エチオピア高原、アフリカの角地域
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「アフリカ史」の記事における「エチオピア高原、アフリカの角地域」の解説
一方、エチオピア高原へ目を向けると、この地にアクスム王国という国家が1世紀ごろに設立されている。イエメン地方から紅海を渡り移住してきたセム語族が築いた王国で、アラビア文化を継承しつつ、独自の文化を育んでいった。4世紀にメロエ王朝を滅ぼしたエザナ王はコプト正教会を国教とし、ギリシャ、ローマ帝国、そしてそれを受け継いだ東ローマ帝国との港湾都市アドゥリスを通じた紅海貿易で繁栄した。また、コプト正教会は、庶民へとも浸透していったが、7世紀にアラビア半島がペルシアに支配され、周囲のイスラム化が進むと、孤立し、交易ルートを断たれたアクスム王国は衰弱の一途をたどった。 11世紀頃にやや内陸のラスタ地方からザグウェ朝が興り、世界遺産になっているラリベラの岩窟教会群が造られた。13世紀後半、アクスム王家の血筋を名乗るイクノ・アムラクがラスタ地方の南方、アムハラ、ショア地方から挙兵して、1270年、ザグウェ朝を倒し、ソロモン朝をひらいた。ソロモン朝は、交易によって結びついたアムハラとショアのキリスト教勢力とイスラム教勢力の連合体とお互いの勢力の均衡の上に成立していた。イクノ・アムラクの孫、アムデ・ション(位1314〜44)の時代に遠征をおこない、タナ湖の北方のユダヤ(ファラシャ)人勢力、東方のアデン湾からアワシュ川流域に住むイスラム教勢力を支配するのに成功した。しかし、アワシュ川流域に住むイスラム教勢力は、ソロモン朝の有力な隣国であるイファトのスルタン国に接近することになったが、アムデ・ションは、イファトのスルタン、ハケディンの領内で、キリスト教徒がイスラム教徒に捕まえられて奴隷として売られた事件を口実にイファトを攻撃して、これを打ち破り、駐屯部隊を置いて支配した。イファトの属国化によって他の小スルタン国もアムデ・ションの支配下に入ることになり、ダワロとシャルハなどアムデ・ションにつく交易都市も出現した。ソロモン朝の時代には大きな都市は造られることはなかったが、これは、ソロモン朝の皇帝が移動する「宮廷」、つまり、皇帝の家族から騎兵、近衛兵、官僚たちとその家族、皇帝の一族や文官、武官たちのために教会を運営する僧侶たちをひきつれたキャンプによって国土を支配した。征服地には、全く別の場所から連れてきた言語、民族が異なる兵士からなる駐屯軍がおかれ、小さな反乱であればすぐに鎮圧し、鎮圧が困難であれば、近隣地から援軍が来る仕組みになっていた。ソロモン朝は、強大化した軍隊と富とを背景にエチオピア教会を保護したため、イスラム教徒に不満がくすぶるようになっていった。エチオピアでのイスラム教徒の自由や安全、利益を守ることを要求するマムルーク朝に対し、エジプト国内のコプト派キリスト教徒の自由や安全、利益を守ることを要求して強硬な態度をとっていた。また、ゼラ・ヤコブ(位1434〜68)の時代にはヨーロッパに使節を送り、ヨーロッパ人の職人、技術者を連れ帰ることに成功した。しかし、ゼラ・ヤコブの死後、帝国の安定は息子のビイデ・マリヤム(位1468〜78)の治世までしか維持されず、後継者争いで衰退の一途をたどり16世紀前半に起こったイマーム・イブン・イブラヒムによる反乱によって決定的に崩壊することになる。 一方、東アフリカ沿岸部は、古来からイスラム商人によるインド洋交易がさかんで、イスラムとの融合でスワヒリ語が形成され、スワヒリ文化圏と言える多くの港湾都市が繁栄したことで知られる。それを支える東アフリカのスワヒリ人(スワヒリ語を使う人々)の通常の生業は、農業と漁労であった。10世紀の著述家であるアル・マスウーディーによるとココナッツ、ヤムイモ、バナナ、アズキモロコシを栽培していたと伝えている。また15世紀のポルトガル人の著述家によると、ウシ、ヒツジ、ヤギなどを飼い、サトウキビや綿花を栽培していたことを記述している歴史家もいる。綿花については、出土品に紡錘車がみられることからも綿織物が作られていたことがわかる。一般の人々の家は、草やヤシの葉などで屋根を葺(ふ)いて壁や柱を粘土や木材でつくった家であった。これらの家が集まって村落を形成し、規模が大きくなると都市になった。。一方で、キルワにみられるように都市に住む人々のうち裕福な者は石造りの家に住み、宮殿や大モスクは、数階建ての建築物であった。漁労で得た貝殻は、さまざまな形の容器やビーズ、スプーンを作るのに用いられた。また貨幣に使用されたおびただしい量のタカラガイ(小安貝)が東アフリカ沿岸の集落、都市遺跡からは発見される。 9〜10世紀ころには、マリンディのやや北方にあるマンダ島が交易の中心として繁栄していたことがわかっている。