1988年 - 番組の終了
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「ザ・ベストテン」の記事における「1988年 - 番組の終了」の解説
番組は10年目を迎え、「月間ベストテン」をスタートさせ、ランキングボードやオープニングを新しいものにした。この頃になると光GENJIや南野陽子、工藤静香らが番組に華を添えており、夏頃までは20%を超える回もあるなど歌番組の中では安定した人気を誇っていた。しかし10月から裏番組としてフジテレビで「とんねるずのみなさんのおかげです」がスタートし、一気に視聴率を逆転される。89年から司会を渡辺正行メインにし、それまで初登場の曲にのみに出していた歌詞テロップを常時出すなどのテコ入れをしたが効果は見られず、1989年7月6日に番組内で打ち切りを発表。2ヶ月後の9月28日に最終回を迎えた。 1988年から各月の最終週に「月間ベストテン」開始。月間ベストテンに限り、歌われる曲すべてに歌詞のテロップが出た。ところが、1988年2月25日に池田政典の「FORMULA WIND」が通常のウイークリーで10位で初登場したものの、当日は月間ベストテンだったため事前にファンを招いてのスタジオ収録が10秒程度流れるも生歌唱ができず、翌週には圏外落ちしてしまった。その後は、月間ベストテン放送回で週間ランキングに初登場した歌手がいればトップバッターで歌わせる処置がとられた。 ランキングボードが老朽化のため制作費1,560万円をかけてランプが円から星型になった新しいものに変更。得点の表示が4桁から6桁に増え、年間ベストテンの得点表示が可能になった。4桁時代のランキングボードは、1987年の豪華版終了後に視聴者プレゼントされた。実際に6桁全てを使用したのは計16回。なお、新調されたランキングボードは2021年現在も保管されており復活特番やベストテンを回顧するイベント・番組の企画で使用されている。1月7日放送分から、オープニングの映像と番組テーマ曲を新しいアレンジのものに変更された。また、ゲスト席や上記のランキングボードなどメインセットがリニューアルされ、ランキングボードの隣にある中継映像を映すテレビモニターの上部に日付のテロップ(デジタル表示)が設置されるようになる。なお、この日の10位発表前に近藤真彦の母親の遺骨が盗難された事件について黒柳がテレビを通じて返すように呼び掛ける場面があった。 3月31日 - 2回目の「ザ・ベストテン延長戦」を放送。この日は月間ベストテンという形での延長戦になった。しかし、クイズまでの映像が長すぎたこと、光GENJIの諸星和己が黒柳を茶化して司会の邪魔をしたこと、出演しない歌手のクイズに黒柳が代理で答えるなど前年度より段取りの悪い内容のため、ランキング紹介が途中(17位)で終わる。17位は酒井法子の「GUANBARE」だったが、わずか20秒前後しか出演せず、歌唱披露すらできないまま放送終了となってしまった。そのため代替として、酒井は翌週の冒頭に中継出演で「GUANBARE」を歌唱した。 6月16日・23日 - 2週に限り、「私は黒柳」というテーマで黒柳のまねをした女性が松下と司会を進行。サザンオールスターズが3年ぶりに出演。 8月4日 - 箱根からの生中継。箱根からの出演は光GENJIと薬師丸ひろ子のみで、それ以外の歌手はコンサート会場などからの中継。 10月6日 - 公開生放送は550回目ではなく、期首改編に合わせ552回目に「ザ・ベストテン大移動・鹿児島編」を放送。視聴率は南日本放送では70.5%(ビデオリサーチ調べ、鹿児島地区・世帯・リアルタイム)を記録したが、制作局のTBSでは初の1ケタ(9.8%)を記録(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。この年が最後の公開生放送になった。 11月11日の一部新聞で、1989年3月に「ザ・ベストテン打ち切り」という記事が掲載されたが、当時は一旦否定していた。 