1791年憲法体制
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「1791年憲法」の記事における「1791年憲法体制」の解説
ラファイエット、そしてアントワーヌ・バルナーヴ、アレクサンドル・ド・ラメット、アドリアン・デュポール(英語版)の3人(「三頭派」)らを中心とする愛国派(のちにフイヤン派)が主導するなか、憲法制定国民議会は新制度の建設に従事した。能動的市民と受動的市民とを分けて制限選挙を採用する1791年憲法をはじめ、新しい地方行政制度、アッシニア紙幣の発行、教会を国家に従属させる、1790年7月制定の聖職者民事基本法、その他、行政や財産に関する法がひとつひとつ審議され、次々と決定された。この集成とその全体を、1791年憲法体制という。こうした自由主義的な立憲君主制が軟着陸するためには、国王側がこれに協力することが条件となっていたが、革命側からすれば、これが不確実なものと把握された。議会が二院制論をしりぞけ、立法府の執行府に対する優位を強調して国王拒否権に難色を示したのも、宮廷に対する疑念から発していた。 事実、1789年10月の、いわゆる「ヴェルサイユ行進」(十月事件)以来、国王ルイ16世はオーストリアやスペイン・ブルボン朝の宮廷に行動費の援助と列強による支援を要請する一方、聖職者民事基本法をめぐる宗教界の紛糾を利用してフランス国内を分裂に導こうとした。とくに1790年夏にはフランス南東のジャレスに2万5,000名におよぶ反革命の農民ゲリラが組織され、国王がリヨンに脱出するのをまって内戦にもちこむ計画が立てられた(「リヨンの陰謀」)。 一方、国民議会は制限選挙に反対する民主派からも攻撃を受けた。1790年6月のパリの市政改革により、従来の60地区(ディストリクト)を改変して48のセクションに行政単位が再区画されたが、従来、ディストリクトの会議に出席できたパリの民衆は、受動的市民としてセクションの会議から閉め出されたため、サン・キュロットは組織を失い、コルドリエ・クラブをはじめとする各種の人民クラブを設立し、1791年6月にはパリでその数17におよんだ。農村においても、領主制廃止が農民にとってはかなり重い有償方式を採用しているため農民解放の進捗は遅々たるものであり、それに加えて聖職者の土地財産の払下げ(第一種国有財産売却)が農民にとっては不利な競売方式だったため、1790年から農民一揆が再び各地で頻繁に発生するようになった。アッシニア債券は、1790年春から紙幣として流通し、乱発されてインフレーションとなり、物価高騰を引き起こして民衆生活は困窮の度を深めた。 1790年8月のナンシー連隊の兵士反乱(ナンシー事件)は、以上のような政治的・財政的な不安定性が愛国派による革命方式の破産を露呈させる最初の事件となった。これにより、ラファイエットは支持を失い、かわってバルナーヴ、ラメット、デュポールら三頭派が主導権を握ったが、しかし、そのかれらも1791年6月の国王逃亡事件(ヴァレンヌ事件)によって苦境においこまれ、三頭派の革命方式もまた破産が明白となった。
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