最初の大陸横断鉄道
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「アメリカ合衆国の鉄道史」の記事における「最初の大陸横断鉄道」の解説
南北戦争が終わると、アメリカは経済成長の時代を迎えた。戦争で荒れ果てた南部にはレコンストラクションの政策が採られ、復興事業が進められた。この過程で遅れていた南部の工業化も進んだ。ヨーロッパからの移民は続々と到着し、ミシシッピ川より西への入植も進んだ。南北戦争中の1862年にホームステッド法が成立して、入植して開墾を進めた農民に対して無償で国有地の払い下げが行われることになり、これが開拓をさらに推進することになった。鉄道はこの開拓を進める交通手段として重要な役割を果たした。鉄道は西部の農村と東部の大都市を結び、農村で生産された農作物を大都市に供給するとともに、東部の工業地帯で生産された工業製品を農村に供給した。 1849年にゴールドラッシュが発生したカリフォルニアでは人口が急増しており、サクラメント・バレー鉄道(英語版)が建設された。この鉄道の技師長を務めたセオドア・ジュッダ(英語版)は、「クレイジー・ジュッダ」のあだ名があるほどの人物で、東部において数々の難工事を成し遂げて鉄道の建設をしてきた実績があった。彼は、最終的に大陸横断鉄道を建設する野望を持ってカリフォルニアに赴任してきたが、当初は政府にまったく相手にされなかった。しかし南北戦争が勃発すると、カリフォルニア州を北部に留めておくことは連邦政府にとって重要な課題となり、ジュッダの提案はワシントンでも大きく取り上げられるようになった。政府ももともと大陸を横断する鉄道の予備的な調査は行っており、北部・中央部・南部の3つのルートを検討していたが、既に集落がいくつかできており土地も平坦な南部ルートは、アメリカ連合国となった奴隷州を通過するため政治的に問題があった。北部ルートは人口があまりに少なくかつ地形も峻険であったため、最終的にネブラスカ準州オマハからカリフォルニアへ向かう中央ルートが選択されることになった。南北戦争中の1862年7月1日に、リンカーン大統領は太平洋鉄道法(英語版)に署名した。この法律により、オマハから西へ向けて鉄道を建設する会社としてユニオン・パシフィック鉄道が設立された。この「ユニオン」は南北戦争において北部をあらわすUnionから来ている。これに対して南部のことはConfederacyと言った。カリフォルニアを北部につなぎとめるために、北部全体としてのプロジェクトとして進められたことから、ユニオン・パシフィック鉄道と名づけられた。 一方、カリフォルニアから東へ向けて鉄道を建設する会社としては、太平洋鉄道法以前にカリフォルニア州の州議会の特許により1861年にセントラル・パシフィック鉄道が設立されていた。太平洋鉄道法では鉄道の建設を支援するために、土地供与法と同様に土地の供与が行われた。幅20マイル (32 km) の公有地が鉄道会社に払い下げられることになっており、また建設資金の援助として、平地では1マイルあたり16,000ドル、山地では1マイルあたり48,000ドル、高原では1マイルあたり32,000ドルの30年期限鉄道債を政府が買い入れることになっていた。条件として、勾配が22パーミルを超えてはいけないこと、曲線半径は最低400フィート(約122 m)とすること、12年以内に完成させることとされていた。 こうした法律の制定過程で、カリフォルニアにおける有力な政治家や商人などが建設計画に関わるようになっていった。設立されたセントラル・パシフィック鉄道には、もともと大陸横断鉄道の計画を作り政府に働きかけて実現へ向けて動いてきたジュッダ以外に、ビッグ・フォーと称される後にカリフォルニア州知事を務めるリーランド・スタンフォード、商人のコリス・ハンチントン(英語版)、建設業者のチャールズ・クロッカー(英語版)、商人のマーク・ホプキンズ(英語版)の4人が重役として参画した。まじめに鉄道を建設するつもりのジュッダと利権目当てのビッグ・フォーは対立し、後にジュッダは会社を追い出されて、東部へ帰る途上で黄熱病にかかり、ニューヨークにたどりついてから1863年11月2日に亡くなった。