フィクションの人物像
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史実において豚松が「清水二十八人衆」であった時代は、正確には伝えられていないが、1864年 - 1871年をカヴァーする時期であったことは明らかである。そもそも「清水二十八人衆」には架空の人物も数えられており、浪曲師の三代目神田伯山(1872年 - 1932年)の創作であるとされる。三代目伯山の挙げる「清水二十八人衆」での豚松は「三保の松五郎」と表記され、村上元三の小説『次郎長三国志』では「三保の豚松」と表記される。森の石松を隻眼の設定にしたのは三代目伯山であり、豚松の史実を石松に負わせたものであるとされる。『東海遊侠伝』に「三州の石松」として登場する三河国出身の石松を「遠州森の石松」と変更したのも、三代目伯山であり、村松梢風(1889年 - 1961年)であった。平岡正明は石松の実像を「気のいい小柄な男で、片目でもどもりでもない」と記す。 マキノ雅弘の代表作とされる映画『次郎長三国志』(東宝、1952年 - 1954年)、『次郎長三国志』(東映、1963年 - 1965年)の2つのシリーズでは、それぞれ加東大介、佐藤晟也が演じている。映画『次郎長三国志』は、村上元三の同名の小説を原作にしており、第1章『桶屋の鬼吉』に始まり、『東海遊侠伝』を書いた天田愚庵(1854年 - 1904年)を描く第22章『天田五郞』、講談『名も高き富士の山本』を創作した三代目神田伯山を描く第23章『神田伯山』で終わる、全23章で構成される同作において、豚松を描く『三保の豚松』は第11章に当たる。映画においては、東宝版では第四部に漁師として初登場、次郎長一家に加わりたくて引っ越し祝と称して魚を持って来たり、次郎長が開いた相撲興行で力士に勝ったりと盛んにアピール、いよいよ一家に加わるという筋である。1953年(昭和28年)11月3日公開の第五部では、当初、加東大介の豚松を物語の主役に置き、第六部でも出番が多い設定であったが、加東が『七人の侍』(監督黒澤明、1954年4月26日公開)の「七郎次」にキャスティングされたため、第五部の撮影現場に「ブタマツコロセコウモリイワオ」(豚松殺せ乞う森岩雄)の電報が届き、急遽マキノは豚松が第五部で死ぬ設定に変更した。第五部の豚松は「親分」と何度も次郎長の呼称を叫びながら死んでいく。会社側の一方的なスケジュール上の都合で途中降板した加東大介と豚松のため、『次郎長三国志 第八部 海道一の暴れん坊』(1954年6月8日公開)では法事が営まれるとともに、「豚松の母親」(馬野都留子)が登場する。東映版では『次郎長三国志 第三部』と第4作の『次郎長三国志 甲州路殴り込み』に登場する。 片岡千恵蔵が次郎長を演じ、松田定次が監督した『勢揃い東海道』(1963年1月3日公開)では、森の石松はすでに登場せず、豚松を堺駿二が演じたほか、重複して香月涼二が演じる「三保の松五郎」が登場する。 「酒飲みねえ、すし食いねえ、江戸っ子だってね」「神田の生まれよ」で知られる二代目広沢虎造の浪曲『石松三十石船道中』の原型は、三代目神田伯山の創作である。江戸っ子が石松に対し、清水一家で一番強いのは「大政、小政、大瀬半五郎、増川仙右衛門、法印大五郎、追分三五郎…」と挙げていくなかで、豚松は9番目の「三保の松五郎」、12番目の「豚松」と重複して登場する。16人挙げたところで、大瀬の次に石松を失念していたことを忘れていたことを思い出す、という筋である。このくだりのあった時期は、設定では「文久2年の3月半ば」、つまりグレゴリオ暦では1862年4月13日前後に当たり、史実においては、豚松は存命であるが、石松は2年前にすでに死んでいる時期である。
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フィクションの人物像
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史実において関東綱五郎あるいは大瀬半五郎が「清水二十八人衆」であった時代は、正確には伝えられていないが、1864年以前のある時期から1871年までの時期であったことは明らかである。そもそも「清水二十八人衆」には架空の人物も数えられており、講談師の三代目神田伯山(1872年 - 1932年)の創作であるとされる。三代目伯山の挙げる「清水二十八人衆」での綱五郎は「大瀬の半五郎」と表記され、村上元三の小説『次郎長三国志』では「関東綱五郎」と表記される。『架空人名辞典 日本編』では、「大瀬半五郎」を別名「関東綱五郎」、清水次郎長を親分、大政、小政、森の石松、吉良の仁吉を仲間、黒駒の勝蔵を敵と定義している。