マンダ島で発見される遺物にはサーサーン朝以来の伝統をひきついだイスラム陶器、13世紀に相当する元代の青磁、乾燥させた素地に顔料を混ぜた化粧土を塗って一部を掻き落とす技法を用いたスグラフィート陶器などが発見されている。東アフリカで交易で繁栄した町として知られるのは、キルワないしキルワ・キシワニ(「キルワの島」の意)が挙げられる。10世紀から12世紀ころにイラン南西部の都市シーラーズから渡ってきたアラブ人のグループによって商業拠点が造られ、シーラーズ王朝がつくられたのがはじまりとされている。アラブ人とペルシャ人と現地の人々との混血が行われて、人種的にも文化的にも独自の発展をとげることになる。 12世紀以降、アフリカ東海岸は、ラム群島とザンジバル(古名ウングジャ)を経由し、キルワに至る交易路が形成された。キルワ・キシワニが発掘調査された結果、前述したように貨幣に用いた多量のタカラガイ、各種のイスラム陶器、ガラス製品、紅玉髄や石英を加工して作ったビーズ、マダガスカル産の凍石を加工して作った壺などが発見された。また、12世紀中葉以降、宋代の青磁を輸入するようになった。一方マリンディとモンバサは、豹の皮と鉄製品を輸出していたことで知られていた。マリンディの南方にある港町ゲディはアラブの史料には記載されていないが、黒と黄の文様が施されたイスラム陶器、緑釉をかけたスグラフィート陶器を輸入し、このころから繁栄していたことが考古学的調査で判明している。 アラブの地理学者ヤークート・ビン・アブダラー・ハマウィーは、13世紀のモガディシュについて、東アフリカでもっとも著名な都市のひとつであること、住民がイスラム教を信仰するアラブ人で、混血の人々もいること、彼らが複数のコミュニティを作って生活していることを述べている。当時のモガディシュは、黒檀、白檀、象牙などを輸出していた。ヤークートは、キルワについて現在では知ることのできる最古の記録を残していることでも知られる。彼の記録によると、キルワは島ではなく沿岸に築かれた街であること、またザンジバル島についてもラングジャ・ウングジャという名で記述しており、独立した国家があって交易の中心都市として繁栄し多くの船が寄港していた様子について述べている。このことは、先述したポルトガル人歴史家がキルワについて多くの大型船が寄港していたこと、その大きさは50トンのキャラベルと呼ばれる大型の帆船にも決して引けを取らない立派なものであったと述べているがそのような船が200年前からアフリカ東海岸とインド洋を航行していたことを想像させる。13世紀中葉のキルワは、サンジェ・ヤ・カティ島の島民と考えられているジャンガとの抗争の末、これに勝利し14世紀初頭になって、アブル・マワーヒブ王朝のもとで大きく発展を遂げた。多量のスグラフィート陶器、宋代の青磁を含む磁器、浮彫文様が施された香料などを入れる瓶や巻き玉や管玉などのビーズ類に代表される多量のガラス製品がこの時期に輸入されていることがその繁栄を物語っている。ゲディでは、キルワと同様なイラク、イラン産のイスラム陶器、浮彫文様が施された香料などを入れる瓶などのガラス製品が輸入されている。 14世紀のアフリカ東海岸の様子については、イブン・バットゥータによってモガディシュが交易の中心地であって、商人たちは、モガディシュの住民たちの中から信用できる人物を代理人として選び、交易に伴う取引の仕事を任せるようになったと記述されている。またバットゥータが1331年にキルワを訪れた際、人口は1万2千人に達したこと、キルワのスルタン(王)は、海岸沿いの断崖に宮殿を築いていて「アブ・アル・マハウィーブ」(贈り物をする父)と呼ばれていたことを記録している。キルワでは、この時期中国産の陶磁器の輸入量がイスラム陶器を大きく上回るようになった。イスラム陶器のうち主要なものを挙げると、アデン産と考えられるつや消しの行われた黄色い釉薬をかけた黒色文の粗製陶器が主体であった。ゲディでは青緑釉のラスター彩陶器が輸入され始め、ガラス製管玉、巻玉のビーズと赤い胎土の球形ないし円筒形のビーズは輸入され続ける。14世紀の後半には、明るい緑色釉をほどこし、厚手で球状を呈したイスラム単彩陶の最古段階のものが見られるようになる。中国産の陶磁器のうち主なものは、福建省の龍泉窯産の青磁連弁文碗、磁州窯産などの白地黒掻き落としなどが代表的なものであった。 15世紀は、キルワが、支配階層の抗争によってゆっくり衰退する時期と考えられているが、輸入陶磁器の量は増えている。イスラム単彩陶は、緑から青緑色のものであり、中国産の陶磁器は、青磁や青白磁が主体で、ビーズはほとんどが赤い管玉になっている。輸出品は、金、犀角、奴隷、象牙、真珠、貝殻類であり、東海岸の北部では豹皮を輸出する街もあった。ゲディは、明の青花と白釉と青釉のラスター彩陶器を輸入していたことがわかっている。。
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