事故の原因・要因・背景
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「富士山大量遭難事故 (1972年)」の記事における「事故の原因・要因・背景」の解説
この遭難事故は「気象遭難」に分類されるものであり、(天候判断のミスおよび撤退判断の遅れ・欠如などにより)厳しい気象条件下に晒される状態に陥り低体温症を引き起こしたことが主な要因である。 頂山岳会は18日に出発する際は天気図を確認し大丈夫との判断を下していたが、19日から日本海側を低気圧が通過し、典型的な「春一番」が発生する気圧配置となっていた。周囲に高峰のない富士山はこの影響が大きく、最大風速は毎秒40mから50m程度になったと推測されている。春一番のため気温自体は平年の同時期より10℃近く上昇したものの、風冷効果により体感温度は著しく低下するため、遭難者はマイナス40℃以下の低温に曝されているのと同じ状態だった。 いずれのグループも防寒の備えはしていたが、雨に対する備えができておらず、体を濡らしたことで容易に低体温症になってしまった。 静岡頂山岳会にとっては地元とはいえ、富士山の経験者がいたことで逆に判断を誤った。好天時であれば2時間程度で下山できる距離だったため強行下山したものの、深雪と風雨で体力を消耗したことで登山口にたどり着いた時には10時間近くかかっていた。また、ラジオにより天気図を作成していたことから、「天候は崩れてもそれほどひどい荒天にはならない」と判断を下したとみられている。 清水勤労者山岳会はいったん山小屋に避難しながらわずかに風雨の弱まった際に下山を強行したため被害が広がった。勤労者山岳連盟内部でも「逃げの清水労山」と呼ばれ無理な行動をしないことで定評があったが、典型的な疑似好天に加えて連休最終日で翌日に仕事を控えた社会人のグループだったため焦りにより判断を誤ったとみられている。 二合五勺付近で発生した雪崩は春一番の気温上昇と雨により緩んだ湿雪によるスラッシュ雪崩とみられている。麓に近いところで発生した雪崩は異例ではあるが、15人が死亡した1954年の富士山大量遭難では七合目で発生した雪崩が二合五勺まで達しており、決して前例のない災害ではなかった。
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事故の原因・要因・背景
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「トムラウシ山遭難事故」の記事における「事故の原因・要因・背景」の解説
この遭難事故は「気象遭難」に分類されるものであり、天候判断のミスおよび撤退判断の遅れ・欠如などにより厳しい気象条件下に晒される状態に陥り、低体温症を引き起こしたことがおもな要因である:36-88。 アミューズトラベル社の(事前)準備不足:36-88 アミューズトラベル社がツアー参加希望者の中から参加者を登山力量に応じて選ぶ方法が不十分だった(経験不足の登山客をツアーに参加させない判断をしなかった):36-88。 アミューズトラベル社がガイド役らの選定を適切に行わなかった:36-88。結果としてにわかづくりのチームで互いにあまり面識がなく、事前の打ち合わせもなかったことから、リーダーやガイド同士の現場での連携不足・協議不足につながった:36-88。 アミューズトラベル社がリーダーやガイドに対して、文言上は「現場では安全優先」と言っていたものの実際には経済優先のプレッシャーを感じさせ、安全が後回しになってしまう環境を放置していた:36-88。こうした環境がリーダーやガイドによる天候判断のミスを誘発させ、結果として早めに引き返す決断をしなかった:36-88。 帯広測候所によるとトムラウシ山頂では、事故当時は雲がかかり雨が降っていたとみられ、日中の気温は摂氏8 - 10度、風速は毎秒20 - 25メートルと台風並みだったとされる。生存者によると、「雨と風で体感気温は相当低く、リュックカバーが風で吹き飛ばされ、岩にしがみついて四つん這いで歩くような状態だった」という。