11月24日 - 月間ベストテンの週で月間にランクインした歌手9組と、週間ベストテンで初登場1組の10組出場した。その為、司会の黒柳は喋る時間を限定されてしまっていた。 12月29日 - 『さよなら1988 ザ・ベストテン豪華版』を放送。最後の豪華版放送となった。視聴率は16.1%で前年より10ポイント以上下げてしまう。 1989年1月5日 - オープニングから8位発表まで、久米宏が司会で登場。その後、生島ヒロシ・小西博之・草野仁・チャック・ウィルソン・森末慎二・松下賢次が登場。この日が松下の最後の出演で、エンディングでは松下がくす玉を割り、全員で長渕剛の「乾杯」を歌唱。元号が昭和の時代としては最後の放送となった(「昭和64年」としては唯一)。Winkが、昭和64年唯一の初ランクイン。「みなさん」が放送休止ということもあり18.6%と高視聴率を記録。だが皮肉にもこの回がこの年の最高視聴率となってしまう。 1989年になるとオーケストラ演奏を必要としないバンド系の歌手の増加で、オープニングにバンドが毎週いることがなくなり、オープニング時は歌手席のところに集合する形をとるようになった。 1月12日 - 4代目司会者として渡辺正行(コント赤信号)と柄沢晃弘が登場。柄沢は基本的にデータの読み上げなどの補佐に回った。元号が平成になってからの最初の放送となった。なお、1月5日・12日ともTBSを含む各局では昭和天皇の病状悪化、7日の崩御を受けて自粛ムード一色となり、人気バラエティや音楽などの派手な演出を伴う番組が軒並み休止となる状態だったが本番組は予定通り放送された。 2月23日 - 毎回歌詞テロップを表示するようになる(それまで初登場時のみ)。 4月6日 - ゲスト席の椅子と壁面がリニューアルされる。椅子はそれまでのソファから単なる1人掛け椅子になったため、寺尾の赤ソファと田原の青ソファはゲスト席の端に置かれることとなった。前週(3月30日)の放送分がスペシャルドラマ『痛快!ロックンロール通り ファイナル』(21:00 - 22:24)で中止になったため、先週のランキングも発表した。4月のみ「春の秘蔵映像豪華版」と題して、歌手や視聴者のリクエストに答えて昔の映像を流すようになった。同じ頃、『夜のヒットスタジオ』でも総集編などの形式で過去の映像を流す機会が増えており、両番組でのこの措置は生歌だけでは視聴率が取れない時代に突入していたことを象徴する出来事でもあった。視聴率は17.1%と高視聴率を記録。この企画の最後にあたる4月27日はオープニングで一気に上位ベストテンを発表する試みが行われた。まず、スタジオが暗転しドラムロールと共に前週のランキングを発表。そこにある曲が27日の週では何位に入っているかを当てるものであり、よってこの週のベストテンはランダムで発表する形となる。ボードが回転した場合は2曲続けて発表と同じ要領で「ジャン!」と鳴ってから次の順位に移っていた。ボードが回転しない(11位以下にランクイン)場合は衝撃音が入っていた。そして全ての曲を発表後にスタジオに出演する歌手が1位の入場曲(全員が入場し終わるまで最後の部分を繰り返していた)と共に全組入場していた。 4月13日、関東地区で視聴率が6.9%に急落し、番組最低視聴率を叩き出す。1位は光GENJIの「地球をさがして」。 6月29日 - 上半期年間ベストテンを放送。しかし今週のベストテンを含めてもスタジオには工藤静香、荻野目洋子、中継でWinkと3組しか出演しなかった。視聴率は8.8%。 7月6日 - 放送終了直前に黒柳徹子が、9月末をもって「ザ・ベストテン」を番組終了することを発表。終了理由としては、「番組開始当初は2分30秒の歌も、現在は平均3分30秒になり長いものは5分近くなっていき、10組フル出場してもらっても満足なインタビューをすることが困難なために、この番組も役目を果たした」との説明がなされる。しかしその後に「私たちはもっと心のこもった、「歌手の皆さんにゆっくりインタビューをする」そういういい番組を作っていきたい、という気持ちは充分にあります。」