赤穂浪士お預かりとは? わかりやすく解説

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赤穂浪士お預かり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 03:43 UTC 版)

毛利綱元」の記事における「赤穂浪士お預かり」の解説

元禄15年1702年12月15日赤穂浪士吉良義央を討つと、47士のうち岡島常樹吉田兼貞武林隆重倉橋武幸村松秀直杉野次房勝田武尭前原宗房間光風小野寺秀富10士のお預かり命じられている。 毛利家浪士たちを通常の罪人として扱い護送籠に錠前をかけ、その上から網をかぶせた到着後は収容小屋五人ずつ分けて入れ、窓や戸には板を打ち付けた。さらに、収容小屋周り板塀を循らし二重囲いにした。戸口と塀の所々昼夜交代複数番人見張った本家長州藩からも監視として、志道丹宮・粟屋三左衛門らが数十人の小者引き連れ派遣されて来た。 毛利綱元赤穂義士には遂に会うことは無かった暖を取るための酒や煙草といった要求拒否し火鉢の提供も無かった切腹には「扇子腹」として扇子を十本用意させた。幕閣御目付から「其れでは打ち首大差なし」と注意され、「小脇差を出すようにというお指図」を受けた記録されている。間光風本当に脇差を腹に突き立ててしまい、武林隆重一度で首を落とせなかったが、介錯人あわてず対応したので騒ぎにはならなかった。 義士切腹後に、綱元は「首尾よく仕舞ひ、大慶仕り候」と慶び重臣田代要人時田権太夫に命じて収容小屋破却及び、切腹跡地清めて藩邸内の何処切腹したか、判らないようにすべく指示している。また、検使より「御預人死骸道具処分につき勝手次第」との指図を受け、そのようにようとしたが、泉岳寺の酬山和尚全て引き取る旨あったので、荻野右衛門配下足軽・手明中間十数人が葬送した。のちに酬山は、この時に受け取った義士遺品売却して金に換えてしまう。 その後も、綱元江戸で没したにも関わらず遺体長府に送らせ、秀元が菩提寺とした泉岳寺にて赤穂義士と併葬されるの嫌った。これが長府藩泉岳寺避け最終的に絶縁にまで至る嚆矢となった六本木ヒルズ毛利庭園内には他のお預かり大名家異なり一切供養塔顕彰碑の類は存在せず義士切腹地の場所は、令和御代になっても全く不明のままである

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赤穂浪士お預かり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 06:02 UTC 版)

