憲法制定国民議会と1791年憲法体制とは? わかりやすく解説

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憲法制定国民議会と1791年憲法体制

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:54 UTC 版)

ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「憲法制定国民議会と1791年憲法体制」の解説

人間と市民の権利の宣言」、「1791年憲法」、および「聖職者民事基本法」も参照 一方1780年代フランス国家財政疲弊達していた。ジャック・テュルゴージャック・ネッケルによって試みられ財政改革停滞し後を引き継いだシャルル・アレクサンドル・ド・カロンヌエティエンヌ=シャルル・ド・ロメニー・ド・ブリエンヌらの改革不調に終わりネッケル財務総監再任命された。1789年5月国王ルイ16世財政問題抜本的な立て直しのために3身分聖職者326人、貴族330人、平民661人)の代表計1,318人による全国三部会ヴェルサイユ召集し事態改善目指した。しかし、貴族たちは新し租税制度反対し、一般総会開催国王求めたアベ・シェイエスはじめとする第三身分平民)は自分たちこそがフランス国民代表者であると主張し、みずからの会議国民議会称し憲法制定されるまではどんな圧力があっても議会解散させない誓い合って立憲王政目指した。これに第一身分聖職者議員大部分自由主義支持する第二身分貴族)の議員合流し1789年7月9日には憲法制定国民議会発足した7月14日には事態急展開をみせ、政府外国人傭兵をかき集めてパリ駐屯隊を強化する方針定めたという噂が流れたほか、7月11日には財政問題唯一解決できるみなされていた穏健改革派ネッケル罷免されたという情報接したパリ群衆激怒してバスティーユ牢獄襲撃し武器奪ってここを占拠した。まもなく騒動フランス全土におよび、後世に「大恐怖」と称されるパニック状態農村各地広がった貴族邸宅農民たちによって襲われ土地台帳奪われ焼き捨てられた。国民議会オノーレ・ミラボーらの主導のもとで大恐怖対応するための改革急ぎ8月4日には封建的特権廃止有償)を宣言したまた、議会8月26日十分の一教会税廃止決議し憲法前文としてラファイエットらの起草による「人間と市民の権利の宣言」が採択され自由と平等国民主権言論の自由私有財産不可侵などの諸原則がここに示された。これが、いわゆるフランス人権宣言」である。 フランス人権宣言では、国家は「人の消滅することのない自然権保全する」という世俗的目的のための「政治的団結」であるとされ、フランス国家はここにおいて真理への奉仕や神の喜捨ではなく自由で平等な個人」の意思のうえに基礎づけられた。ここにおける「個人」とは信教の自由という権利有し宗派かかわりなく平等であることを保障された、世俗的な存在として想定され自律的な個人であった。ここに、国家宗教の関係について「中立化」という方向づけが明確になったのであるとはいえこの段階ではフランスの国会教会はまだ必ずしも分離されていなかった。 十分の一教会税廃止は、これまで自弁維持してきた聖堂学校神学校施療院捨て子養育院貧民救済などの諸事業にかかわる財産一切放棄して国庫全面的に依存することを意味しているほか、教会9月末には教会所有する金銀製の聖器や装飾品などの類も礼拝儀式必要なもの除き、すべてを国庫供出することに同意した国民議会1789年10月より教会の組織再編審議し始め、これはカトリック聖職者自治およびその排他的権利にとっては脅威となった1789年11月2日フリーメイソン会員啓蒙思想影響強く受けたオータン司教タレーラン・ペリゴール憲法制定国民議会対し修道院を含む全教財産の没収国有化提案した議会はこれを採択し国家祭式費用聖職者給与負担することを決定した教会所有地フランス王国の2割に達していたと考えられ、その資産総額は約30フラン達した接収した土地一部1890年5月7月出され政令もとづき売却された。教会財産国有化は、かつてプロテスタント君主が自領でおこなった改革であったが、革命前後混乱税金不払い拡大のため、財政状況さらなる深刻化から非常措置やむをえないとされたからであった。これにより、フランス国内の司教司祭神聖特別な立場から国家公務員という立場となり、すべて一定額以上の租税負担負え有権者(「能動市民」)によって選ばれる身分となった1790年3月には財政悪化がさらに進行したため、見積もられ国有資産となった教会領を担保とする5パーセント利子付き債券アッシニア」の発行決定された。教会に関する国民議会当初方針道徳的基盤としての教会存続を脅かすことではなく聖書者および聖職者による教育慈善事業国家管理であった。