阿川家
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(山口県美祢市伊佐町、広島県広島市中区白島九軒町、神奈川県横浜市、東京都) 家系 阿川弘之は山口県・阿川八幡宮の伊藤宮司から「阿川氏」の歴史について詳しい説明を聞いたことがあった。伊藤宮司は「鎌倉時代の武将佐々木定綱の孫秀綱は13世紀の中ごろ長門国豊浦郡阿川の地を賜って移り住み佐々木姓を阿川に改めた。最初に阿川姓をなのった秀綱の父行綱は勲功をたて、美祢郡の伊佐に土地を拝領し“伊佐の阿川氏”を名乗る。“阿川の阿川”と“伊佐の阿川”は養子縁組その他、絶えず交流があった。」というようなことを述べたという。 しかし父甲一の生家の阿川家は代々の農家であり、近江源氏直系の鎌倉武将一族の末裔であるということについては、弘之はやや疑問をもっている。弘之によると、「近江源氏直系の鎌倉武将一族と伊佐のお寺の墓石の下に眠る私のひいぢいさんひいひいぢいさんたちが縁つづきであることを必ずしも疑ふわけではなかつたけれど時代のへだたりが大き過ぎる。太七さんの言ふ「初代」と宮司さんの言ふ「初代」とではおよそ五百年のひらきがある。宇治川の先陣乗りの長兄が持つてゐた遺伝子が自分に伝はつて来てゐるといふ想定はどうも実感を伴ひにくかつた。 …祖父利七以前の御先祖に正直なところ私はあんまり興味が湧かない。三之助、七五郎から利七夫婦まで併せて総計二百五十四人にのぼる爺さん婆さんの“サムシング・グレート”が父を生かし今の自分を生かしてゐると考へてもそれは頭で考へるだけで実在感は乏しい。親しみの情なぞ皆無に近い。興を催すのはやはり肌身の感触を知ってゐる父甲一の前半生、伊佐の農家の小倅(こせがれ)が志を立てて家郷を出て学を修めシベリアへ渡り満洲へ移つて事業を起すまでの立身の道程である 。…初代三之助の歿年を西暦で記すと一七四三年、ざつと数へて幕末維新まであと百二十年、その間(かん)七たび代替りしながら我が阿川家からは、朱子学蘭学を学んだ者も、勤皇の志士も、郷土史に名を残すほどの篤農家も出てゐないらしい。要するに代々、平々凡々たる中くらゐの自作農であつたと思はれる」という。 初代三之助の子七五郎が家督を継いで天明7年7月13日没。戒名“釈了秀信士”。七五郎に幸右衛門が生まれ、幸右衛門に幸治郎が生まれ、7代目阿川利七の時、時代は明治に入る。旧暦の明治3年11月28日利七と妻のしの間に男の子が生まれた。弘之の父甲一である。伊佐の阿川家は甲一の父利七が早く亡くなって、あとに2人の娘(養子谷五郎を迎えて太七を生む長女りき。のち嫁いで村上姓に変る次女くま)と一人の息子(甲一)が残り寡婦のしが一家の主だった。 また阿川は父の郷里山口について「本籍地は山口県と何かに書いたら山口県人会から是非出てくれといわれて出席したが、話題になることといえば、戦後何十年間に何人総理大臣が出たという話ばかりするので嫌になって二度と行かなくなった」と話している。 生家 父・甲一(実業家) 1870年(明治3年)11月生 ~ 1948年(昭和23年)6月没「阿川甲一」を参照 母・キミ(大阪、刀剣・骨董商・石井定次郎の娘) 1879年(明治12年)5月生 ~ 1955年(昭和30年)6月没 母キミは大阪出身で生家は刀剣・骨董商であった。阿川によれば 「母は広島で私を生んだけれど、もともと生粋の大坂女、父甲一は山口県の出、私の本籍は今も山口県美祢市に在り、広島県人会から会の案内など送られて来ると、多少の違和感を覚える。少年時代、学校では広島弁、家へ帰るとそれに大阪アクセントの相当まじった言葉、両方使い分けていた。」という。 父との出会いは定宿にしていた旅館で奉公していた時だった。大阪の没落商家の娘キミは十八、九の時一度結婚するが、相手の男がひどい酒乱だった為、すぐ別れて下宿屋兼業の旅館へ女中奉公に出た。偶々その旅館が父甲一の内地へ帰って来た時の定宿であった。 — 阿川弘之、『亡き母や』P47 やがて甲一とキミとの間に関係が生じたが、この頃既に満2歳になる隠し子甲二がいた。