憲法制定国民議会と1791年憲法体制
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「憲法制定国民議会と1791年憲法体制」の解説
「人間と市民の権利の宣言」、「1791年憲法」、および「聖職者民事基本法」も参照 一方、1780年代のフランスの国家財政は疲弊の極に達していた。ジャック・テュルゴーやジャック・ネッケルによって試みられた財政改革は停滞し、後を引き継いだシャルル・アレクサンドル・ド・カロンヌ、エティエンヌ=シャルル・ド・ロメニー・ド・ブリエンヌらの改革も不調に終わり、ネッケルが財務総監に再任命された。1789年5月、国王ルイ16世は財政問題の抜本的な立て直しのために3身分(聖職者326人、貴族330人、平民661人)の代表計1,318人による全国三部会をヴェルサイユに召集し、事態の改善を目指した。しかし、貴族たちは新しい租税制度に反対し、一般総会の開催を国王に求めた。アベ・シェイエスをはじめとする第三身分(平民)は自分たちこそがフランス国民の代表者であると主張し、みずからの会議を国民議会と称し、憲法が制定されるまではどんな圧力があっても議会を解散させないと誓い合って立憲王政を目指した。これに第一身分(聖職者)議員の大部分と自由主義を支持する第二身分(貴族)の議員が合流し、1789年7月9日には憲法制定国民議会が発足した。7月14日には事態が急展開をみせ、政府が外国人傭兵をかき集めてパリ駐屯隊を強化する方針を定めたという噂が流れたほか、7月11日には財政問題を唯一解決できるとみなされていた穏健改革派のネッケルが罷免されたという情報に接したパリの群衆が激怒してバスティーユ牢獄を襲撃し、武器を奪ってここを占拠した。まもなく騒動はフランス全土におよび、後世に「大恐怖」と称されるパニック状態が農村各地に広がった。貴族の邸宅は農民たちによって襲われ、土地台帳は奪われて焼き捨てられた。国民議会はオノーレ・ミラボーらの主導のもとで大恐怖に対応するための改革を急ぎ、8月4日には封建的特権の廃止(有償)を宣言した。また、議会は8月26日に十分の一教会税の廃止を決議し、憲法前文としてラファイエットらの起草による「人間と市民の権利の宣言」が採択され、自由と平等、国民主権、言論の自由、私有財産の不可侵などの諸原則がここに示された。これが、いわゆる「フランス人権宣言」である。 フランス人権宣言では、国家は「人の消滅することのない自然権を保全する」という世俗的目的のための「政治的団結」であるとされ、フランス国家はここにおいて真理への奉仕や神の喜捨にではなく自由で平等な「個人」の意思のうえに基礎づけられた。ここにおける「個人」とは信教の自由という権利を有し、宗派にかかわりなく平等であることを保障された、世俗的な存在として想定された自律的な個人であった。ここに、国家と宗教の関係について「中立化」という方向づけが明確になったのである。とはいえ、この段階ではフランスの国会と教会はまだ必ずしも分離されていなかった。 十分の一教会税の廃止は、これまで自弁で維持してきた聖堂や学校、神学校、施療院、捨て子養育院、貧民救済などの諸事業にかかわる財産の一切を放棄して国庫に全面的に依存することを意味しているほか、教会は9月末には教会が所有する金銀製の聖器や装飾品などの類も礼拝の儀式に必要なものを除き、すべてを国庫に供出することに同意した。国民議会は1789年10月より教会の組織再編を審議し始め、これはカトリック聖職者の自治およびその排他的権利にとっては脅威となった。 1789年11月2日、フリーメイソン会員で啓蒙思想の影響を強く受けたオータン司教のタレーラン・ペリゴールが憲法制定国民議会に対し、修道院を含む全教会財産の没収と国有化を提案した。議会はこれを採択し、国家が祭式費用と聖職者の給与を負担することを決定した。教会所有地はフランス王国の2割に達していたと考えられ、その資産総額は約30億フランに達した。接収した土地の一部は1890年5月と7月に出された政令にもとづき、売却された。教会財産の国有化は、かつてプロテスタントの君主が自領でおこなった改革であったが、革命前後の混乱と税金不払いの拡大のため、財政状況のさらなる深刻化から非常措置もやむをえないとされたからであった。これにより、フランス国内の司教と司祭は神聖で特別な立場から国家公務員という立場となり、すべて一定額以上の租税負担を負える有権者(「能動市民」)によって選ばれる身分となった。1790年3月には財政悪化がさらに進行したため、見積もられた国有資産となった教会領を担保とする5パーセントの利子付き債券「アッシニア」の発行が決定された。教会に関する国民議会の当初方針は道徳的基盤としての教会の存続を脅かすことではなく、聖書者および聖職者による教育・慈善事業の国家管理であった。しかし、かねてより無益で費用がかかりすぎるとして多方面より批判があった観想修道会などについては、廃止が決定された(1790年2月13日と1792年8月18日の法令)。