「次郎長がまだ駆け出しだった頃、二人目の子分として盃をもらった」とする。同書では「大瀬」を姓であるとする。 マキノ雅弘の代表作とされる映画『次郎長三国志』(東宝、1952年 - 1954年)、『次郎長三国志』(東映、1963年 - 1965年)の2つのシリーズでは、それぞれ森健二、松方弘樹(第4作のみ曽根晴美)が演じている。映画『次郎長三国志』は、村上元三の同名の小説を原作にしており、第1章『桶屋の鬼吉』に始まり、『東海遊侠伝』を書いた天田愚庵(1854年 - 1904年)を描く第22章『天田五郞』、講談『名も高き富士の山本』を創作した三代目神田伯山を描く第23章『神田伯山』で終わる、全23章で構成される同作において、綱五郎を描く『關東綱五郞』は鬼吉に次ぐ第2章に当たる。東宝版・東映版ともに第1作から登場し、桶屋の鬼吉(1813年 - 1887年)に次いで、次郎長第二の乾分になる設定である。 「酒飲みねえ、すし食いねえ、江戸っ子だってね」「神田の生まれよ」で知られる二代目広沢虎造の浪曲『石松三十石船道中』の原型は、三代目神田伯山の創作である。江戸っ子が石松に対し、清水一家で一番強いのは「大政、小政、大瀬半五郎、増川仙右衛門、法印大五郎、追分三五郎…」と挙げていくなかで、綱五郎は「大瀬半五郎」として、大政・小政に次いで3番目に登場、「三番目は千住草加の在の村役人の倅、大瀬半五郎だね」と語られる。16人挙げたところで、大瀬の次に石松を失念していたことを忘れていたことを思い出す、という筋である。このくだりのあった時期は、設定では「文久2年の3月半ば」、つまりグレゴリオ暦では1862年4月13日前後に当たり、史実においては、綱五郎は40歳前後の時期であるが、石松は2年前にすでに死んでいる時期である。「千住草加の在」という表現がされているが、千住宿、草加宿はそれぞれ、日光街道および奥州街道の第一、第二の宿場であり、同一の地域ではない。二代目虎造の浪曲『清水次郎長伝 大瀬半五郎』で知られる。
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フィクションの人物像
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史実において「清水二十八人衆」であった時代の法印大五郎は、前述の通り、満19歳 - 満26歳の青年期に当たる。しかしながら、フィクション、とくに映画で扱われる法印は、マキノ雅弘が監督した『次郎長三国志』(東宝、1952年 - 1954年)、『次郎長遊侠伝 秋葉の火祭り』(日活、1954年)、『次郎長三国志』(東映、1963年 - 1965年)で法印を演じた田中春男(1912年 - 1992年)の実年齢が満40歳 - 満53歳(公開日ベース、以下いずれも同様)の時期に当たり、次郎長を演じた当時満32歳の小堀明男よりも年長であり、青年とは言いがたい、しかも関西弁話者の人物像を造形した。田中が法印を演じる以前、とくに戦前は、満28歳の瀬川路三郎、満30歳の中村進五郎、おなじく満30歳の田村邦男、あるいは満46歳の嵐珏松郎、満39歳の新妻四郎、満37歳の光岡龍三郎、戦後は満43歳の椿三四郎が演じていた。 ポスト田中の時代には、満41歳の石田茂樹、満47歳の南利明、満35歳の山城新伍、満26歳の岸部シロー、満48歳の谷幹一、満29歳の平田満、満40歳の桂朝丸(二代目桂ざこば)、満44歳の頭師孝雄、満37歳の阿南健治、満60歳の笹野高史、満46歳の木下ほうかがそれぞれ法印役を演じた。次郎長役より若年あるいは同世代の役者が配されたのは、山城新伍、岸部シロー、平田満、桂朝丸、頭師孝雄、阿南健治、木下ほうかだけであった。その多くは、名古屋弁の南利明らを除き、田中春男がつくりだした関西弁のキャラクターを踏襲した。 「酒飲みねえ、すし食いねえ、江戸っ子だってね」「神田の生まれよ」で知られる二代目広沢虎造の浪曲『石松三十石船道中』の原型は、三代目伯山の創作である。江戸っ子が石松に対し、清水一家で一番強いのは「大政、小政、大瀬半五郎、増川仙右衛門、法印大五郎、追分三五郎…」と挙げていくなかで、法印は5番目に登場する。16人挙げたところで、大瀬の次に石松を失念していたことを忘れていたことを思い出す、という筋である。このくだりのあった時期は、設定では「文久2年の3月半ば」、つまりグレゴリオ暦では1862年4月13日前後に当たり、法印は満22歳、次郎長一家に在籍した時期に一致はする。
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フィクションの人物像
