行い、試運転の度に各部の機器を基準値に合致させる整備を行い、お召列車運行当日には、前面に国旗を飾り、御料車編成の牽引に充当された。 本務機の61は昭和天皇のお召し・ご乗用列車を100回以上牽引した。その他、お召し列車が直流区間以外で運転される時の1号編成回送にも接続駅までは61が牽引に指名されることが多かった。 60は1967年5月、浜松で踏切事故の被害を受け2エンド側左台枠を折損し、直ちに修復が行われた。また、東海道新幹線開業後は東海道本線でのお召列車運行回数も激減し、60の必要とされる運行も皆無となったため、1973年にお召し指定解除された後は一般機と同じ扱いとなり、車体塗装の変更は廃車までなかったが、一般機と同様に側面フィルタのビニロック化、正面窓小窓Hゴム支持化などの改修工事が段階的に施工されている。 1979年の愛知県植樹祭関連行幸では久々に60が予備機に指定され、岡崎駅構内に待機の上、運行線区の一部であった愛知県植樹祭会場最寄駅となる岡多線(現・愛知環状鉄道線)新豊田駅の単線行き止まり式配線(現在は全線開通に伴い2008年に複線化されており解消されている)の関係により機関車を付け替えることができない構造だったため、お召し運転の終了した61+1号編成の回送では、お召列車を後追いする形で走行してきた60を編成後部に連結し、1号編成前後に機関車を連結するプッシュプル形式運行を60が先頭の回送列車運行を61と行った。 その後、所属する浜松機関区が長距離運用を主に担当する機関区であったため、お召指定機解除後の一般機と同様の長距離走行による過走行による老朽化での故障や余剰車両の発生により、1983年5月18日付で廃車となり大宮工場へ回送の上、6月2日に解体された。浜松機関区所属のEF58の中では最初に廃車されたグループに属し解体は最初に行われた。 なお現在、同機の側面にあったナンバープレートと製造銘板の片側および前面ナンバープレート部分を切り取ったものはさいたま市大宮区にある鉄道博物館に保管・展示されている(もう片側は東海旅客鉄道の浜松運輸区にて非公開で保管されている)。
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