王政の廃止と国王の処刑
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「フランス革命期における非キリスト教化運動」の記事における「王政の廃止と国王の処刑」の解説
「8月10日事件」および「九月虐殺」も参照 憲法制定国民議会は、1791年9月3日、フランス初の憲法(1791年憲法)を可決し、これはまもなく国王ルイ16世によって承認された。この憲法は、教会を国家権力のもとにおき、権力の世俗化を図ることを1つの特徴としていた。これに先立つ新しい地方行政制度やギルドの廃止を定めたル・シャプリエ法、教会財産を担保とする債券アッシニアの発行、聖職者民事基本法、あるいは、そのほか行政や財産に関する法令が次々と成立したが、1791年憲法とこれらの一連の法令にもとづく体制を「1791年憲法体制」と呼んでいる。ここでは、権力の世俗化とともにギルドなどの社団的な中間権力をなくして権力の一元化が推し進められた。1791年憲法では、税の支払能力によって能動市民と受動市民とに分け、能動市民による制限選挙によって選ばれた議員による、一院制の新しい議会をひらくことが定められた。こうした自由主義的な立憲君主制が軟着陸するためには、国王側の協力が条件となっていたが、革命側からすれば、これは不確実なものと把握されていた。議会が二院制論をしりぞけ、立法機関の行政機関に対する優位を強調して国王拒否権に難色を示したのも、宮廷に対する疑念からであった。国王一家がパリを脱出し、その日のうちにヴァレンヌで捕捉された1791年6月20日の事件(ヴァレンヌ事件)は、国民を見捨てようとした国王夫妻に対するこうした疑念を押しひろげ、それはときに激しい嫌悪をともなうものであった。 国民議会は制限選挙が実施されたことでその目的を終え、1791年9月30日、立法議会(立法国民議会)に引き継がれた。この議員の選挙では、国民議会議員の再選が禁じられていたので、新人ばかりの顔ぶれとなった。議会では、立憲君主政の定着をはかるフイヤン派といっそうの民主化を求めるジロンド派が対立した。立法議会は、フランス国内の反革命運動を支援する外国との開戦を主張するジロンド派、また、それとは逆に敗戦によって革命の終結をもくろむ国王周辺の双方の意向におされ、1792年4月20日、国境地帯の亡命者とこれを支持する外国の軍勢に対し軍事行動をとることを可決した。これは事実上、オーストリアに対する宣戦布告となった(フランス革命戦争)。これを受けてオーストリアと同盟したプロイセン軍がフランスに侵入、将校の大半が亡命し、弱体化していたフランス軍に対し、祖国の危機を感じたパリの民衆と全国から駆け付けた義勇軍がテュイルリー宮殿を襲撃して国王一家をタンプル塔に監禁、立法議会に対して普通選挙によって選ばれた議員から成る新しい議会の開設と新憲法の制定を約束させた(8月10日事件)。 翌8月11日、立法議会がパリのコミューンの圧力によりフランス国内全土の反革命容疑者の逮捕を許可し、8月17日にはこれら政治犯を裁く「特別刑事裁判所」の設置を承認した。こうしてパリの牢獄は反革命派とみなされた囚人でいっぱいになった。8月26日にロンウィがプロイセン軍により攻略され、パリ侵攻への危機感が一挙に高まった。義勇兵の募集が行なわれたが、その一方で「牢獄に収監されている反革命派たちが義勇軍出兵後にパリに残った彼らの家族を虐殺する」という噂も流れていた。オーストリア軍がフランスのヴェルダン要塞を陥落させた報がパリに伝えられると、ジョルジュ・ダントンは「全ては興奮し、全ては動顚し、全てはつかみかからんばかりだ。やがて打ち鳴らされる鐘は警戒の知らせではない。それは祖国の敵への攻撃なのだ。敵に打ち勝つためには、大胆さ、いっそうの大胆さ、常に大胆さが必要なのだ。そうすればフランスは救われるだろう!」と演説した。これがテロリズムへの公然たる誘導となり、9月2日未明から反革命派狩りが始まった(「九月虐殺」)。当時の牢獄には反革命とみなされた聖職者が収容されていた。宣誓拒否聖職者たちもいたが、政治に関与した聖職者は多くなかった。興奮した民衆の一群がまずアベイ牢獄に押しかけて収容されていた23人の聖職者を殺害し、ついでカルム牢獄では収監されていた150人の聖職者の大部分を殺害した。虐殺は牢獄のみならずいたるところで起こり、さらに地方へも拡散して数日間におよんだ。マリー・アントワネットと運命を共にするため帰国し、逮捕されていたランバル夫人も、このとき無残に殺されている。 1792年9月21日、男子普通選挙にもとづく国民公会がひらかれ、9月22日、王政の廃止が宣言されてフランス共和国が成立した。1793年1月21日、祖国に対する裏切りの罪で裁判にかけられた国王ルイ16世はシャルル=アンリ・サンソンの手によってギロチンで処刑された。 これは、アンシャン・レジームとの決別を示す最後の象徴であったのと同時に、他のヨーロッパ諸国の君主たちに対する挑戦でもあった。
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