これによって実体のともなわない男子修道会の統廃合が進んだが、教育や医療にかかわるものについては除外された。修道僧の強制的な還俗も含むこの措置は世俗権力による宗教そのものへの侵害を意味したが、ほとんど抵抗なく実施された。 2月13日の法令では行政は教区聖職者の組織体系にまでは干渉していなかったが、1790年7月12日には行政権力の力で教会の粛正と再編を図る聖職者民事基本法(聖職者市民法)が議会を通過した。従来では135あった司教区は新たに導入された県に合わせて83に削減され、18名いた大司教も10名までとされた。市町村の小教区も人口に合わせて再編された。聖職者の位階も単純化され、すでに有名無実化していた役職・聖職禄は全廃された。また、修道誓願の禁止、観想修道会の禁止、聖職服の禁止などが定められた。教区司祭と司教は適性や資格が審査されたのち、行政単位ごとに選挙集会の選挙において俗人によって選ばれることとなった。つまり、これは行政改革の原則が教会組織にまで拡大されたことを意味している。聖職者民事基本法の本質は、教会は国家と市民社会に従属しなければならないとするものであり、一面ではガリカニスムの論理的帰結でもあったが、これはローマ教会としては到底受け入れがたいものであった。当初、ローマ教皇のピウス6世は態度を保留していたものの、すべてのフランスの聖職者が公務員として革命政府に忠誠の誓いを立てなければならない(1790年11月17日の法令)と定められるや、1791年3月から4月にかけてこの法令の内容を公然と非難し続けた。多くのフランスの聖職者たちは教会の民主化を喜んで受け入れたものの、135名の司教のうち宣誓に応じたのはタレーラン含めて7名のみであり、教区で直接信徒に接する司祭や助祭は約半数近くに相当する2万4千名あまりが宣誓を拒否した。全体の5割強が国家への忠誠を誓ったものの、ローマ教皇がこのような態度を鮮明にすると、宣誓を撤回した聖職者も少なくなかった。また、教皇がどのような意見がわからないまま不本意ながら聖職者民事基本法に署名したルイ16世は、のちに教皇の見解に接したとき暗澹たる表情を示していたという。 フランスの教会は、タレーランに指導された「憲法派教会」と宣誓を拒否した正統教会に分裂した。信仰心の篤い地域では宣誓僧は無資格僧とみなされ、「ユダ、裏切り者」と罵倒され、宣誓拒否僧は聖人扱いされることも多く、しばしば宣誓拒否僧自身が反革命を煽動したこともあったのに対し、革命派の勢力が盛んだった都市部などでは宣誓を渋る僧に対して民衆が圧力をかけ、決断を強制するようなことも少なくなかった。「宣誓か縛り首か」を迫られた聖職者もあれば、宣誓拒否をしたために槍や鎌をもった群衆によって「異端」宣言され、追放された聖職者もいた。こうしたフランス全土におよぶ深刻な教会分裂は、1801年のナポレオン・ボナパルトによるカトリック教会の復興まで続いた。ピウス6世に従って宣誓を拒否した聖職者に対する弾圧は伝統的な宗教生活にとっては致命的なものであったが、ヴァンデの反乱(後述)をはじめとする反革命に大きな力を与える契機ともなった。国家が反聖職者的かつ反宗教的な諸法を次々に制定すると、カトリックの伝統を支持する地域住民の多くは、神と彼らを仲介する存在として長らく機能してきた教区司祭を守ろうとし、アンシャン・レジームの復興を強く希求するようになった。こうして教会内部での抗争は激化したが、過激派が勢いを得た革命政府は1791年にローマ教皇庁と断交し、当時の教皇領だったアヴィニョンとコンタ・ヴネサン(フランス語版)を占領した。 憲法制定国民議会は1791年9月3日にフランス初の憲法(1791年憲法)を可決し、これはまもなく国王ルイ16世によって承認された。この憲法は、教会を国家権力のもとに置き、権力の世俗化を図ることを一つの特徴としていた。これに先立つ新しい地方行政制度やギルドの廃止を定めたル・シャプリエ法、上述したアッシニアの発行、聖職者民事基本法、あるいはそのほかの行政や財産に関する法令が次々と成立したが、1791年憲法とこれら一連の法令にもとづく体制を1791年憲法体制という。ここでは、権力の世俗化とともにギルドなどの社団的な中間権力をなくして権力の一元化が推し進められた。1791年憲法では、税の支払能力によって能動市民と受動市民に分け、能動市民による制限選挙によって選ばれた議員による一院制の新しい議会を開くことが定められた。こうした自由主義的な立憲君主制が軟着陸するためには国王側の協力が条件となっていたが、革命側からすればこれは不確実なものと理解されていた。議会が二院制論をしりぞけ、立法機関の行政機関に対する優位を強調して国王拒否権に難色を示したのも、宮廷に対する疑念からであった。国王一家がパリを脱出し、その日のうちにヴァレンヌで捕捉された1791年6月20日の事件(ヴァレンヌ事件)は、国民を見捨てようとした国王夫妻に対するこうした疑念を押し広げ、それはときに激しい嫌悪をともなうものだったのである。
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