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史実において「清水二十八人衆」であった時代の小政は、前述の通り、満22歳前後の一時期、その後、お加登との掛川時代と逃亡期をはさんで満29歳 - 満31歳の時期に当たる。そもそも「清水二十八人衆」には架空の人物も数えられており、浪曲師の三代目神田伯山(1872年 - 1932年)の創作であるとされる。 1938年(昭和13年)3月に発売されたディック・ミネの流行歌『旅姿三人男』(作詞宮本旅人、1907年 - 1982年)に、大政・森の石松とともに「三人男」として登場、「粋な小政」と謳われる。同曲は、1962年(昭和37年)1月にシングルレコードを発売した石原裕次郎のほか、1971年(昭和46年)に放映開始したテレビ映画『清水次郎長』の主題歌として、次郎長を演じた竹脇無我もカヴァー、シングルを発表した。 マキノ雅弘の代表作とされる映画『次郎長三国志』(東宝、1952年 - 1954年)、『次郎長三国志』(東映、1963年 - 1965年)の2つのシリーズでは、それぞれ水島道太郎、里見浩太朗が演じている。それぞれのシリーズでも小政の登場は、東宝版では「浜松の政五郎」という役名で『次郎長三国志 第八部 海道一の暴れん坊』(1954年)、そして「小政」になってからの『次郎長三国志 第九部 荒神山』(1954年)の2作のみ、東映版では『次郎長三国志 第三部』(1964年)と『次郎長三国志 甲州路殴り込み』(1965年)の2作のみである。東宝版では、森の石松が都田村の吉兵衛(1828年 - 1861年)にだまし討ちに遭い、偶然知り合った「浜松の政五郎」(小政)に看取られて死に、それが縁で政五郎は清水一家に加わるという筋である。映画『次郎長三国志』は、村上元三の同名の小説を原作にしており、第1章『桶屋の鬼吉』に始まり、『東海遊侠伝』を書いた天田愚庵(1854年 - 1904年)を描く第22章『天田五郞』、講談『名も高き富士の山本』を創作した三代目神田伯山を描く第23章『神田伯山』で終わる、全23章で構成される同作において、小政を描く『淸水の小政』は第18章に当たる。 「酒飲みねえ、すし食いねえ、江戸っ子だってね」「神田の生まれよ」で知られる二代目広沢虎造の浪曲『石松三十石船道中』の原型は、三代目神田伯山の創作である。江戸っ子が石松に対し、清水一家で一番強いのは「大政、小政、大瀬半五郎、増川仙右衛門、法印大五郎、追分三五郎…」と挙げていくなかで、小政はまず冒頭に大政と対になって登場する。16人挙げたところで、大瀬の次に石松を失念していたことを忘れていたことを思い出す、という筋である。このくだりのあった時期は、設定では「文久2年の3月半ば」、つまりグレゴリオ暦では1862年4月13日前後に当たり、小政は満20歳、次郎長一家に在籍したかどうかは定かではない時期である。 マキノ雅弘の甥にあたる俳優の津川雅彦が「マキノ雅彦」の名で監督した『次郎長三国志』(2008年)では、同じ村上元三の同名小説を原作にしながら、追分の三五郎と小政を複合して「追分の政五郎」というキャラクターに改変、北村一輝を配して「伊達者の美青年」であるとした。 浅田次郎の小説『天切り松 闇がたり』シリーズでは、第二巻『残侠』において大正11年の東京に現れた、老侠客として登場する。主人公一家に一宿一飯の義理を果たして鳥越神社の神前で荒事に及ぶが、その素性は最後まで詳らかでない。
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フィクションの人物像
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「大政 (侠客)」の記事における「フィクションの人物像」の解説
史実において「清水二十八人衆」であった時代の大政は、前述の通り、最晩年に至るまでの期間である。そもそも「清水二十八人衆」には架空の人物も数えられており、講談の三代目神田伯山(1872年 - 1932年)の創作であるとされる。「尾張藩の槍組小頭」出身であり「山本流の槍の使い手」である、と多くフィクションには描かれ、特徴づけられている。 1938年(昭和13年)3月に発売されたディック・ミネの流行歌『旅姿三人男』(作詞宮本旅人、1907年 - 1982年)に、小政・石松とともに「三人男」として登場、「なんで大政 国を売る」と謳われる。同曲は、1962年(昭和37年)1月にシングルレコードを発売した石原裕次郎のほか、1971年(昭和46年)に放映開始したテレビ映画『清水次郎長』の主題歌として、次郎長を演じた竹脇無我もカヴァー、シングルを発表した。 マキノ雅弘の代表作とされる映画『次郎長三国志』(東宝、1952年 - 1954年)、『次郎長三国志』(東映、1963年 - 1965年)の2つのシリーズでは、それぞれ河津清三郎、大木実が演じている。