セントラル・パシフィック鉄道をひきついだサザン・パシフィック鉄道従業員の醵金でサクラメントの駅前にジュッダの像が立てられたのは、それから60年後のことであった。しかしビッグ・フォーであっても反対に遭わずに工事を推進できたわけではなく、鉄道ができることで不利益を被る駅馬車業者、電信会社、さらには東部から鉄道で安い商品が入ってくると困る商人や、メキシコに肩入れしてアメリカの勢力が強まることを牽制したいフランスなど、様々な反対の動きがあった。当初はサクラメント・バレー鉄道を買収して東へ延ばす計画であったが、サクラメント・バレー鉄道は反対勢力の支配するところとなってしまったため、サクラメントから別途敷きなおすことになった。後にセントラル・パシフィック鉄道の敷設が進むことが確実になってから、サクラメント・バレー鉄道を買収した。 セントラル・パシフィック鉄道は1863年1月8日にサクラメントで起工された。社長はスタンフォード、副社長がハンチントン、財務担当にホプキンズが就任し、ジュッダが去った後の主任技師に任命されたのはサミュエル・モンタギュー(英語版)であった。この時代の西部の鉄道は大して儲かる事業ではなく、本当に儲かるのは鉄道建設事業そのものであるとされていた。そこで1マイルでも多くの鉄道を敷くために、ユニオン・パシフィック鉄道と競争になる形で東へ向けて猛然と鉄道の建設を進めていった。その中で書類を捏造して、本来は平地である場所も1マイルあたり48,000ドルの鉄道債を発行できる山地であると偽って政府からの資金を多く獲得することも行われた。建設は荒っぽいもので、周辺の山から切り出してきた木材を枕木に加工して並べ、その上にレールを固定するだけのものであった。建設作業には中国人の苦力が多く使用された。シエラネバダ山脈を越える経路は難工事で、まだダイナマイトは利用できなかったため発破による路線の開削やトンネル工事は特に困難なものであった。 これに対して、ユニオン・パシフィック鉄道の設立に参画したのは医師の資格を持つ商人であったトーマス・デュラン(英語版)であった。社長には南北戦争の将軍として名の通ったジョン・アダムズ・ディクスに就任させ、デュラン自身は実権を握った副社長に就任した。技術者としてはピーター・デイ (Peter Dey) とグレンビル・ドッジが採用された。1863年12月2日にユニオン・パシフィック鉄道はオマハから西へネブラスカ準州内の工事を開始した。しかし南北戦争中の物価高騰もあり、工事は遅々として進まなかった。こうした中、建設費をピンはねするためにクレディ・モビリエ(クレジット・モービラー Crédit Mobilier)という会社が設立された。この会社はユニオン・パシフィック鉄道から鉄道の建設工事を請け負い、実際にかかった経費のほぼ倍の金額に水増しして請求して、差額を役員が山分けするという構造になっていた。このクレディ・モビリエには議会の有力議員であったオークス・エームズ(英語版)とその弟のオリバー・エームズ(英語版)の2人が出資し、2人が出身のボストン周辺で出資を募ったことから次第に資金が集まるようになった。さらに南北戦争の終結も資金の集まりに寄与し、ようやく鉄道の建設工事が順調に進められるようになった。一方、デイはこの建設費中抜きの不正に納得せず、辞任した。有力者の2人の工作により、こちらでもやはり山地の認定基準が歪められて、販売する鉄道債の額が引き上げられた。 沿線はまだ先住民が多く住んでおり、白人の横暴に怒って襲撃してくることがあり、南北戦争の英雄であったウィリアム・シャーマン将軍が軍を率いて鎮圧にでなければならなかった。しかし数が多かったため難渋し、鉄道の建設は血を見ながら進められることになった。こうした工事の最中にデュランとエームズ兄弟は対立するようになり、エームズ兄弟の工作でデュランはクレディ・モビリエの役員の座を1867年5月に追われることになった。しかしユニオン・パシフィック鉄道の役員からも追い出す工作は失敗に終わった。建設工事には、南北戦争からの復員軍人やジャガイモ飢饉でアイルランドから来た移民が多く当たった。一方この頃、ユタ準州には多くの末日聖徒イエス・キリスト教会(LDS教会、モルモン教)の信徒が移民してくるようになっており、ユニオン・パシフィック鉄道はこれに目をつけて、その指導者のブリガム・ヤングと交渉して、信徒の移民に必要な鉄道運賃を割り引く代わりに鉄道建設工事をLDS教会で引き受ける契約を結ぶことになった。