赤穂浪士お預かり
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元禄15年(1702年)12月15日、赤穂浪士が吉良義央を討つと、47士のうち岡島常樹、吉田兼貞、武林隆重、倉橋武幸、村松秀直、杉野次房、勝田武尭、前原宗房、間光風、小野寺秀富の10士のお預かりを命じられている。 毛利家は浪士たちを通常の罪人として扱い、護送籠に錠前をかけ、その上から網をかぶせた。到着後は収容小屋に五人ずつ分けて入れ、窓や戸には板を打ち付けた。さらに、収容小屋の周りに板塀を循らし二重囲いにした。戸口と塀の所々に昼夜交代で複数の番人が見張った。本家の長州藩からも監視として、志道丹宮・粟屋三左衛門らが数十人の小者を引き連れ派遣されて来た。 毛利綱元は赤穂義士には遂に会うことは無かった。暖を取るための酒や煙草といった要求も拒否し、火鉢の提供も無かった。切腹には「扇子腹」として扇子を十本用意させた。幕閣御目付から「其れでは打ち首と大差なし」と注意され、「小脇差を出すようにというお指図」を受けたと記録されている。間光風が本当に脇差を腹に突き立ててしまい、武林隆重も一度で首を落とせなかったが、介錯人はあわてず対応したので騒ぎにはならなかった。 義士切腹後に、綱元は「首尾よく仕舞ひ、大慶仕り候」と慶び、重臣の田代要人・時田権太夫に命じて収容小屋の破却及び、切腹跡地を清めて藩邸内の何処で切腹したか、判らないようにすべく指示している。また、検使より「御預人の死骸・道具の処分につき勝手次第」との指図を受け、そのようにしようとしたが、泉岳寺の酬山和尚が全て引き取る旨あったので、荻野角右衛門配下の足軽・手明中間ら十数人が葬送した。のちに酬山は、この時に受け取った義士遺品も売却して金に換えてしまう。 その後も、綱元は江戸で没したにも関わらず遺体を長府に送らせ、秀元が菩提寺とした泉岳寺にて赤穂義士と併葬されるのを嫌った。これが長府藩が泉岳寺を避け、最終的には絶縁にまで至る嚆矢となった。 六本木ヒルズの毛利庭園内には他のお預かり大名家と異なり、一切の供養塔や顕彰碑の類は存在せず、義士切腹地の場所は、令和の御代になっても全く不明のままである。
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赤穂浪士お預かり
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元禄15年(1702年)12月15日早朝、吉良義央を討ち取って吉良邸を出た赤穂46士は、大目付仙石久尚に自首しに向かった吉田兼亮・富森正因の2名と別れて、他は主君浅野長矩の眠る高輪泉岳寺へ向かった。仙石は吉田と富森の話を聞いてすぐに登城し、幕閣に報告、幕府で対応が協議された。 一方、細川綱利はこの日、例日のために江戸城に登城していた。この際に老中稲葉正通より、大石良雄始め赤穂浪士17人のお預かりを命じられた。さっそく綱利は家臣の藤崎作右衛門を伝令として細川家上屋敷へ戻らせた。この伝令を受けた細川家家老三宅藤兵衛は、始め泉岳寺で受け取りと思い込み、泉岳寺に近い白金の中屋敷に家臣たちを移し、受け取りの準備を始めた。しかし、その後、46士は大目付仙石久尚の屋敷にいるという報告が入ったので、急遽仙石邸に向かった。三宅率いる受け取りの軍勢の総数は847人。彼等は、午後10時過ぎ頃に仙石邸に到着し、17人の浪士を1人ずつ身体検査してから駕籠に乗せて、午前2時過ぎ頃に細川家の白金下屋敷に到着した。浪士達の中に怪我人がおり、傷にさわらないようゆっくり輸送したため時間がかかったと『堀内伝右衛門覚書』にある(山吉盛侍に斬られた近松行重のことであろう)。 この間、綱利は義士たちを一目見たいと、到着を待ちわびて寝ずに待っていた。17士の到着後、すぐに綱利自らが出てきて大石良雄と対面した。さらに綱利は、すぐに義士達に二汁五菜の料理、菓子、茶などを出すように命じる。預かり人の部屋とは思えぬ庭に面した部屋を義士達に与え、風呂は毎回、湯を入れ替え、「湯がやわらかくなるから」と全員をまとめて入れた。「洗濯ものが庭先に干してあるのは見苦しい」として下帯も週に二度は与えた。後日には老中の許可を得て酒やたばこも振舞った。さらに毎日の料理も全てが御馳走であり、大石らから贅沢すぎるので、普通の食事にしてほしいと嘆願されたほどであった。 綱利は義士達にすっかり感銘しており、幕府に助命を嘆願し、またもしも助命があれば預かっている者全員をそのまま細川家で召し抱えたい旨の希望まで出している。