映画『次郎長三国志』は、村上元三の同名の小説を原作にしており、第1章『桶屋の鬼吉』に始まり、『東海遊侠伝』を書いた天田愚庵(1854年 - 1904年)を描く第22章『天田五郞』、講談『名も高き富士の山本』を創作した三代目神田伯山を描く第23章『神田伯山』で終わる、全23章で構成される同作において、大政を描く『淸水の大政』は第2章『關東綱五郞』に次ぐ第3章に当たる。マキノのこの2つのシリーズでは、いずれも、桶屋の鬼吉(1813年 - 1887年)、関東綱五郎(1820年 - 1886年)に次いで浪人風の男「伊藤政五郎」として登場し、妻ぬい(広瀬嘉子、小畠絹子)と別れて次郎長の乾分になり、「大政」と名を改める設定である。 「酒飲みねえ、すし食いねえ、江戸っ子だってね」「神田の生まれよ」で知られる二代目広沢虎造の浪曲『石松三十石船道中』の原型は、三代目神田伯山の創作である。江戸っ子が石松に対し、清水一家で一番強いのは「大政、小政、大瀬半五郎、増川仙右衛門、法印大五郎、追分三五郎…」と挙げていくなかで、大政は「一の乾分」とみなされておりまず筆頭に挙げられる。16人挙げたところで、大瀬の次に石松を失念していたことを忘れていたことを思い出す、という筋である。このくだりのあった時期は、設定では「文久2年の3月半ば」、つまりグレゴリオ暦では1862年4月13日前後に当たり、史実においては石松は2年前にすでに死んでいる時期である。
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フィクションの人物像
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フィクションにおける「神戸の長吉」は、義理人情に殉じたヒーロー吉良の二吉に比して、戦闘時に隠れていた「卑怯者」「臆病者」として描かれるが、これは史実とは異なり、三代目神田伯山の創作である。郷土史家・堀文次が1935年(昭和10年)から伊勢新聞等に発表、史実を明らかにした研究は、長谷川伸、村上元三といった清水次郎長周辺の物語に興味を持った作家に少なからず影響を与えたという。荒神山に関する堀の研究は、1963年(昭和38年)に上梓した『郷土史料 荒神山物語』にまとめられた。 長吉は史実では仁吉よりも25歳、次郎長と比較しても6歳も年長であり、荒神山の時点では満52歳前後であるが、「荒神山の喧嘩」を描く映画では、気の弱い青年に描かれる。松田定次が監督した『次郎長一家』(脚本比佐芳武、1938年)では、次郎長に公開時満36歳の月形龍之介、仁吉に同じく満32歳の沢村国太郎 に対し、長吉を演じた市川正二郎は、同作公開時には満25歳であった。同じく松田が戦後監督した『勢揃い東海道』(脚本高岩肇、1963年)では、次郎長に満59歳の片岡千恵蔵、仁吉に満33歳の大川橋蔵、長吉に満23歳の河原崎長一郎を配した。『勢揃い東海道』では青年に描かれた長吉の母親・お松も登場し、公開時満55歳の松浦築枝が演じているが、史実では長吉はむしろこの母の年齢に近い。八尋不二がオリジナル脚本を書いた『二十九人の喧嘩状』(監督安田公義、1957年)、『次郎長富士』(監督森一生、1959年)では、長吉は仁吉の「弟分」と明確に位置づけられており、仁吉はいずれもそれぞれ公開時満25歳・満27歳の市川雷蔵 であるのに対し、長吉にはそれぞれ満25歳の林成年、満27歳の舟木洋一 が配されている。 マキノ雅弘の代表作とされる映画『次郎長三国志』(東宝、1952年 - 1954年)、『次郎長三国志』(東映、1963年 - 1965年)の2つのシリーズでは、東宝版では荒神山がクライマックスになっているのに対して、東映版では『次郎長三国志 甲州路殴り込み』(1965年)で終わっており、荒神山のくだりは描かれていない。東宝版の最終篇『次郎長三国志 第九部 荒神山』(脚本橋本忍、1954年)では、仁吉を同作の公開時満37歳の若原雅夫、長吉を同じく満37歳の千秋実が演じている。同作では荒神山が「神戸の長吉が親の代から譲られた繩張だった」という設定である。映画『次郎長三国志』は、村上元三の同名の小説を原作にしており、第1章『桶屋の鬼吉』に始まり、『東海遊侠伝』を書いた天田愚庵を描く第22章『天田五郞』、講談『名も高き富士の山本』を創作した三代目神田伯山を描く第23章『神田伯山』で終わる、全23章で構成される同作において、長吉を描く『神戸の長吉』は第21章『吉良の仁吉』の手前の第20章に当たる
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