細川綱利」の記事における「赤穂浪士お預かり」の解説

元禄15年1702年12月15日早朝吉良義央討ち取って吉良邸を出た赤穂46士は、大目付仙石久尚自首し向かった吉田兼亮富森正因の2名と別れて、他は主君浅野長矩の眠る高輪泉岳寺向かった仙石吉田と富の話を聞いてすぐに登城し幕閣報告幕府で対応が協議された。 一方細川綱利はこの日、例日のために江戸城登城していた。この際老中稲葉正通より、大石良雄始め赤穂浪士17人のお預かり命じられた。さっそく綱利は家臣藤崎作右衛門伝令として細川家上屋敷へ戻らせた。この伝令を受けた細川家家老三宅藤兵衛は、始め泉岳寺受け取り思い込み泉岳寺に近い白金中屋敷家臣たちを移し受け取り準備始めた。しかし、その後46士は大目付仙石久尚屋敷にいるという報告入ったので、急遽仙石邸に向かった三宅率い受け取り軍勢総数は847人。彼等は、午後10時過ぎ頃に仙石邸に到着し17人の浪士1人ずつ身体検査してから駕籠乗せて午前2時過ぎ頃に細川家白金下屋敷到着した浪士達の中に怪我人がおり、傷にさわらないようゆっくり輸送したため時間かかったと『堀内伝右衛門覚書』にある(山吉盛侍に斬られた近松行重のことであろう)。 この間、綱利は義士たちを一目見たいと、到着待ちわびて寝ず待っていた。17士の到着後、すぐに綱利自らが出てきて大石良雄対面した。さらに綱利は、すぐに義士達に二汁五菜料理菓子などを出すように命じる。預かり人部屋とは思えぬ庭に面した部屋義士達に与え風呂毎回、湯を入れ替え、「湯がやわらかくなるから」と全員まとめて入れた。「洗濯もの庭先干してあるのは見苦しい」として下帯も週に二度与えた後日には老中許可得て酒やたばこも振舞った。さらに毎日料理全て御馳走であり、大石らから贅沢すぎるので、普通の食事してほしいと嘆願されたほどであった。 綱利は義士達にすっかり感銘しており、幕府助命嘆願し、またもしも助命があれば預かっている者全員そのまま細川家召し抱えたい旨の希望まで出している。また12月18日12月24日2度わたって、自ら愛宕山赴いて義士達の助命祈願までしており、この祈願叶うようにと綱利はお預かりの間は精進料理しかとらなかったという、凄まじい義士への熱狂ぶりであったこのような細川家義士たちに対す厚遇は、江戸庶民から称賛受けたようで「細川水の水野流れ清けれど ただ大海毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」と狂歌からも窺われる。これは細川家水野家義士厚遇したことを称賛し毛利家松平家待遇良くなかったことを批判したのである。しかし、実際に水野家では義士を「九人のやから」と呼び、「寒気強く候につき臥具増やす冪あり申せども、その儀及ばず初め儘に罷りあり」とまるで人間扱いしない薄情な記述がある。(『水野家御預記録』) 細川邸では、潮田や両大石良雄・信清)らは、羽目を外して夜に狂言踊りなどをして騒ぎ提供された酒を、様子を見に来た堀内たらふく飲ませて酩酊させたりしている。最後の日には堀内酒の肴煙草下戸向けの菓子を出さなかったので義士たちから文句出た堀内は「忘れたと言って出そうとしなかったので、また酒を飲まされた。切腹当日堀内義士放置して帰宅してしまい、同僚に馬で連れ戻されている。なお預かり間中に、堀内義士たちから聞き取りをして、討ち入り様子義士家族など多く書き留められている。(『堀内伝右衛門覚書』) しかし年改まって元禄16年1703年2月、「徒党組み押し入る始末重々不届きにつき切腹申し付ける」という旨の命令書を携えた幕府の上使が細川邸に到着する杉本義鄰『赤穂鍾秀記』では、大石がこの命令書に畏れ入らず異議唱えて云返をしたとある。切腹当たっても、綱利は「軽き者の介錯では義士に対して無礼である」として、大石良雄重臣安場一平介錯をさせ、それ以外の者たちも小姓組から介錯人選んだ落合勝信『江赤見聞記』には大石良雄介錯仕損じ大石大声出したので二度斬りをしたとあるが、細川家記録では確認できない義士達は切腹後、泉岳寺埋葬された。細川綱利は金30両の葬儀と金50両の布施泉岳寺送っている。幕府より義士達の血で染まった庭を清めるための使者訪れた際も「彼らは細川家守り神である」として断り反対する家臣達にも庭を終世そのままで残すように命じて客人見えた際には屋敷名所として紹介したともいわれている。しかし、宝永3年1706年)、綱利の嫡男吉利十代家督前に早世してしまう。他の子たちも成人した子女残せず、綱利の血脈断絶することになる。 さらに、延享4年1747年)、江戸城中で細川宗孝板倉勝該斬殺された。殿中での刃傷にはただでさえ喧嘩両成敗原則適用される上、世継ぎまで欠いて細川家改易必至だった(吉良家同様の処分)。さらに、板倉動機乱心でなく「遺恨」、勝該は切腹したが家臣残っていた。細川家窮地救ったのが浅野家と絶縁関係だった仙台藩主伊達宗村である。 細川家内匠頭赤穂浪士への評価一変させ、赤穂浪士遺髪頂いて建立した墓や供養施設悉く破却されており、当時遺構は殆ど残っていない。(ただし、赤穂浪士遺髪については、細川家赤穂浪士接待役を担当した堀内伝右衛門分与されていた。堀内菩提寺ある日輪寺に建てられ供養塔遺髪塔は、享保年間堀内氏が処罰され帰農した後も維持され今なお現存している。伝右衛門血筋絶え堀内氏は士分なくなったが、山鹿温泉観光協会により毎年2月4日には「日輪寺義士まつり」が行われ、日輪寺でも慰霊祭が行われている。)一方泉岳寺報復として、細川家寄進した梵鐘鐘楼から除去し、のちに寺から放出した。 なお、細川家では堀部金丸堀部武庸切腹後、堀部家を継いだ堀部言真召し抱えられ堀部家はそれ以降代々細川家仕えて明治維新迎えている。そして、明治以降堀部家には、明治27年1894年)に第九国立銀行頭取となった堀部直臣などがいる。ただし養子入っているので、金丸や武庸の血脈ではない。 明治入ってからも細川邸跡はそのまま放置された状態だったが、第二次大戦後は徐々に整備され平成10年1998年)に東京都港区教育委員会中央義士会など有志により「大石良雄外十六人忠烈の跡石碑設置された。また、切腹跡地には墓の台座部分四角芝台石)と供養塔残滓(角が丸くなり刻銘消滅した石)と思われる石の集まりがあるが、私有地なので一般人入れない

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