藩の前史とは? わかりやすく解説

藩の前史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 01:41 UTC 版)

高遠藩」の記事における「藩の前史」の解説

高遠の地は戦国時代諏訪氏一族であった高遠頼継治めていた。頼継が武田信玄(晴信)との戦いで没落した後、高遠武田氏支配下に入る。 後に信玄の5男で勝頼の異母弟仁科盛信高遠城主となり、天正10年1582年2月織田信長による甲州征伐開始されると、信濃武田勢次々と信長嫡男信忠率い織田軍に降伏していくが、高遠城を守る盛信のみは信忠降伏勧告拒絶して果敢に抗戦織田軍は3月2日高遠攻撃して1日落城させ、城主盛信は自害した武田家は盛信の玉砕総崩れになり、勝頼は3月11日天目山自害し武田家滅亡したその3ヵ月後の6月本能寺の変起こって信長信忠横死信濃織田勢は武田旧臣一揆追放されて無主状態になると、徳川家康北条氏直上杉景勝らによる旧武田領をめぐる天正壬午の乱が起こる。高遠高遠氏旧臣保科氏内藤昌月支援得て奪回し、昌月の実父である保科正俊城主となった10月、正俊の子正直は家康服従し伊那郡2万5000石の所領を宛がわれた。正直はその後伊那箕輪藤沢頼親降伏させた。天正12年1584年)に小牧・長久手の戦い起きると、家康は正直や諏訪頼忠小笠原貞慶信濃衆木曾派遣したがこの木曾攻め成果上げず、正直を抑え残して撤退した天正13年1585年)、家康北条氏直和睦条件である上野沼田領譲渡問題真田昌幸家康から離反したため、家康大久保忠世に正直ら信濃衆をつけて攻撃する大敗して撤退。しかも11月石川数正徳川家から出奔したのを機に松本小笠原貞慶高遠攻撃をかけるが、保科正俊が鉾持除の戦いで退けた。正直はその後家康異父久松氏縁戚となって勢力伸ばし天正18年1590年)の小田原征伐でも徳川軍後備えとして参戦した後北条氏滅亡して家康関東移封されると、正直は家康に従って下総多胡1万石を与えられた。 家康関東に移ると、旧徳川領は豊臣秀吉家臣が入封することとなり、伊那には毛利秀頼10万石で入った甲州征伐の功により伊那郡与えられ信長没後混乱で失領し復帰したのである。秀頼は入封した直後に3か条からなる条々発布し統治方針示し太閤検地実施したが、実際政務は勝斎(姓不詳)と篠治秀政が担当していた。秀頼は文禄2年1593年)に病死。その妹婿である京極高知が跡を継いだ高知時代には岩崎重次が城代として統治担当したが、統治体制には不明な点が多い。慶長5年1600年)の関ヶ原の戦い高知東軍与力して岐阜城攻略戦参加し9月15日関ヶ原本戦にも参加した功績から、戦後丹後宮津移封され、岩崎甲斐帰国した

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藩の前史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 01:19 UTC 版)

古河藩」の記事における「藩の前史」の解説

古河城発祥平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての御家人である下河辺行平により築城された。 室町時代になると足利尊氏関東統治のために鎌倉府設置した初代鎌倉公方関東公方)は尊氏の子基氏であった鎌倉公方は基氏の曾孫で第4代持氏の時、京都の第6代将軍尊氏曾孫義教対立永享の乱引き起こして持氏は自害させられ鎌倉府滅亡した義教没後、持氏の遺児成氏は罪を許され宝徳元年1449年)に鎌倉戻って5代鎌倉公方となる。享徳3年1454年12月、成氏が関東管領上杉憲忠謀殺したことを端緒として享徳の乱引き起こされる山内上杉家は憲忠の後継者実弟の房顕を立てて体制立て直し室町幕府第8代将軍足利義政支援要請した。成氏は房顕を武蔵分倍河原破ったが、房顕の支援決定した義政駿河今川範忠動かし享徳4年1455年4月には後花園天皇より成氏追討綸旨御旗を賜って成氏を朝敵したため、成氏は鎌倉放棄して古河本拠とした。以後、成氏の系統古河公方呼ばれる。 成氏は長禄元年1457年)に修復完了した古河城正式に入城した(『鎌倉大草紙』)。当時古河公方下総下野常陸に及ぶ強大な勢力圏誇った。成氏は幕府派遣した堀越公方足利政知上杉家抗争続けたが、文明9年1477年)に成氏は和睦申し出て5年後幕府古河公方家和睦した。成氏は明応6年1497年9月病死息子の政氏が第2代古河公方となる。政氏は外交方針めぐって嫡子の高基と対立父子不和になって内紛起こし最終的に高基が勝利して政氏は追われて高基が第3古河公方となる。だが高基の実弟の義明が還俗し上総守護代の武田氏勢力背景にして小弓公方として独立するなど、次第古河公方衰退明らかになっていく。高基は勢力挽回のため、関東台頭し始めていた北条早雲・氏綱に接近し嫡子晴氏の正室に氏綱の娘を迎えて北条との連携図り天文7年1538年)には小弓公方滅ぼした。 だが高基の跡を継いだ晴氏は関東管領上杉憲政接近して氏綱の嫡子氏康と敵対天文15年1546年)に武蔵河越で氏康と戦い兵力では圧倒的に優位ながら大敗した河越城の戦い)。以後古河公方家後北条家影響下に置かれ、その勢力範囲内の各所居所として転々とした。晴氏は永禄3年1560年)に死去。子で第5代の義氏は北条一門として古河公方立てられるが、嗣子無く天正10年1582年)に死去古河公方断絶して後北条家より以後古河城番置かれた。

