最初の大陸横断鉄道とは? わかりやすく解説

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最初の大陸横断鉄道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 04:29 UTC 版)

アメリカ合衆国の鉄道史」の記事における「最初の大陸横断鉄道」の解説

南北戦争が終わると、アメリカ経済成長時代迎えた戦争荒れ果てた南部にはレコンストラクション政策が採られ、復興事業進められた。この過程遅れていた南部工業化進んだヨーロッパからの移民続々到着しミシシッピ川より西へ入植進んだ南北戦争中の1862年ホームステッド法成立して入植し開墾進めた農民に対して無償国有地払い下げが行われることになり、これが開拓をさらに推進することになった鉄道はこの開拓進め交通手段として重要な役割果たした鉄道西部農村東部大都市を結び、農村生産され農作物大都市供給するとともに東部工業地帯生産され工業製品農村供給した1849年ゴールドラッシュ発生したカリフォルニアでは人口急増しており、サクラメント・バレー鉄道英語版)が建設された。この鉄道技師長を務めたセオドア・ジュッダ(英語版)は、「クレイジー・ジュッダ」のあだ名があるほどの人物で、東部において数々難工事成し遂げて鉄道の建設をしてきた実績があった。彼は、最終的に大陸横断鉄道建設する野望持ってカリフォルニア赴任してきたが、当初政府にまったく相手にされなかった。しかし南北戦争勃発すると、カリフォルニア州北部留めておくことは連邦政府にとって重要な課題となり、ジュッダの提案ワシントンでも大きく取り上げられるようになった政府ももともと大陸横断する鉄道予備的な調査行っており、北部中央部南部3つのルート検討していたが、既に集落いくつかできており土地平坦な南部ルートは、アメリカ連合国となった奴隷州を通過するため政治的に問題があった。北部ルート人口あまりに少なくかつ地形峻険であったため、最終的にネブラスカ準州オマハからカリフォルニアへ向かう中央ルート選択されることになった南北戦争中の1862年7月1日に、リンカーン大統領太平洋鉄道法(英語版)に署名した。この法律により、オマハから西へ向けて鉄道建設する会社としてユニオン・パシフィック鉄道設立された。この「ユニオン」は南北戦争において北部をあらわすUnionから来ている。これに対して南部のことはConfederacyと言ったカリフォルニア北部つなぎとめるために、北部全体としてプロジェクトとして進められたことから、ユニオン・パシフィック鉄道名づけられた。 一方カリフォルニアから東へ向けて鉄道建設する会社としては、太平洋鉄道以前カリフォルニア州州議会特許により1861年セントラル・パシフィック鉄道設立されていた。太平洋鉄道法では鉄道の建設支援するために、土地供与法と同様に土地供与が行われた。幅20マイル (32 km) の公有地鉄道会社払い下げられることになっており、また建設資金援助として、平地では1マイルあたり16,000ドル山地では1マイルあたり48,000ドル高原では1マイルあたり32,000ドル30年期限鉄道債を政府買い入れることになっていた。条件として、勾配22パーミル超えてはいけないこと、曲線半径は最低400フィート(約122 m)とすること、12年以内完成させることとされていた。 こうした法律制定過程で、カリフォルニアにおける有力な政治家商人などが建設計画関わるようになっていった。設立されセントラル・パシフィック鉄道には、もともと大陸横断鉄道計画作り政府働きかけ実現向けて動いてきたジュッダ以外に、ビッグ・フォー称される後にカリフォルニア州知事務めリーランド・スタンフォード商人のコリス・ハンチントン(英語版)、建設業者のチャールズ・クロッカー(英語版)、商人のマーク・ホプキンズ(英語版)の4人が重役として参画した。まじめに鉄道建設するつもりのジュッダと利権目当てビッグ・フォー対立し、後にジュッダは会社追い出されて、東部帰る途上黄熱病にかかり、ニューヨークにたどりついてから1863年11月2日亡くなったセントラル・パシフィック鉄道をひきついだサザン・パシフィック鉄道従業員醵金サクラメント駅前にジュッダの像が立てられたのは、それから60年後のことであった。