室町時代 - 安土桃山時代
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「阿倍氏」の記事における「室町時代 - 安土桃山時代」の解説
一般的には(専門書の中にも)「土御門家」の祖を安倍有世に求め、有世を「土御門有世」と呼称することが多い。だが、有世が“土御門”を名乗ったとする記録は当の土御門家にも存在せず、確実に「土御門」を名乗ったと言えるのは、その曾孫にあたる有宣(室町時代中期 - 後期)以後であると考えられている。 当初は「有世一代」限りの公卿という条件であったものの、実際には有世の晩年に足利義満が有世の長年の功労に報いて嫡男の有盛を公卿に昇進させ、その後も有季・有宣とその嫡流は公卿に昇った。かくして有世の家系は堂上家(半家)の資格を得ることになり、やがて有世以来代々の当主の屋敷が土御門の地にあったことから、「土御門」を名乗ることとなり、他の安倍氏とは一線を画して陰陽師としての公的な職務は全て安倍氏土御門家と賀茂氏勘解由小路家が取り仕切ることとなった。 だが、その初代である有宣は応仁の乱以来の混乱を避け、領地である若狭国名田庄(現在の福井県大飯郡おおい町)に下向した。子の有春も若狭で一生を過ごし、以後若狭定住が常態となる。孫の土御門有脩(1527年 - 1577年)は、永禄8年(1565年)賀茂氏が独占していた暦博士を初めて兼任した。その息子土御門久脩(1560年 - 1625年)は若狭から戦乱の収束した都に一時戻ったが、関白(のち太閤)豊臣秀吉の治世下では秀次事件(豊臣秀次とその近臣の粛正)および陰陽師追放政策に巻き込まれて一時失脚する。
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室町時代 - 安土桃山時代
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「鮭延城」の記事における「室町時代 - 安土桃山時代」の解説
当城の主な城主である鮭延氏は、現在の山形県戸沢村にあった岩鼻館に居して小野寺氏に仕えていた佐々木氏(近江源氏)の庶流とされる。1535年(天文4年)に鮭延秀綱の父・佐々木貞綱(鮭延貞綱)が鮭延荘を拝領し、鮭延城を築城したと伝わる。 戦国時代中頃における小野寺氏の最大版図は出羽国中部(現在の秋田県雄勝地方一帯・仙北地方南部・山形県最上地方北部)に広がり、秋田県由利地域の由利十二頭などの周辺国人にも影響や脅威をもたらしていた。天文年間(1532年 - 54年)に小野寺景道は、大宝寺氏(武藤氏)や最上氏と領有を争っていた最上地方全域の掌握を図って鮭延荘に佐々木貞綱を遣わし、佐々木氏は地名に倣って鮭延氏と称する。鮭延城は小野寺氏の南の拠点として、最上北部の領国経営を行うこととなった。 1581年(天正9年)、鮭延城は最上義光によって攻められ、城主であった鮭延貞綱の子・鮭延秀綱は、一度は抵抗したものの最終的に降伏する。しかし、領土を安堵されたため最上義光に恭順し、鮭延城は小野寺氏から最上氏の城へと変わり、最上氏の大宝寺氏・小野寺氏攻略の拠点となる。鮭延秀綱は最上義光に仕え続け、長谷堂城の戦いでは目覚しい活躍を見せたため、戦後の論功行賞により1万1500石を与えられた。
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室町時代・安土桃山時代
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鎌倉公方四代を経て、小田原北条氏の時代になると、函南町域の支配関係が変化した。仁田と肥田は馬廻衆の松田助六郎、畑郷は小田原衆の西原善右衛門、間宮は伊豆衆の秩父次郎左衛門、平井郷は玉縄衆の北条綱成、桑原は御家門方の北条幻庵、丹那と塚本は川越衆の大道寺弥三郎の所領となっており、肥田には松田助六郎の他に、伊豆衆の笠原美作守の所領になっていた。 北条氏直の家臣に山口淡路秀房がおり、元亀18年(1590年)の相模小田原城の落城により丹那村の川口教影の養子となり、川口秀房と称して、丹那・畑・田代村の名主となる。なお、川口秀房は後に、当村域の凶作により領主への年貢減免を直訴し、要求が認められたものの、死罪となった。 元亀18年(1590年)に、大土肥、軽井沢、田代、間宮、塚本、肥田の各村々が三島代官の支配となる。
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室町時代・安土桃山時代
