エチオピア高原、アフリカの角地域とは? わかりやすく解説

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エチオピア高原、アフリカの角地域

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 22:06 UTC 版)

アフリカ史」の記事における「エチオピア高原、アフリカの角地域」の解説

一方エチオピア高原目を向けると、この地にアクスム王国という国家1世紀ごろに設立されている。イエメン地方から紅海渡り移住してきたセム語族築いた王国で、アラビア文化継承しつつ、独自の文化育んでいった。4世紀メロエ王朝滅ぼしたエザナ王はコプト正教会国教とし、ギリシャローマ帝国、そしてそれを受け継いだ東ローマ帝国との港湾都市アドゥリス通じた紅海貿易繁栄したまた、コプト正教会は、庶民へとも浸透していったが、7世紀アラビア半島ペルシア支配され周囲イスラム化が進むと、孤立し交易ルート断たれアクスム王国衰弱一途たどった11世紀頃にやや内陸ラスタ地方からザグウェ朝興り世界遺産になっているラリベラの岩窟教会群造られた。13世紀後半アクスム王家血筋名乗るイクノ・アムラクラスタ地方南方、アムハラ、ショア地方から挙兵して1270年ザグウェ朝倒しソロモン朝をひらいた。ソロモン朝は、交易によって結びついたアムハラとショアキリスト教勢力イスラム教勢力連合体お互い勢力均衡の上成立していた。イクノ・アムラクの孫、アムデ・ション(位131444)の時代遠征おこないタナ湖北方ユダヤファラシャ)人勢力東方アデン湾からアワシュ川流域に住むイスラム教勢力支配するのに成功した。しかし、アワシュ川流域に住むイスラム教勢力は、ソロモン朝有力な隣国であるイファトのスルタン国に接近することになったが、アムデ・ションは、イファトのスルタン、ハケディンの領内で、キリスト教徒イスラム教徒捕まえられ奴隷として売られ事件口実にイファトを攻撃して、これを打ち破り駐屯部隊置いて支配した。イファトの属国化によって他の小スルタン国もアムデ・ションの支配下に入ることになり、ダワロとシャルハなどアムデ・ションにつく交易都市出現したソロモン朝時代には大きな都市造られることはなかったが、これは、ソロモン朝皇帝移動する宮廷」、つまり、皇帝家族から騎兵近衛兵官僚たちとその家族皇帝の一族文官武官たちのために教会運営する僧侶たちをひきつれキャンプによって国土支配した征服地には、全く別の場所から連れてきた言語民族異な兵士からなる駐屯軍がおかれ、小さな反乱であればすぐに鎮圧し鎮圧が困難であれば近隣地から援軍が来る仕組みになっていた。ソロモン朝は、強大化した軍隊と富とを背景エチオピア教会保護したため、イスラム教徒に不満がくすぶるようになっていった。エチオピアでのイスラム教徒の自由や安全、利益を守ることを要求するマムルーク朝対しエジプト国内コプトキリスト教徒の自由や安全、利益を守ることを要求して強硬な態度とっていた。また、ゼラ・ヤコブ(位1434〜68)の時代にはヨーロッパ使節送りヨーロッパ人職人技術者連れ帰ることに成功した。しかし、ゼラ・ヤコブの死後帝国安定息子のビイデ・マリヤム(位1468〜78)の治世までしか維持されず、後継者争い衰退一途をたどり16世紀前半起こったイマーム・イブン・イブラヒムによる反乱によって決定的に崩壊することになる。 一方東アフリカ沿岸部は、古来からイスラム商人によるインド洋交易がさかんで、イスラムとの融合スワヒリ語形成されスワヒリ文化と言える多く港湾都市繁栄したことで知られる。それを支え東アフリカスワヒリ人(スワヒリ語を使う人々)の通常の生業は、農業漁労であった10世紀著述家であるアル・マスウーディーによるとココナッツヤムイモバナナ、アズキモロコシを栽培していたと伝えている。また15世紀ポルトガル人著述家によると、ウシヒツジ、ヤギなどを飼いサトウキビ綿花栽培していたことを記述している歴史家もいる。綿花については、出土品紡錘車みられることからも綿織物作られていたことがわかる。一般の人々の家は、ヤシの葉などで屋根を葺(ふ)いて壁や粘土木材つくったであった。これらの家が集まって村落形成し規模大きくなる都市になった。。一方でキルワみられるように都市に住む人々のうち裕福な者は石造りの家に住み宮殿や大モスクは、数階建ての建築物であった漁労得た貝殻は、さまざまな形容器ビーズスプーン作るのに用いられた。また貨幣使用されおびただしい量のタカラガイ小安貝)が東アフリカ沿岸集落都市遺跡からは発見される。 9〜10世紀ころには、マリンディのやや北方にあるマンダ島交易中心として繁栄していたことがわかっている。