しかしビッグ・フォーであっても反対に遭わず工事推進できたわけではなく鉄道できること不利益を被る駅馬車業者電信会社さらには東部から鉄道で安い商品入ってくると困る商人や、メキシコ肩入れしてアメリカ勢力が強まることを牽制したいフランスなど、様々な反対動きがあった。当初サクラメント・バレー鉄道買収して東へ延ばす計画であったが、サクラメント・バレー鉄道反対勢力支配するところとなってしまったため、サクラメントから別途敷きなおすことになった。後にセントラル・パシフィック鉄道敷設が進むことが確実になってから、サクラメント・バレー鉄道買収したセントラル・パシフィック鉄道1863年1月8日サクラメント起工された。社長スタンフォード副社長ハンチントン財務担当ホプキンズ就任し、ジュッダが去った後の主任技師任命されたのはサミュエル・モンタギュー英語版であった。この時代西部鉄道大して儲かる事業ではなく本当に儲かるのは鉄道建設事業そのものであるとされていた。そこで1マイルでも多く鉄道を敷くために、ユニオン・パシフィック鉄道競争になる形で東へ向けて猛然と鉄道の建設進めていった。その中で書類捏造して、本来は平地である場所も1マイルあたり48,000ドル鉄道債を発行できる山地であると偽って政府からの資金多く獲得することも行われた建設荒っぽいもので、周辺山から切り出してきた木材枕木加工して並べその上にレール固定するだけのものであった建設作業には中国人苦力多く使用された。シエラネバダ山脈越え経路難工事で、まだダイナマイト利用できなかったため発破による路線開削トンネル工事は特に困難なものであった。 これに対してユニオン・パシフィック鉄道設立参画したのは医師資格を持つ商人であったトーマス・デュラン(英語版であった社長に南北戦争将軍として名の通ったジョン・アダムズ・ディクス就任させ、デュラン自身実権握った副社長就任した技術者としてはピーター・デイ (Peter Dey) とグレンビル・ドッジ採用された。1863年12月2日ユニオン・パシフィック鉄道オマハから西へネブラスカ準州内の工事開始した。しかし南北戦争中の物価高騰もあり、工事遅々として進まなかった。こうした中、建設費ピンはねするためにクレディ・モビリエ(クレジット・モービラー Crédit Mobilier)という会社設立された。この会社ユニオン・パシフィック鉄道から鉄道の建設工事請け負い実際にかかった経費のほぼ倍の金額水増しして請求して差額役員山分けするという構造になっていた。このクレディ・モビリエには議会の有力議員であったオークス・エームズ(英語版)とその弟のオリバー・エームズ(英語版)の2人出資し2人出身ボストン周辺出資募ったことから次第資金が集まるようになった。さらに南北戦争終結資金集まり寄与し、ようやく鉄道の建設工事順調に進められるようになった一方デイはこの建設費中抜き不正に納得せず、辞任した有力者2人工作により、こちらでもやはり山地認定基準歪められて、販売する鉄道債の額が引き上げられた。 沿線はまだ先住民多く住んでおり、白人横暴に怒って襲撃してくることがあり、南北戦争英雄であったウィリアム・シャーマン将軍が軍を率いて鎮圧にでなければならなかった。しかし数が多かったため難渋し鉄道の建設血を見ながら進められることになったこうした工事最中デュランエームズ兄弟対立するようになり、エームズ兄弟工作デュランはクレディ・モビリエの役員の座を1867年5月追われることになった。しかしユニオン・パシフィック鉄道役員からも追い出す工作失敗終わった建設工事には、南北戦争からの復員軍人ジャガイモ飢饉アイルランドから来た移民多く当たった一方この頃ユタ準州には多く末日聖徒イエス・キリスト教会LDS教会モルモン教)の信徒移民してくるようになっており、ユニオン・パシフィック鉄道はこれに目をつけて、その指導者ブリガム・ヤング交渉して信徒移民必要な鉄道運賃割り引く代わりに鉄道建設工事LDS教会引き受け契約を結ぶことになった1868年5月21日結ばれた契約では、約5か月という短期間で約150マイル(約240 km)の鉄道建設することになっており、この費用2125000ドルとなっていた。