旭岳の別パーティもこのパーティと同じ天気予報を聞いていたが、山の天気が平地より遅れてくるとの経験則から夕方まで荒れると見越して、中止の決断をしたことで遭難しなかった。 リーダーおよびガイドらが現場で(朝に山小屋などから出発する前などに)ツアー客に対して出すべきであった、着用すべき防寒着の種類などについての指示および確認の不足:36-88。一部報道ではツアー客の装備が軽装だったと指摘されているが間違いである。調査委員会でも装備は問題無かったと確認されている。遭難者の荷物からは防寒着は見つかっている。低体温症により意識が混濁し防寒着を着ることが出来なかった為、更に症状が悪化したのである。 ツアー客自身の登山に対する自覚不足や遭難対策の不足:36-88。 参加者全員の 低体温症に対する無知・認識不足。ツアー客らは全員低体温症を知らなかったため、自分がその状態になっても自覚できなかった。ガイドらもその詳細を知らず、あっけなくその状態に陥るものだという認識がなかった:36-88。低体温症については、服を着ていても水中に浸かった場合、濡れただけの場合に比べて死亡に至る時間が大きく異なる。報告書にはパーティ全員が全身ずぶ濡れと書かれているが、ほとんどの遭難者が手足だけがずぶ濡れであり全身ずぶ濡れ状態ではなかった(北沼でのガイド丙を除く)。 事故前日の7月15日、ヒサゴ沼避難小屋で装備を濡らした一部のメンバーが装備を乾かすために脱いだり干したりしたものの乾ききらず、そしてメンバー自身も早く乾かす方法を知らず、リーダー甲は「着干し」を教えた:8。しかし濡れた靴下を濡れたまま着用し続ける:8など、濡れた衣類が低体温症の危険を招く知識自体がなかった。 出発直前16日5時30分にリーダー甲は安全性を考慮しトムラウシ山頂登頂を諦め出発を30分遅らせ迂回コースへ変更することを告げたものの、この時点で前夜から強まった風雨に関する天候状況の説明やメンバーが着るべき衣類の説明がなかったため、全員が上下雨具を確実に着用したものの、その雨具の下は薄着を維持したメンバーもいた:9。 出発予定時刻の16日5時30分時点で女性客bが各自の携行する食料の回数分を確認したところ、bだけが8食携行で他のメンバーは6食分ぎりぎりしか携行していなかった:8。 (想定外の)風雨による行程の遅れ、引き返す判断の遅れ、引率ガイド判断力の低下、ガイドの混乱 天沼付近通過の前後で2回、5分から10分ずつの休憩をとったが、ガイド乙は生還後にこの時点で引き返す判断を下すか、またはそもそも天沼以前、ヒサゴ沼分岐で下山コースを取るべきだったと述懐している:10。6時以降8時前の天沼通過以降、ロックガーデンまで風雨によって通常コースタイムの2倍近い時間が掛かること、風雨がそれほどまでに強まることがすべて想定外であり、ガイド、メンバー共に誰も予想していなかった:10。 8時30分のロックガーデン通過時点でも風に吹き飛ばされて歩きにくい岩場で転倒したメンバーや、通過自体に恐怖を覚えたメンバーもいたが避難小屋に引き返したいと言い出す者はいなかった:10。ロックガーデン通過後も更に風が一段と強まり、ここで装備を吹き飛ばされたメンバーが複数名出た:11。 10時頃、ロックガーデンの次の地点、北沼渡渉点(第1ビバーク地点)に到達したが、普段は登頂前に一服できる清涼な場所だったはずの沼地は水が氾濫し川幅2メートルほど、水深は膝下ほどの流れとなっていた:11。この渡河行程でガイドも含む複数人が前夜の濡れた装備に加えて全身を濡らし、また強い風も相まって低体温症の症状を示すメンバーが複数名出始めた:11。 渡河自体に30分ほど掛かった後も低体温症の症状を示す女性客をガイド甲と乙がサポートしたが、その間にも更に強まる風に暴露したままガイドの指示を待ち続けた他の一行も全員が同様に疲労蓄積した:12。 10時30分頃に次の北沼分岐(第2ビバーク地点)に差し掛かるまでの間に2人の女性客落伍者(女性客g(生還)、女性客j(死亡))が出、ガイド乙と丙がそれぞれの荷物や本人を抱えて本隊と落伍地点とを往復するなどした:12。この2人は腕で押さえても止まらないほどに全身をがたがた震わせて座り込んでいたほか、2人の移動を待っていた本隊の中にも寒さと眠気を覚え死を覚悟したメンバーがいた:12。 11時30分から12時頃に第2ビバーク地点でガイド乙がメンバー4人と残ってビバーク、その他のメンバー10人をガイド丙が引率して下山させる決定をした:13-14。ただし、この時点でガイド丙は低体温症の症状が進行していてパーティを引率できる状況になく、また下山ルートを知らなかったが、決定したガイド乙はその事実に気づかなかったし、乙自身も想定外の状況が重なって混乱していた:13-14。