また12月18日と12月24日の2度にわたって、自ら愛宕山に赴いて義士達の助命祈願までしており、この祈願が叶うようにと綱利はお預かりの間は精進料理しかとらなかったという、凄まじい義士への熱狂ぶりであった。 このような細川家の義士たちに対する厚遇は、江戸の庶民から称賛を受けたようで「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」と狂歌からも窺われる。これは細川家と水野家が義士を厚遇したことを称賛し、毛利家と松平家が待遇が良くなかったことを批判したものである。しかし、実際には水野家では義士を「九人のやから」と呼び、「寒気強く候につき臥具増やす冪あり申せども、その儀に及ばず初めの儘にて罷りあり」とまるで人間扱いしない薄情な記述がある。(『水野家御預記録』) 細川邸では、潮田や両大石(良雄・信清)らは、羽目を外して夜に狂言踊りなどをして騒ぎ、提供された酒を、様子を見に来た堀内にたらふく飲ませて酩酊させたりしている。最後の日には堀内が酒の肴や煙草、下戸向けの茶や菓子を出さなかったので義士たちから文句が出た。堀内は「忘れた」と言って出そうとしなかったので、また酒を飲まされた。切腹当日に堀内は義士を放置して帰宅してしまい、同僚に馬で連れ戻されている。なお預かり期間中に、堀内は義士たちから聞き取りをして、討ち入りの様子や義士の家族など多くが書き留められている。(『堀内伝右衛門覚書』) しかし年改まって元禄16年(1703年)2月、「徒党を組み押し入る始末、重々不届きにつき切腹を申し付ける」という旨の命令書を携えた幕府の上使が細川邸に到着する。杉本義鄰『赤穂鍾秀記』では、大石がこの命令書に畏れ入らずに異議を唱えて云返をしたとある。切腹に当たっても、綱利は「軽き者の介錯では義士達に対して無礼である」として、大石良雄は重臣の安場一平に介錯をさせ、それ以外の者たちも小姓組から介錯人を選んだ。落合勝信『江赤見聞記』には大石良雄の介錯を仕損じ、大石が大声を出したので二度斬りをしたとあるが、細川家の記録では確認できない。 義士達は切腹後、泉岳寺に埋葬された。細川綱利は金30両の葬儀料と金50両の布施を泉岳寺に送っている。幕府より義士達の血で染まった庭を清めるための使者が訪れた際も「彼らは細川家の守り神である」として断り、反対する家臣達にも庭を終世そのままで残すように命じて、客人が見えた際には屋敷の名所として紹介したともいわれている。しかし、宝永3年(1706年)、綱利の嫡男・吉利が十代で家督前に早世してしまう。他の子たちも成人した子女を残せず、綱利の血脈は断絶することになる。 さらに、延享4年(1747年)、江戸城中で細川宗孝が板倉勝該に斬殺された。殿中での刃傷にはただでさえ喧嘩両成敗の原則が適用される上、世継ぎまで欠いては細川家は改易必至だった(吉良家が同様の処分)。さらに、板倉の動機は乱心でなく「遺恨」、勝該は切腹したが家臣は残っていた。細川家の窮地を救ったのが浅野家と絶縁関係だった仙台藩主・伊達宗村である。 細川家は内匠頭と赤穂浪士への評価を一変させ、赤穂浪士の遺髪を頂いて建立した墓や供養施設が悉く破却されており、当時の遺構は殆ど残っていない。(ただし、赤穂浪士の遺髪については、細川家で赤穂浪士の接待役を担当した堀内伝右衛門も分与されていた。堀内の菩提寺である日輪寺に建てられた供養塔・遺髪塔は、享保年間に堀内氏が処罰され帰農した後も維持され、今なお現存している。伝右衛門の血筋は絶え、堀内氏は士分でなくなったが、山鹿温泉観光協会により毎年2月4日には「日輪寺義士まつり」が行われ、日輪寺でも慰霊祭が行われている。)一方、泉岳寺も報復として、細川家が寄進した梵鐘を鐘楼から除去し、のちに寺から放出した。 なお、細川家では堀部金丸・堀部武庸の切腹後、堀部家を継いだ堀部言真が召し抱えられ、堀部家はそれ以降、代々、細川家に仕えて、明治維新を迎えている。そして、明治以降の堀部家には、明治27年(1894年)に第九国立銀行の頭取となった堀部直臣などがいる。ただし養子が入っているので、金丸や武庸の血脈ではない。 明治に入ってからも細川邸跡はそのまま放置された状態だったが、第二次大戦後は徐々に整備され、平成10年(1998年)に東京都港区教育委員会と中央義士会など有志により「大石良雄外十六人忠烈の跡」石碑が設置された。また、切腹跡地には墓の台座部分(四角い芝台石)と供養塔の残滓(角が丸くなり刻銘が消滅した石)と思われる石の集まりがあるが、私有地なので一般人は入れない。
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