赤穂浪士への批判・否定論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:32 UTC 版)
「赤穂事件」の記事における「赤穂浪士への批判・否定論」の解説
一方、佐藤直方は『四十六人之筆記』(宝永2年以前)において、内匠頭の刃傷において吉良上野介は無抵抗に逃げただけだという事実に着目し、刃傷事件は喧嘩ではなく内匠頭の暴力に過ぎず、よってそもそも上野介は赤穂浪士にとって「君の讐」でないとした。また佐藤は、赤穂浪士達は吉良邸討ち入りの後に自主的に切腹すべきで、そうせずに幕府に報告にあがったのは、生きながらえて禄をはむ為ではないかと批判している。 荻生徂徠も、『政談』のうち「四十七士の事を論ず」(宝永2年頃)において、内匠頭は幕府に処罰されたのであって吉良に殺されたわけではないから吉良上野介は赤穂浪士にとって「君の仇」ではなく、「内匠頭の刃傷は匹夫の勇による「不義」の行為であり、赤穂浪士の行動は、「君の邪志」を引き継いだものだから「義」とは認められないとして死を与えるべき」と主張している。 一方、「徂徠擬律書」では、同情の憐みを禁じえないものの、「今四十六士の罪を決せしめ、侍の礼を以て切腹に処せらるるものならば、上杉家の願も空しからずして、彼等が忠義を軽せざるの道理、尤も公論と云ふべし。」と「義士切腹論」を述べたとされている。しかし、赤穂市は「徂徠擬律書」が、幕府に残らず細川家にのみ残っていること、上述の「四十七士の事を論ず」と比べ徂徠の発想・主張に余りに違いがありすぎることから、後世の偽書であるとの考察をしている。 また、後述の徂徠の弟子・太宰春台が、「徂徠以外に『浪士は義士にあらず』という論を唱える者がなく、世間は深く考えずに忠臣と讃えている」と述べている点から「四十七士の事を論ず」のほうが徂徠の真筆であると思われる。 享保17年に太宰春台が『赤穂四十六士論』で「義士」を徹底批判した事で、義士論争は新たな局面を迎える。春台の論が斬新なのは、幕府の処罰の可否を正面から論じた事にある。春台によれば、浅野は吉良を傷つけただけなのに浅野を切腹に処したのは幕府の処罰が過当である。よって赤穂浪士達は吉良を恨むのではなく幕府を怨むべきであり、彼らは幕府の使者と一戦を交えた後、赤穂城に火を放って自害するべきだったという。 三宅尚斎も「浅野法ヲ犯シ公朝ヨリ誅セラレ、吉良ガ殺シタルニ非ザザレバ、吉良ヲ讎(あだ)トシテ討チシハ不当事ト云フベキニ似タリ」と主張している。牧野直友・伊良子大洲も内匠頭と赤穂浪士を批判している。 福沢諭吉は『学問のすゝめ』で「赤穂不義士論」を展開し批判された。大日本帝国で陸軍士官学校教授を勤めた内田百間は、「秩序の破壊と復讐を行なった」と(本人は陸軍時代に従五位を拝受)赤穂義士を否定する論説を書いている。
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