藩の剣術改革
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政情の不安定化から軍備強化が要請される状況を受け、文久2年(1862年)11月、川越藩では大規模な軍制改革が行われ、これの一環として藩主・松平直克より、それまで禁じられていた他流試合の実施が通達された。そのため、すでに実際の試合を行っていた神道無念流が重要視されるようになった。また、平兵衛は徒士から大役人に昇格し、正式に神道無念流師範に任じられ、下級藩士で新たに剣術を学ぶ者は神道無念流を学ぶことが義務づけられた。これにより神道無念流は公式流派化した。ところが、百姓出身者が藩の指南役に任じられたことや修行する流派を指定されたことが藩士の反発を呼び、平兵衛に対する中傷を含む軍制改革反対を藩主家の本家にあたる福井藩に訴える者や、平兵衛の隠居強制を画策する者、集団での闇討ちを計画する者などが現れた。これに対し、平兵衛は私闘や私怨を避けた静かな振舞を続けたという。しかし、それまで他流試合を禁じてきた「表稽古」各流派師範の反発により、全流派に他流試合実施を強制せず、他流試合を希望する藩士は他流試合を行う流派の稽古にも出て行う、という妥協案を藩は提示することになり、川越藩の剣術改革は一旦挫折した。 それでも徐々に改革の気運は高まり、元治年間(1864年 - 1865年)から上・中級藩士の神道無念流入門が増えてゆき、本来は下級藩士・足軽が学ぶ流派だったにもかかわらず、稽古人数の増加のため下級藩士・足軽に稽古をつけられない状況にまでなった。藩側も改革を進めるため元治元年(1864年)7月、所属する流派に関係なく打ち混じって稽古し、神道無念流も教授する「寄合剣術」を開始した。これにより、流派を変えることなく神道無念流の技術を学べるようになった。また「表稽古」流派からも、江戸の長沼道場(直心影流)へ留学して竹刀打込稽古を学ぶ者が現れた。 慶応元年(1865年)6月、平兵衛は川越藩の飛び地の上総国望陀郡に常駐している藩士への剣術指導のため、定期的に高弟を派遣することを申し出、藩はこれを許可した。この中で平兵衛は、常駐している藩士の神道無念流剣術の技術を向上させることが同地の防衛体制強化につながると主張しており、それまで平兵衛が提出してきた意見書と異なり、藩の軍事政策に対する意見を含んだものであった。 慶応3年(1867年)に松平直克は川越藩の飛び地だった上野国の前橋城に還城する(以後は前橋藩と呼ばれる)が、これに先立ち、慶応元年(1865年)10月に前橋に完成した練武所は、「表稽古」流派中で剣術改革に理解のある有志により運営され、寄合剣術と同様に神道無念流を中心に他流試合を行なった。慶応年間には、寄合剣術参加者数名が上州赤堀村の本間道場(本間念流)へ他流試合へ行くことも実現し、「表稽古」流派も他流試合を行うようになり、剣術改革はほぼ達成された。また同時期に、藩は平兵衛の高弟らの身分を昇格させ、慶応4年(1868年)に平兵衛は練武所教授方となった。 明治2年(1869年)4月、前橋藩は藩内の剣術流派を統合して、試合稽古中心の「新流」という流派にし、従来の剣術流派師範は全員解任された。同日に平兵衛も練武所教授方を解任されているので、同時に神道無念流師範も解任されたと思われる。同日、「表稽古」流派で他流試合に積極的だった者や平兵衛の弟子が練武所の師範に任じられている。
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