藩の剣術改革とは? わかりやすく解説

藩の剣術改革

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/10 05:37 UTC 版)

大川平兵衛」の記事における「藩の剣術改革」の解説

政情不安定化から軍備強化要請される状況を受け、文久2年1862年11月川越藩では大規模な軍制改革が行われ、これの一環として藩主松平直克より、それまで禁じられていた他流試合実施通達された。そのため、すでに実際試合行っていた神道無念流重要視されるようになったまた、兵衛徒士から大役人に昇格し正式に神道無念流師範任じられ下級藩士新たに剣術を学ぶ者は神道無念流を学ぶことが義務づけられた。これにより神道無念流は公式流派化した。ところが、百姓出身者が藩の指南役任じられたことや修行する流派指定されたことが藩士反発呼び、平兵衛対す中傷を含む軍制改革反対藩主家本家にあたる福井藩訴える者や、平兵衛隠居強制画策する者、集団での闇討ち計画する者などが現れた。これに対し、平兵衛私闘私怨避けた静かな振舞続けたという。しかし、それまで他流試合禁じてきた「表稽古」各流派師範反発により、全流派他流試合実施強制せず、他流試合希望する藩士他流試合を行う流派稽古にも出て行う、という妥協案を藩は提示することになり、川越藩剣術改革は一旦挫折した。 それでも徐々に改革気運高まり元治年間1864年 - 1865年)から上・中藩士神道無念流入門増えてゆき、本来は下級藩士足軽が学ぶ流派だったにもかかわらず稽古人数増加のため下級藩士足軽稽古つけられない状況にまでなった。藩側も改革進めるため元治元年1864年7月所属する流派に関係なく打ち混じって稽古し神道無念流教授する寄合剣術」を開始した。これにより、流派変えることなく神道無念流技術学べようになった。また「表稽古流派からも、江戸長沼道場直心影流)へ留学して竹刀打込稽古を学ぶ者が現れた。 慶応元年1865年6月、平兵衛川越藩飛び地の上総国望陀郡常駐している藩士への剣術指導のため、定期的に高弟派遣することを申し出、藩はこれを許可したこの中で兵衛は、常駐している藩士神道無念流剣術技術向上させることが同地防衛体制強化につながると主張しており、それまで兵衛提出してきた意見書異なり、藩の軍事政策対す意見含んだものであった慶応3年1867年)に松平直克川越藩飛び地だった上野国前橋城に還城する(以後前橋藩呼ばれる)が、これに先立ち慶応元年1865年10月前橋完成した練武所は、「表稽古流派中で剣術改革理解のある有志により運営され寄合剣術同様に神道無念流中心に他流試合行なった慶応年間には、寄合剣術参加者数名が上州赤堀村本間道場本間念流)へ他流試合へ行くことも実現し、「表稽古流派他流試合を行うようになり、剣術改革はほぼ達成された。また同時期に、藩は平兵衛高弟らの身分昇格させ、慶応4年1868年)に平兵衛練武教授となった明治2年1869年4月前橋藩は藩内の剣術流派統合して試合稽古中心の「新流」という流派にし、従来剣術流派師範全員解任された。同日に平兵衛練武教授方を解任されているので、同時に神道無念流師範解任されたと思われる同日、「表稽古流派他流試合積極的だった者や平兵衛弟子練武所の師範任じられている。

※この「藩の剣術改革」の解説は、「大川平兵衛」の解説の一部です。
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