1868年5月21日に結ばれた契約では、約5か月という短期間で約150マイル(約240 km)の鉄道を建設することになっており、この費用は212万5000ドルとなっていた。1マイルあたり14,000ドルの工事費はそれまでのクレディ・モビリエの工事から考えれば格安で、酷使される信徒からもそれを見た周辺からも非難が相次いだ。しかし移民のための経費で財政が火の車となっていた教会および信徒は、現金収入となるこの鉄道工事はやむをえないものと捉え、この後ユタ準州内の工事を開始したセントラル・パシフィック鉄道とも同様の工事請負契約を結んだ。 こうして東西から建設を進められてきた大陸横断鉄道は、建設に伴って得られる鉄道債の発行収入や、沿線で供与される土地などの利権から、1マイルでも長く自社で建設すべく激しい競争となった。そのためにならず者を雇って相手側の工事現場で暴力をふるって妨害するなど、死者が出る騒動となった。このため、議会は双方の工事進捗状況を調査して、合流点をユタ準州プロモントリー(英語版)と定めた。工事の完成は1869年5月10日となり、ユニオン・パシフィック鉄道の119号機関車とセントラル・パシフィック鉄道のジュピター号機関車を接続点で向き合わせて、月桂樹で作られた特別な枕木に金と銀の犬釘を打ち込む、ゴールデン・スパイクの式典が行われた。この瞬間、電信で"done"という信号がアメリカ全土に送られ、それを祝って各地の教会の鐘が打ち鳴らされた。これによって「初めてアメリカは1つの国家になった」と形容され、アメリカ史でももっとも重要な日であると考えられている。セントラル・パシフィック鉄道が建設した距離は742マイル (1,187.2 km)、ユニオン・パシフィック鉄道が建設した距離は1,038マイル (1,660.8 km) であった。後に、ユニオン・パシフィック鉄道は一部の線路をセントラル・パシフィック鉄道に売却して、両社の線路の接続点はオグデンに移動した。 しかしこの時点で太平洋から大西洋までの鉄道が本当につながったわけではなかった。ユニオン・パシフィック鉄道の起点であるオマハはミズーリ川の西側にあり、対岸のアイオワ州カウンシルブラフスとの間の鉄道橋が開通するまではさらに時間がかかった。鉄道橋は1871年に完成したが、乗換業務は金の落ちる仕事であったため、その業務を相手側に取られることを嫌がってどちらの鉄道会社も橋を渡って相手の会社に乗り入れることを拒否した。結局、2社を連絡する鉄道を別途設立して、カウンシルブラフスとオマハで2回乗換を乗客に強いるという馬鹿馬鹿しい状態で、ようやく鉄道がつながった。 ゴールデン・スパイクの式典に、まだ存命であったセオドア・ジュッダの妻アン・ジュッダが呼ばれることはなかった。しかし後にスタンフォードが画家に式典の様子を描かせた際には、線路上に集まった群衆の中に亡くなったジュッダの姿も描かせている。 こうして完成した大陸横断鉄道であったが、その経営の内実は楽ではなかった。特に酷かったのはユニオン・パシフィック鉄道で、クレディ・モビリエが多額の建設費を中抜きしていたこともあり、政府が負担した鉄道債の金額を大きく上回る費用を必要としたため、多額の転換社債を発行していた。この返済に行き詰まり、レールを供給した関係で債権者となっていたアンドリュー・カーネギーや寝台車の売り込みで同様に債権者となっていたジョージ・プルマンが、ペンシルバニア鉄道からトマス・アレクサンダー・スコットを社長として送り込んで救済しようとした。しかし、生木を十分乾かさずに枕木にしたことから腐敗が進行しており、ずさんな盛り土の工事をした場所も雨で流失しやすく、全線に渡って工事のやりなおしが必要な状態であることが判明した。さらに1872年にはクレディ・モビリエの件に関して議員に株式をばら撒いていたことが社会に露見してしまい、オークス兄弟を始め関係者の多くが失脚するアメリカ議会史上空前の疑獄事件となってしまった(クレディ・モビリエ事件(英語版))。このあおりでユニオン・パシフィック鉄道も破綻し、財務上の再編を受けて再出発しなければならなかった。
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