憲法制定会議以前の経歴
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「ジョン・ブレア」の記事における「憲法制定会議以前の経歴」の解説
ブレアはバージニアでも著名な家庭に生まれた。父はバージニア委員会を務め、一時期は総督代理を務めた。大叔父ジェイムズ・ブレアはウィリアム・アンド・メアリー大学の創設者であり初代学長を務めた。ブレアはウィリアム・アンド・メアリー大学に通い、1775年にはロンドンに渡ってミドル・テンプル法曹院で法律を学んだ。アメリカに戻って法律実務を行う中で、急速に公的な役割の中に入って行き、フレンチ・インディアン戦争が終わった直後に、バージニア議会でウィリアム・アンド・メアリー大学のために取って置かれた議席 (1766-70)に選出されることで公的な経歴を積み始めた。その後、植民地議会では上院にあたる総督委員会の事務官になった (1770-75)。 ブレアは当初、愛国者側の中道的な派についた。印紙法に対する抗議ではパトリック・ヘンリーの過激な決議案に反対したが、イギリスの議会によるバージニア議会の解散でその見解を完全に変えることになった。イギリス議会が植民地に課した一連の税金に対して反応し、1770年に、さらに1774年にジョージ・ワシントン等と共に、イギリスが課税を撤廃するまでイギリス製品の輸入を止めることを支持者に誓わせる輸入拒否協約を起草した。1774年の場合、イギリスが耐え難き諸法を成立させたことに反応して、大陸会議の招集と、イギリス議会の対応故に経済的な困難さを味わっているボストン市民の支持を誓約する者達に参加した。 独立戦争が始まると、ブレアはバージニア独立政府に深く関わるようになった。バージニア憲法を起草する会議の代議員 (1776)となり、多くの重要な委員会で委員を務め、特にバージニア権利章典と政府の計画を形作る28人委員会の委員を務めた。パトリック・ヘンリー知事の主要な諮問機関である枢密院の議員を務めた (1776-78)。議会は1778年にブレアを高等裁判所の裁判官に選出し、その後間もなく主席判事となった。1778年にはまた新しく組織されたバージニア・グランドロッジの下で、バージニア・フリーメイソンのグランドマスターに指名された。1780年には、バージニア高等衡平法裁判所判事にも選ばれ、この時の仲間ジョージ・ワイスは後のフィラデルフィア憲法制定会議でも共に代議員となった。これらの司法職の任官で、ブレアは自動的にバージニアでは最初の高等裁判所判事となった。1786年、議会はブレアの法学者としての権威を認め、トーマス・ジェファーソンの後任としてバージニアの法律を改定する委員会委員に指名した。
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