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藩の前史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/30 03:41 UTC 版)

二本松藩」の記事における「藩の前史」の解説

二本松戦国時代まで畠山氏所領であったが、天正14年1586年)に伊達政宗畠山氏滅ぼして伊達領になる。天正18年1590年7月小田原征伐北条氏直降した豊臣秀吉8月会津入り奥州仕置とそれに伴う奥州仕置により、二本松会津領主となった蒲生氏郷領地となった。氏郷は織田信長娘婿であり、これ以前伊勢所領持っていた。蒲生時代には秀吉命令天正文禄年間検地が行われて蒲生領は919320石とされた。文禄4年1595年2月に氏郷は急死し嫡子蒲生秀行跡を継ぐも、この際秀吉命令会津黒川白河二本松を除く領内の城の大半浅野長政幸長により破却された。秀行は家康の3女振姫結婚するが、慶長3年1598年1月下野宇都宮18万石減封移封となった。 代わって会津入部したのは、越後春日山城の上景勝であり、蒲生旧領出羽庄内佐渡加えた120万石入った景勝二本松のある積達地方支城には安田能元下条忠親秋山定綱・山浦景国市川房綱らを入れて固めた秀吉没後慶長5年1600年)に関ヶ原の戦い起こり西軍敗れると景勝徳川家康によって慶長6年1601年8月90万石減封の上出羽米沢藩30万石移封され、代わって会津から宇都宮移っていた蒲生秀行60万石加増されて入部し二本松もその支配下入った。秀行の時代には凶作飢饉大地震風水害起こり、それに加えて年貢増徴諸役の重負担百姓逃散相次ぐ。秀行は慶長17年1612年5月30歳死去し嫡子忠郷が継ぐが、先代から続く家中内訌もあり、寛永4年1627年1月に忠郷も早世すると、幕府は忠郷に継嗣が無い事を理由会津60万石改易した(ただし名跡所領伊予存続)。

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藩の前史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 07:24 UTC 版)

松本藩」の記事における「藩の前史」の解説

戦国時代松本信濃守小笠原氏支配下置かれていた。しかし小笠原長時武田晴信敗れたため、以後武田家支配下置かれた。元亀4年1573年4月信玄亡くなると後継者武田勝頼天正3年1575年5月長篠の戦い大敗し次第織田信長徳川家康攻勢前に追い詰められた(甲州征伐)。天正10年1582年2月には勝頼の妹婿である木曾義昌離反したことなどにより武田家瓦解し3月に勝頼は自害し武田家滅亡した信長義昌功績認めて松本領を与えた。 しかし3ヵ月後の6月本能寺の変起こって信長横死する。旧武田領では武田旧臣による反乱勃発し義昌松本放棄して木曽に籠もった。このため松本軍事的政治的空白地帯になり、地侍自立向けて動き出した信長没後信濃家康上杉景勝北条氏直周辺列強国草刈場化し天正壬午の乱)、松本地侍旧主長時実弟小笠原洞雪斎景勝支援得て府中迎え7月2日には深志城入った。しかし洞主体性がなく、景勝派遣した上杉重臣傀儡であったため、地侍は洞を見限った地侍家康支援得て長時息子貞慶迎えた貞慶には多く地侍味方し7月17日に洞抗戦あきらめて開城した。この時、深志城松本城改めた8月木曾義昌家康手を結んで松本攻め込んできたため、貞慶家康から離れて木曾軍破り所領安堵状宛行状連発して自立傾向強めた。だが天正11年1583年)に貞慶赤沢氏塔原氏などを殺害し三村氏西牧氏らは粛清恐れて逃亡した。これらは武田信玄侵攻の際に小笠原家裏切った諸氏であり、貞慶復讐だったとされるこのため、筑北地方で上杉景勝と戦うも大敗した家康貞慶動向見て小笠原氏所領安堵して味方につけ、貞慶家康嫡子秀政を人質として差し出し家康は秀政を重臣石川数正預けた。しかし小牧・長久手の戦い後の天正13年1585年11月に数正が家康の下から出奔し豊臣秀吉の下に走った際、秀政も貞慶秀吉の下に走った。ところが貞慶名族小笠原家血筋を鼻にかけて秀吉出自貶めるような発言したため家臣らが再びの滅亡恐れて秀政のみを名代として秀吉拝謁させた。 以後は秀政が事実上当主となり、天正15年1587年3月秀吉仲介家康の下に帰参し、翌年12月に秀政は正式に家督継いだ天正17年1589年1月には家康より正式に安曇郡筑摩郡松本領を安堵され、8月には家康嫡子松平信康の娘を正室迎えて小笠原氏徳川家での地位確立した

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