マンダ島発見される遺物にはサーサーン朝以来伝統をひきついだイスラム陶器13世紀相当する元代青磁乾燥させた素地顔料混ぜた化粧土塗って一部掻き落とす技法用いたスグラフィート陶器などが発見されている。東アフリカ交易繁栄した町として知られるのは、キルワないしキルワ・キシワニ(「キルワの島」の意)が挙げられる10世紀から12世紀ころにイラン南西部都市シーラーズから渡ってきたアラブ人グループによって商業拠点造られシーラーズ王朝つくられたのがはじまりとされている。アラブ人ペルシャ人現地人々との混血が行われて、人種的に文化的にも独自の発展をとげることになる。 12世紀以降アフリカ東海岸は、ラム群島ザンジバル古名ウングジャ)を経由しキルワに至る交易路形成された。キルワ・キシワニ発掘調査された結果前述したように貨幣用いた多量タカラガイ各種イスラム陶器ガラス製品紅玉髄石英加工して作ったビーズマダガスカル産の凍石を加工して作った壺などが発見された。また、12世紀中葉以降宋代青磁輸入するようになった一方マリンディモンバサは、豹の皮と鉄製品を輸出していたことで知られていた。マリンディ南方にある港町ゲディアラブ史料には記載されていないが、黒と黄の文様施されイスラム陶器緑釉をかけたスグラフィート陶器輸入しこのころから繁栄していたことが考古学的調査判明している。 アラブ地理学者ヤークート・ビン・アブダラー・ハマウィーは、13世紀モガディシュについて、東アフリカでもっとも著名な都市のひとつであること、住民イスラム教信仰するアラブ人で、混血人々もいること、彼らが複数コミュニティ作って生活していることを述べている。当時モガディシュは、黒檀白檀象牙などを輸出していた。ヤークートは、キルワについて現在では知ることのできる最古の記録残していることでも知られる彼の記録によると、キルワは島ではなく沿岸築かれた街であること、またザンジバル島についてもラングジャ・ウングジャという名で記述しており、独立した国家があって交易中心都市として繁栄し多くの船が寄港していた様子について述べている。このことは、先述したポルトガル人歴史家キルワについて多く大型船寄港していたこと、その大きさ50トンキャラベル呼ばれる大型帆船にも決し引けを取らない立派なものであった述べているがそのような船が200年前からアフリカ東海岸インド洋航行していたことを想像させる13世紀中葉キルワは、サンジェ・ヤ・カティ島の島民考えられているジャンガとの抗争の末、これに勝利し14世紀初頭になって、アブル・マワーヒブ王朝のもとで大きく発展遂げた多量スグラフィート陶器宋代青磁を含む磁器浮彫文様施され香料などを入れる瓶や巻き玉や管玉などのビーズ類に代表される多量ガラス製品がこの時期輸入されていることがその繁栄物語っている。ゲディでは、キルワ同様なイラクイラン産のイスラム陶器浮彫文様施され香料などを入れる瓶などのガラス製品輸入されている。 14世紀アフリカ東海岸様子については、イブン・バットゥータによってモガディシュ交易中心地であって商人たちは、モガディシュ住民たちの中から信用できる人物代理人として選び交易に伴う取引仕事任せようになった記述されている。またバットゥータが1331年キルワ訪れた際、人口1万2千人達したこと、キルワスルタン(王)は、海岸沿いの断崖宮殿築いていて「アブ・アル・マハウィーブ」(贈り物をする父)と呼ばれていたことを記録している。キルワでは、この時期中国産の陶磁器輸入量がイスラム陶器大きく上回るようになったイスラム陶器のうち主要なものを挙げると、アデン産と考えられるつや消し行われた黄色釉薬をかけた黒色文の粗製陶器主体であったゲディでは青緑釉のラスター彩陶器輸入され始めガラス製管玉、巻玉のビーズと赤い胎土球形ないし円筒形ビーズ輸入され続ける。14世紀後半には、明る緑色釉をほどこし厚手球状呈したイスラム単彩陶の最古段階のものが見られるうになる中国産の陶磁器のうち主なものは、福建省龍泉窯産の青磁連弁文碗、磁州窯産などの白地掻き落としなどが代表的なものであった15世紀は、キルワが、支配階層抗争によってゆっくり衰退する時期考えられているが、輸入陶磁器の量は増えている。イスラム単彩陶は、緑から青緑色のものであり、中国産の陶磁器は、青磁青白磁主体で、ビーズはほとんどが赤い管玉になっている輸出品は、金、犀角奴隷象牙真珠貝殻類であり、東海岸北部では豹皮を輸出する街もあった。ゲディは、明の青花と白釉と青釉ラスター彩陶器輸入していたことがわかっている。。

※この「エチオピア高原、アフリカの角地域」の解説は、「アフリカ史」の解説の一部です。
「エチオピア高原、アフリカの角地域」を含む「アフリカ史」の記事については、「アフリカ史」の概要を参照ください。

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