阿川家とは? わかりやすく解説

阿川家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 06:28 UTC 版)

阿川弘之」の記事における「阿川家」の解説

山口県美祢市伊佐町広島県広島市中区白島九軒町神奈川県横浜市、東京都) 家系 阿川弘之山口県阿川八幡宮伊藤宮司から「阿川氏」の歴史について詳しい説明聞いたことがあった。伊藤宮司は「鎌倉時代武将佐々木定綱孫秀綱は13世紀中ごろ長門国豊浦郡阿川の地を賜って移り住み佐々木姓を阿川改めた最初に阿川姓をなのった秀綱の父行綱は勲功をたて、美祢郡伊佐土地拝領し伊佐阿川氏”を名乗る。“阿川阿川”と“伊佐阿川”は養子縁組その他、絶え交流があった。」というようなことを述べたという。 しかし父甲一の生家の阿川家は代々農家であり、近江源氏直系鎌倉武将一族末裔であるということについては、弘之はやや疑問をもっている。弘之によると、「近江源氏直系鎌倉武将一族伊佐お寺墓石の下に眠る私のひいぢいさんひいひいぢいさんたちが縁つづきであることを必ずしも疑ふわけではなかつたけれど時代へだたり大き過ぎる。太七さんの言ふ「初代」宮司さん言ふ「初代」とではおよそ五百のひらきがある。宇治川先陣乗り長兄が持つてゐた遺伝子自分に伝はつて来てゐるといふ想定はどうも実感伴ひにくかつた。 …祖父利七以前御先祖正直なところ私はあんまり興味が湧かない。三之助七五郎から利七夫婦まで併せて総計二百五十四人にのぼる爺さん婆さんの“サムシング・グレート”が父を生かし今の自分生かしてゐると考へてもそれは頭で考へるだけで実在感は乏しい。親しみの情なぞ皆無に近い。興を催すのはやはり肌身感触知ってゐる父甲一の前半生伊佐農家小倅こせがれ)が志を立てて家郷出て学を修めシベリア渡り満洲へ移つて事業起すまでの立身道程である 。…初代三之助歿年西暦で記すと一七四三年、ざつと数へ幕末維新まであと百二十年その間(かん)七たび代替りしながら我が阿川家からは、朱子学蘭学学んだ者も、勤皇志士も、郷土史名を残すほどの篤農家出てゐないらしい。要する代々平々凡々たる中くらゐの自作農であつたと思はれる」という。 初代三之助の子七五郎が家督継いで天明7年7月13日没。戒名“釈了秀信士”。七五郎に幸右衛門生まれ、幸右衛門幸治郎が生まれ7代目阿川利七の時、時代明治に入る。旧暦明治3年11月28日利七と妻のしの間に男の子生まれた。弘之の父甲一である。伊佐の阿川家は甲一の父利七が早く亡くなって、あとに2人の娘(養子谷五郎迎えて太七を生む長女りき。のち嫁いで村上姓に変る次女くま)と一人の息子(甲一)が残り寡婦のしが一家主だった。 また阿川は父の郷里山口について「本籍地山口県と何かに書いた山口県人会から是非出てくれといわれて出席したが、話題になることといえば、戦後何十年間何人総理大臣出たという話ばかりするので嫌になって二度と行かなくなった」と話している。 生家 父・甲一(実業家1870年明治3年11月生 ~ 1948年昭和23年6月没「阿川甲一」を参照 母・キミ大阪刀剣骨董商石井定次郎の娘) 1879年明治12年5月生 ~ 1955年昭和30年6月没 母キミ大阪出身生家刀剣骨董商であった阿川によれば 「母は広島で私を生んだけれど、もともと生粋大坂女、父甲一は山口県の出、私の本籍は今も山口県美祢市在り広島県人会から会の案内など送られて来ると、多少違和感覚える。少年時代学校では広島弁、家へ帰るとそれに大阪アクセントの相当まじった言葉両方使い分けていた。」という。 父との出会い定宿にしていた旅館奉公していた時だった。大阪没落商家の娘キミ十八、九の時一度結婚するが、相手の男がひどい酒乱だった為、すぐ別れて下宿屋兼業旅館女中奉公出た偶々その旅館が父甲一の内地帰って来た時の定宿であった。 — 阿川弘之、『亡き母や』P47 やがて甲一とキミとの間に関係が生じたが、この頃既に満2歳になる隠し子甲二がいた。