藩の呼び方(藩名)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:03 UTC 版)
府藩県三治制において藩庁の所在地をもって藩名とする規則は初めからあるわけではなかった。例えば慶応4年旧暦2月11日に大中小藩の区別が制定された際の藩名表では、国持・大身国持の藩などは旧国名をもって藩名とされている。慶応4年旧暦5月15日の藩印制定の際も、明治政府に提出された藩印では旧国名を用いた藩名の藩印が多数作成されている。最終的に版籍奉還の際に藩庁の所在地をもって藩名とする規則が適用され、呼称が被る藩に関しては任知藩事時またはその直後に藩名が改称された。よって加賀藩、薩摩藩などの呼称も藩名が定まる前には実際に使われた実績がある。 また、久保田藩は江戸時代の藩主の官位として「秋田侍従」があり、戊辰戦争の際も郡名由来の「秋田藩」を名乗り、「秋田藩印」とする藩印を明治政府に提出しているが、藩庁所在地を藩名とする原則が徹底されたことにより、「久保田藩」が正式な名称となった。藩としては歴史的に使われた名称である「秋田藩」と呼ばれることを願い、城下町の名称を久保田から秋田に変更した上で、藩名を久保田藩から秋田藩に改名している。 明治時代以降、歴史用語として藩名を用いる場合、何を冠するかで3通りの捉え方があり、それぞれに異なる命名法として併存している。その3つとは、所領(旧令制国名義など)、大名、城下町である。 例えば「加賀藩」は、主たる所領が旧令制国名でいう「加賀国」であることに由来し、加賀地方以外にも多くの所領を持ちながら「加賀」の名を冠するもので、最も広く通用している名称であるが、これとは別に、大名・前田氏(加賀前田家)によって治められたことから「前田藩」という名称も通用している。また、この藩の中核をなす城下町が金沢城下(金沢城の城下町)であったことに基いて「金沢藩」という名称も用いられている。 例えば「彦根藩」は、主たる所領は旧令制国名でいう「近江国」ではあるが、近江地方は一藩が代表するには細分化されすぎており、その名を冠することはない。それよりも、北近江の地を治めるに当って居城を佐和山城から彦根山の新城(彦根城)に移して政治および地政学的刷新を図ったことが重要で、彦根に中核たる城下町が形成されたことに基いて「彦根藩」と呼ばれることとなった。なお、彦根藩を治めたのは大名・井伊氏(井伊掃部頭家)であるが、「井伊藩」とは呼ばれず、「井伊彦根藩」という名称がこれに代わる。
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