とも話しており、実際に後継の『音楽派トゥギャザー』はランキングを撤廃したトーク中心の番組となる。次週から最終回まで、同番組のテレビ欄には「あと○週!」と表示されるようになる。 末期はランクインした歌手の出演が中継を含めて、多くても6組程度になっていた。初登場だけ出演し、その後は出演辞退を行う歌手が増えたからである。そのため時間をつなぐために出演した歌手へのインタビューを長くしたり、フルコーラスで歌唱させるなどの処置を行っていた。3位発表前の20位から11位だった発表を50位から放送したり、スポットライトの歌手が毎週出演(多いときは2組)するようになった。そのため全盛期のスピード感ある進行や番組出演者の一体感は失われた。また、ランキングボードでの楽曲紹介も、2曲以上紹介する際は1曲紹介する途中で次の順位の楽曲のボードが回転するなど、番組進行を早めるために進行速度が速くなっていた。7月27日 - 参院選に当選した議員をスタジオゲストとして招く。出演した参院議員は、八代英太、田英夫、中村鋭一、黒柳明、堂本暁子、乾晴美の6名。スポットライトには、片岡鶴太郎が「思いの丈で…」を披露。 8月24日 - 黒柳が欠席。渡辺が豪華に登場したいと希望したため、派手に登場。また、この回よりTBS初のクリアビジョン放送を開始、ただし、ネット局では通常放送。 9月7日 - 600回目であったが公開生放送は行われず、スタジオから12年間のベストテンを発表。1位は五木ひろしの「長良川艶歌」。 9月14日 - 「スポットライト」の最終回はC-C-Bが登場。解散直前でシングルメドレーだった。ZIGGYが最初で最後の出演。 9月21日 - 第1回目の映像を画面右下で小さく再放送(スタジオのモニターでも映していた)。主音声では通常の生放送を、副音声では第1回目の音声を放送する方式がとられた。なお、歌手が歌っている時やCM中は再放送は流されず、その部分はステレオ放送。一方の副音声も本放送当時の流れのまま流していたため、本編中に本放送当時CMを挿入していた時間は1988年からのテーマ曲をCMフィラーとして流していた。 9月28日 - 最終回を迎える。10組中5組がスタジオに登場、1組が中継、4組が欠席。欠席の竹内まりやからは電話があった。2位の光GENJI「太陽がいっぱい」では間奏で、番組ロゴが描かれた紅白のフラッグを振る出演者・スタッフ・バンド・集まった関係者らに見守られながらメンバーがGスタジオを何周か走り、その後に田原の青ソファをバンドセットの中央まで持ってきてそこに座らせた黒柳を囲みながら大サビを歌う場面も見られた。最終回の1位は工藤静香の「黄砂に吹かれて」。その後渡辺の「ザ・ベストテン!」のコールに合わせて、ランキングボードの全てのパネルが回転し、曲名・アーティスト部分に縦書きで「ごくろうさま黒柳さん」という文字と得点999,999点がランキングボードに表示され、12年間の感謝を込めて全員でミラーゲートから出てくる黒柳を盛り上げた。最終回視聴率は12.2%だった。 10月5日 - 『さよならザ・ベストテン』を放送。10月1日に開局したテレビユー山形(TUY)でも放送された。歴代の司会者(久米は中盤に『ニュースステーション』の準備の合間を縫う形でテレビ朝日から移動して出演。短時間で退席してテレビ朝日へ戻った)・登場歌手などが昔の映像を見返す。番組途中からは松山千春が初めてGスタジオに登場。また、全国各地から出演した歌手からのメッセージも放送された。エンディングには、高田純次が翌週からの新番組の宣伝に登場。番組のテーマ曲に秋元康作の歌詞が付けられたスペシャル・ソングが発表された。最後に「前述した国会図書館・都道府県立図書館に寄贈するアルバムの最後に掲載する」とされた最後の記念写真(結果的にこの写真は掲載されなかった)が、スタジオにいた全員の「ハイポーズ!」の掛け声で撮影されて12年の歴史に幕を下ろした。視聴率は20.5%であった。
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