しかし、かねてより無益費用がかかりすぎるとして多方面より批判があった観想修道会などについては、廃止決定された(1790年2月13日1792年8月18日法令)。これによって実体ともなわない男子修道会統廃合進んだが、教育医療にかかわるものについては除外された。修道僧強制的な還俗も含むこの措置世俗権力による宗教そのものへの侵害意味したが、ほとんど抵抗なく実施された。 2月13日法令では行政教区聖職者組織体系にまでは干渉していなかったが、1790年7月12日には行政権力の力で教会粛正再編を図る聖職者民事基本法聖職者市民法)が議会通過した従来では135あった司教区新たに導入された県に合わせて83削減され18名いた大司教10名までとされた。市町村小教区人口合わせて再編された。聖職者位階単純化され、すでに有名無実化していた役職聖職禄全廃された。また、修道誓願禁止観想修道会禁止聖職服の禁止などが定められた。教区司祭司教適性資格審査されたのち、行政単位ごとに選挙集会選挙において俗人によって選ばれることとなった。つまり、これは行政改革原則教会組織にまで拡大されたことを意味している。聖職者民事基本法本質は、教会国家市民社会従属しなければならないとするものであり、一面ではガリカニスム論理的帰結でもあったが、これはローマ教会としては到底受け入れがたいものであった当初ローマ教皇ピウス6世態度保留していたものの、すべてのフランス聖職者公務員として革命政府忠誠の誓い立てなければならない1790年11月17日法令)と定められるや、1791年3月から4月にかけてこの法令の内容公然と非難し続けた多くフランス聖職者たちは教会民主化喜んで受け入れたものの、135名の司教のうち宣誓応じたのはタレーラン含めて7名のみであり、教区直接信徒接す司祭助祭は約半数近く相当する2万4千名あまりが宣誓拒否した全体の5割強が国家への忠誠誓ったものの、ローマ教皇このような態度鮮明にすると、宣誓撤回した聖職者少なくなかったまた、教皇どのような意見わからないまま不本意ながら聖職者民事基本法署名したルイ16世は、のちに教皇見解接したとき暗澹たる表情示していたという。 フランス教会は、タレーラン指導された「憲法教会」と宣誓拒否した正統教会分裂した信仰心篤い地域では宣誓僧は無資格僧とみなされ、「ユダ裏切り者」と罵倒され宣誓拒否僧は聖人扱いされることも多く、しばしば宣誓拒否自身反革命煽動したこともあったのに対し革命派勢力盛んだった都市部などでは宣誓渋るに対して民衆圧力をかけ、決断強制するようなことも少なくなかった。「宣誓縛り首か」を迫られ聖職者もあれば、宣誓拒否したためや鎌をもった群衆によって「異端宣言され追放され聖職者もいた。こうしたフランス全土におよぶ深刻な教会分裂は、1801年ナポレオン・ボナパルトによるカトリック教会復興まで続いたピウス6世に従って宣誓拒否した聖職者対す弾圧伝統的な宗教生活にとっては致命的なものであったが、ヴァンデの反乱後述)をはじめとする反革命大きな力を与え契機ともなった国家が反聖職者的かつ反宗教的な諸法次々制定すると、カトリック伝統支持する地域住民多くは、神と彼らを仲介する存在として長らく機能してきた教区司祭守ろうとし、アンシャン・レジーム復興強く希求するようになった。こうして教会内部での抗争激化したが、過激派勢い得た革命政府1791年ローマ教皇庁断交し、当時教皇領だったアヴィニョンとコンタ・ヴネサン(フランス語版)を占領した憲法制定国民議会1791年9月3日フランス初の憲法1791年憲法)を可決し、これはまもなく国王ルイ16世によって承認された。この憲法は、教会国家権力のもとに置き、権力世俗化を図ることを一つ特徴としていた。これに先立つ新し地方行政制度ギルド廃止定めたル・シャプリエ法、上述したアッシニア発行聖職者民事基本法、あるいはそのほか行政財産に関する法令次々と成立したが、1791年憲法とこれら一連の法令にもとづく体制1791年憲法体制という。ここでは、権力世俗化とともにギルドなどの社団的な中間権力なくして権力一元化推し進められた。1791年憲法では、税の支払能力によって能動市民受動市民分け能動市民による制限選挙によって選ばれ議員による一院制新し議会を開くことが定められた。こうした自由主義的な立憲君主制軟着陸するためには国王側の協力条件となっていたが、革命側からすればこれは不確実なもの理解されていた。議会二院制論をしりぞけ立法機関行政機関対す優位強調して国王拒否権難色示したのも、宮廷対す疑念からであった国王一家パリ脱出しその日のうちにヴァレンヌ捕捉され1791年6月20日事件ヴァレンヌ事件)は、国民見捨てようとした国王夫妻対すこうした疑念押し広げ、それはときに激し嫌悪をともなうものだったのである

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