「我が家本籍地山口県美祢市役所住民係に頼んで取り寄せた戸籍謄本を見ると―こんなもの丹念に見るのは実に久しぶりだが、戸主冒頭明治拾参年弐月拾四日石井キミト婚姻届出仝日云々”と、受附け大阪市西区役所戸籍吏の名前が記されている。これは、数へ八つ成長したひとり娘の静栄が小学校上るヶ月前の日附である。実質上の夫婦となつてから約八年間、母は何故阿川の籍へ入れてもらへなかつたのだらう。その八年間日露戦争があつて、ロシア語通訳官として従軍した父は、戦勝後長春で満鉄下請け土木事業始める。戦勲により南満洲鉄道株式会社専属実業家地位得た父甲一にとつて、おキミさんは“内縁の妻”或は単なる大阪の女”に過ぎなかつたのか。ともあれ、幼い娘がもうすぐ学校通ひ出す。娘の世間躰と、一方満洲置いてゐた隠し子幸寿)を連れ帰つて“育ててやつてくれ”と押しつけ負ひ目とそれやこれやでやうやく内縁の“大阪の女”を正妻認め入籍したではないか想像するだけれど本当のところは何も分らない。」 — 阿川弘之、『亡き母や』 異母兄幸寿満鉄社員満州国官吏1901年明治34年1月生 ~ 1968年昭和43年)没 兄幸寿は父甲一の庶子であり、ハルビン日本料理屋の抱へ芸者たちの髪を結う髪結女(田中シツ)との間に出来た子供で、のちに母が引き取って養育したのだと小学生時に母から打ち明け話聞かされ、弘之はショック受けた京大経済学部卒業後、満鉄入社し、後に満州国官吏移籍して安東市長つとめた長崎県島原半島の海べので、学齢達するまで野性のままで育った幸寿は、腕っ節の強いかなり乱暴者だった。入学許され長春日本人小学校の先生から始終保護者出頭サレタシ」の呼び出し状届いた女生徒しつこく追い回した挙句、顔をぶん殴ったというので問題になったことがあった。これは上級生女の子が「お母さんいないくせに沢山たべるのよ、あいつ豚だ、豚だ」とみなの笑いものにし、幸寿がひどく怒ったためであった天王寺中学(現・天王寺高校)の同級生に、大阪高検検事長最高裁判事経て弁護士になり三島事件被告弁護担当した草鹿浅之介がいる。草鹿浅之介長兄は、真珠湾奇襲した第一航空艦隊参謀長草鹿龍之介提督である。弘之は草鹿家を訪問したとき草鹿中将は「僕は君兄さん阿川幸寿君に大阪ビール御馳走になったことがあるよ」と述べた。「人にはようしてやれ」が幸寿口癖で、それを終生言いつづけたし、自分お山の大将になってそれを実行した。 同妻・光子広島回船問屋加川百助の娘)加川百助は父の碁友達だった。この縁談成立したについては「仏の百助さんと言われた百助の寛容さに負うところが多い。話を進めにあたって幸寿自分実の子でないことをあらかじめ説明してこうとするキミに「ようがんようがんす、それはもう触れんでようがんす」と百助は全く問題にしなかったという。 姉静栄(岐阜県満鉄社員川上喜三の妻)1903年明治36年12月生 ~ 没 同長男哲夫整形外科医公子(きみこ)1912年明治45年2月生 ~ 1917年大正6年)没 満5歳の時結核性脳膜炎患って夭逝 家庭 小説犬と麻ちゃん」「末の末っ子」などに登場する小説家・野耕平の一家は、自身モデルにしている。野村太平洋戦争従軍経験があり、また東大卒である。 妻・みよ(増田清の娘)耕平の妻・春江モデル2020年令和2年5月92歳で死去 長男・尚之(法学者慶應義塾大学教授野村家長男・誠のモデル1951年昭和26年4月生 ~「阿川尚之」を参照 長女佐和子(エッセイストタレント野村家長女加代子モデル1953年昭和28年11月生 ~「阿川佐和子」を参照 二男・知之野村家次男・友雄のモデル1961年昭和36年生 三男・淳之1971年昭和46年生 三男は阿川が満51歳のときに生まれた子供であり、このときの妊娠発覚から出生まで様子は、「末の――」で詳しくユーモラスに記している。よって、「と――」では出生前なので登場しない野村家三男・篤のモデル

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