1マイルあたり14,000ドル工事費それまでのクレディ・モビリエの工事から考えれば格安で、酷使され信徒からもそれを見た周辺からも非難相次いだ。しかし移民のための経費財政火の車となっていた教会および信徒は、現金収入となるこの鉄道工事やむをえないものと捉えこの後ユタ準州内の工事開始したセントラル・パシフィック鉄道とも同様の工事請負契約結んだ。 こうして東西から建設進められてきた大陸横断鉄道は、建設伴って得られる鉄道債の発行収入や、沿線供与され土地などの利権から、1マイルでも長く自社建設すべく激し競争となった。そのためにならず者雇って相手側の工事現場暴力ふるって妨害するなど、死者が出る騒動となったこのため議会双方工事進捗状況調査して合流点ユタ準州プロモントリー(英語版)と定めた工事完成1869年5月10日となり、ユニオン・パシフィック鉄道119号機関車セントラル・パシフィック鉄道ジュピター号機関車接続点で向き合わせて月桂樹作られ特別な枕木金と銀犬釘打ち込むゴールデン・スパイク式典が行われた。この瞬間電信で"done"という信号アメリカ全土送られ、それを祝って各地教会の鐘打ち鳴らされた。これによって「初めアメリカ1つ国家になった」と形容され、アメリカ史でももっとも重要な日であると考えられている。セントラル・パシフィック鉄道建設した距離は742マイル (1,187.2 km)、ユニオン・パシフィック鉄道建設した距離は1,038マイル (1,660.8 km) であった。後に、ユニオン・パシフィック鉄道一部線路セントラル・パシフィック鉄道売却して両社線路接続点はオグデン移動した。 しかしこの時点太平洋から大西洋までの鉄道本当につながったわけではなかった。ユニオン・パシフィック鉄道起点であるオマハミズーリ川西側にあり、対岸アイオワ州カウンシルブラフスとの間の鉄道橋開通するまではさらに時間かかった鉄道橋1871年完成したが、乗換業務は金の落ち仕事であったため、その業務相手側に取られることを嫌がってどちらの鉄道会社渡って相手会社乗り入れることを拒否した結局、2社を連絡する鉄道別途設立してカウンシルブラフスオマハで2回乗換乗客に強いるという馬鹿馬鹿しい状態で、ようやく鉄道つながったゴールデン・スパイク式典に、まだ存命であったセオドア・ジュッダの妻アン・ジュッダが呼ばれることはなかった。しかし後にスタンフォード画家式典様子を描かせた際には、線路上に集まった群衆中に亡くなったジュッダの姿も描かせている。 こうして完成した大陸横断鉄道であったが、その経営内実は楽ではなかった。特に酷かったのはユニオン・パシフィック鉄道で、クレディ・モビリエが多額建設費中抜きしていたこともあり、政府負担した鉄道債の金額大きく上回る費用を必要としたため多額転換社債発行していた。この返済行き詰まりレール供給した関係で債権者となっていたアンドリュー・カーネギー寝台車売り込み同様に債権者となっていたジョージ・プルマンが、ペンシルバニア鉄道からトマス・アレクサンダー・スコット社長として送り込んで救済しようとした。しかし、生木を十分乾かさずに枕木にしたことから腐敗進行しており、ずさんな盛り土工事をした場所も流失しやすく、全線渡って工事やりなおし必要な状態であることが判明した。さらに1872年にはクレディ・モビリエの件に関して議員株式をばら撒いていたことが社会露見してしまい、オークス兄弟始め関係者多く失脚するアメリカ議会史上空前疑獄事件となってしまった(クレディ・モビリエ事件英語版))。このあおりでユニオン・パシフィック鉄道破綻し財務上の再編受けて再出発しなければならなかった。

※この「最初の大陸横断鉄道」の解説は、「アメリカ合衆国の鉄道史」の解説の一部です。
「最初の大陸横断鉄道」を含む「アメリカ合衆国の鉄道史」の記事については、「アメリカ合衆国の鉄道史」の概要を参照ください。

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