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南北朝時代、南朝方であった越智邦澄が元弘2年(正慶元年、1332年)に築城したのが始まりと伝えられている。当初は越智氏の本城である貝吹山城の支城として機能していた。越智氏の支配が長く続き、戦国時代には高取城が越智氏の本城となっていたようである。天文元年(1532年)6月の飯盛城の戦いで圧勝した証如軍(一向一揆衆)は大和国に侵攻してきた。対立関係にあった興福寺の僧兵たちは越智氏のいる高取城に庇護を求めてきた。証如軍は高取城を包囲し、激戦となったようだが、筒井軍に背後を襲われた証如軍は敗走した(天文の錯乱)。 その後、織田信長によって大和国内の城は郡山城一城と定められ、高取城は天正8年(1580年)に一旦は廃城となった。天正11年(1583年)8月に筒井順慶の配下となっていた越智玄蕃頭頼秀が殺害され(自害とも)、越智氏は滅亡した。 筒井順慶は、信長が本能寺の変で横死した後、天正12年(1584年)に支城網の一つとして本格的城塞へと改めた。 天正13年(1585年)、筒井氏は伊賀国上野に転封となり、豊臣秀長(豊臣秀吉の異父弟)が郡山城に入城し、大和国は秀長の配下となった。高取城には当初、秀長の重臣脇坂安治が入ったが、後に同じく重臣の本多利久に与えられた。天正17年(1589年)、利久は家臣諸木大膳に命じ、新しい縄張りをもって築造した。本丸には、多聞櫓で連結された3重の大小天守、二の丸には大名屋敷が造営され、城内には三重櫓が17基建ち並んだ。また、郭内には侍屋敷も整備され、他には類を見ない広壮な山城が出現した。家臣団は、山麓の高取市街に城下町を営んだ。 利久は、天正19年(1591年)に没した秀長の後嗣となった秀保に仕えた。文禄4年(1595年)、秀保が17歳で没した後、利久の子俊政は秀吉の直臣となり1万5千石が与えられた。秀吉没後の混乱期に、俊政は徳川家康についた。慶長5年(1600年)、家康の上杉景勝討伐の際に、俊政は討伐軍に加わり不在であった。この隙に乗じ、石田三成は兵を派遣し高取城を攻めたが、俊政の従弟・正広はこの要害のおかげで西軍を敗退させた。俊政は関ヶ原の戦いの後、東軍に付いた功を認められ、1万石の加増を受け高取藩2万5千石の初代藩主となった。
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室町時代・安土桃山時代
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おおむね仁木氏が伊賀守護をつとめたが、支配力は緩く、地侍による自治が進むが、織田氏により制圧された(天正伊賀の乱)。
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室町時代・安土桃山時代
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室町幕府三管領家の一角を占める畠山氏のうち、七尾畠山氏の初代当主で能登国守護の畠山満慶が正長年間(1428年~1429年)頃にこの地に築いたと思われる。当時の七尾城は砦程度の規模と見られ、行政府である守護所も府中(現在の七尾市街地の府中町)に置かれていた。次第に拡張、増強され、以後約150年間にわたって領国支配の本拠となり、第五代当主である畠山慶致の頃には守護所も府中(七尾城山の麓)から七尾城へと移されたという。その後、畠山義続・畠山義綱の頃に能登では戦乱が続いたために増築され、最大の縄張りとなったと言われる。山麓に城下町「千門万戸」が一里余りも連なり、山頂にそびえる七尾城の威容は「天宮」とまで称されたと記録に残っている。日本五大山城の一つに数えられるほど強固な城であった。 1576年(天正4年)に能登国に侵攻した上杉謙信に包囲され、攻防戦が始まった(七尾城の戦い)。謙信は、かつて人質(養子扱い)として差し出されていた上条政繁(畠山義春)を新たな畠山氏の当主として擁立し、かねてから乱れている能登の治安を回復するという大義名分の基に能登攻めを開始。七尾城は一年にわたって持ちこたえた。しかし、重臣同士の対立の末に擁立されていた若年の当主畠山春王丸が長続連、遊佐続光、温井景隆らの対立を収めることができず七尾城は孤立した。1577年(天正5年)9月15日、遊佐続光の内応により上杉軍が侵入し、徹底抗戦を主張した長氏一族は殺害された。謙信は9月26日、七尾城の改修を始め、自らも本丸に上って、七尾湾を望む絶景の素晴らしさを家臣への書状に記した。 また攻城戦で謙信が詠んだとされる漢詩『九月十三夜陣中作』は非常に有名であるが、実際にはこの詩は謙信作ではないといわれている。 謙信と対立する織田信長勢による七尾城救援は間に合わなかったが、直後に謙信が急死すると織田勢は北陸で反攻に転じた。越中国(現在の富山県)と能登国を繋ぐ要所である七尾城は、のちに織田方によって領され、城代として菅屋長頼が入って政務にあたった後に前田利家が入った。既に山城の時代ではなく、拠点を小丸山城に移したため、しばらく子の前田利政が城主となっていたが、豊臣政権下の1589年(天正17年)に廃城となった。
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