「我が家の本籍地、山口県美祢市役所の住民係に頼んで取り寄せた戸籍謄本を見ると―こんなもの丹念に見るのは実に久しぶりだが、戸主欄冒頭“明治四拾参年弐月拾四日石井キミト婚姻届出仝日云々”と、受附けた大阪市西区役所戸籍吏の名前が記されている。これは、数への八つに成長したひとり娘の静栄が小学校へ上る二ヶ月前の日附である。実質上の夫婦となつてから約八年間、母は何故阿川の籍へ入れてもらへなかつたのだらう。その八年間に日露戦争があつて、ロシア語の通訳官として従軍した父は、戦勝後長春で満鉄下請けの土木事業を始める。戦勲により南満洲鉄道株式会社専属実業家の地位を得た父甲一にとつて、おキミさんは“内縁の妻”或は単なる“大阪の女”に過ぎなかつたのか。ともあれ、幼い娘がもうすぐ学校へ通ひ出す。娘の世間躰と、一方、満洲に置いてゐた隠し子(幸寿)を連れ帰つて“育ててやつてくれ”と押しつけた負ひ目とそれやこれやでやうやく内縁の“大阪の女”を正妻と認め入籍したのではないかと想像するのだけれど本当のところは何も分らない。」 — 阿川弘之、『亡き母や』 異母兄・幸寿(満鉄社員、満州国官吏)1901年(明治34年)1月生 ~ 1968年(昭和43年)没 兄幸寿は父甲一の庶子であり、ハルビンの日本料理屋の抱へ芸者たちの髪を結う髪結女(田中シツ)との間に出来た子供で、のちに母が引き取って養育したのだと小学生の時に母から打ち明け話を聞かされ、弘之はショックを受けた。京大経済学部を卒業後、満鉄に入社し、後に満州国官吏に移籍して安東の市長をつとめた。 長崎県島原半島の海べの村で、学齢に達するまで野性のままで育った兄幸寿は、腕っ節の強いかなりの乱暴者だった。入学を許された長春日本人小学校の先生から始終「保護者出頭サレタシ」の呼び出し状が届いた。女生徒をしつこく追い回した挙句、顔をぶん殴ったというので問題になったことがあった。これは上級生の女の子が「お母さんいないくせに沢山たべるのよ、あいつ豚だ、豚だ」とみなの笑いものにし、幸寿がひどく怒ったためであった。 天王寺中学(現・天王寺高校)の同級生に、大阪高検の検事長、最高裁判事を経て弁護士になり三島事件被告の弁護を担当した草鹿浅之介がいる。草鹿浅之介の長兄は、真珠湾を奇襲した第一航空艦隊の参謀長草鹿龍之介提督である。弘之は草鹿家を訪問したとき草鹿中将は「僕は君の兄さんの阿川幸寿君に大阪でビールを御馳走になったことがあるよ」と述べた。「人にはようしてやれ」が幸寿の口癖で、それを終生言いつづけたし、自分がお山の大将株になってそれを実行した。 同妻・光子(広島、回船問屋加川百助の娘)加川百助は父の碁友達だった。この縁談が成立したについては「仏の百助さん」と言われた百助の寛容さに負うところが多い。話を進めるにあたって幸寿が自分の実の子でないことをあらかじめ説明しておこうとするキミに「ようがんすようがんす、それはもう触れんでようがんす」と百助は全く問題にしなかったという。 姉静栄(岐阜県、満鉄社員・川上喜三の妻)1903年(明治36年)12月生 ~ 没 同長男・哲夫(整形外科医) 公子(きみこ)1912年(明治45年)2月生 ~ 1917年(大正6年)没 満5歳の時結核性脳膜炎を患って夭逝 家庭 小説「犬と麻ちゃん」「末の末っ子」などに登場する小説家・野村耕平の一家は、自身をモデルにしている。野村も太平洋戦争で従軍経験があり、また東大卒である。 妻・みよ(増田清の娘)耕平の妻・春江のモデル。2020年(令和2年)5月、92歳で死去 長男・尚之(法学者・慶應義塾大学教授)野村家長男・誠のモデル。1951年(昭和26年)4月生 ~「阿川尚之」を参照 長女・佐和子(エッセイスト、タレント)野村家長女・加代子のモデル。1953年(昭和28年)11月生 ~「阿川佐和子」を参照 二男・知之野村家次男・友雄のモデル。 1961年(昭和36年)生 三男・淳之1971年(昭和46年)生 三男は阿川が満51歳のときに生まれた子供であり、このときの妊娠発覚から出生までの様子は、「末の――」で詳しくユーモラスに記している。よって、「犬と――」では出生前なので登場しない。野村家三男・篤のモデル。
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