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事故の原因・要因・背景
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「木曽駒ヶ岳大量遭難事故」の記事における「事故の原因・要因・背景」の解説
この遭難事故は「気象遭難」に分類されるものであり、(天候判断のミスおよび撤退判断の遅れ・欠如などにより)厳しい気象条件下に晒される状態に陥り低体温症を引き起こしたことが主な要因である。 出発前日は好天だったが強力な台風が北上しており、伊那地方は直撃こそしなかったものの高所の影響もあって山頂付近は凄まじい暴風となっていた。なお、この台風は関東地方を直撃し、多摩川の六郷橋が流失、荒川も氾濫するなどの大被害を出している。 いわゆる純然たるレクリエーションのための登山ではなく、鍛練や教育効果を狙った学校の集団登山のため、山頂付近で露営など中学生相当の年齢の登山としては余裕のない計画であった。長時間行動し疲労したところに暴風雨に晒されれば、3,000m近い標高の低温もあって容易に低体温症になった。 避難した山小屋は損傷がひどく風雨が吹き込んだうえ、登山道の途中にも避難小屋など風雨を避け体力を温存・回復できる場所がなかった。この事故を教訓に将棊頭山の直下に避難用の石室が設置され、増改築を繰り返して西駒山荘となった。
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事故の原因・要因・背景
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「立山中高年大量遭難事故」の記事における「事故の原因・要因・背景」の解説
この遭難事故は「気象遭難」に分類されるものであり、(天候判断のミスおよび撤退判断の遅れ・欠如などにより)厳しい気象条件下に晒される状態に陥り、低体温症を引き起こしたことが主な要因である。 事故の起きた10月8日は早朝には、快晴だったとはいえ荒天の予報が出ており、周囲の山小屋は宿泊客に停滞か早めの撤収を呼びかけていた。 メンバーは顔見知りであったがリーダーを特に決めておらず、そのため撤退の判断を下し、指示を出せる人物がいなかった。また体調が悪化しているメンバーがいたにもかかわらず、途中で追い抜いた登山者に救助要請を行わなかった、ビバーク時に風を避ける場所に移動せず吹きさらしの場所にい続けたなど、最悪の事態を避ける機会はあったにもかかわらず、それらをすべて逃した事が指摘されている。 メンバーの装備に関して、10月の3000m峰では不十分な装備であることが指摘されている。ゴールデンウィークと秋の連休時は、天候によって真夏のような暑さにも真冬の寒さにもなる両極端な時期で、最も注意を要するとされていた。しかしメンバーのほとんどが軽登山靴だったほか、一部のメンバーは綿のズボン、ビニールの雨具など間に合わせで済ませていた。一方、救助要請に向かい一命を取り留めた2人は革の登山靴に防水透湿素材の雨具、ウールの手袋などを所持していた。 この遭難に対し、本多勝一は対談で「ロープウェーやバスでアプローチが短くなったことで、普通なら行けないはずの所にズブの素人がいきなり入れるようになった事が原因」「本来ならばそこまで近づけない人たちばかりが近づいて遭難が起きた」と分析している。
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