農耕時代
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続く弥生時代にも、狩猟による猪、鹿が多く食べられ、その他ウサギ、サル、クマなども食べられている。農耕時代になると、動物の臓器が食べられることは少なくなり、塩分は海水から取られるようになった。縄文時代の遺跡では狩猟獣であるシカ・イノシシがほぼ一対一の比率で出土するのに対し、弥生時代の遺跡では「イノシシ」が増加する。これは西本豊弘により形質的特徴から大陸から導入された家畜としてのブタが混入していたことが指摘され、「弥生ブタ」と称されている。弥生時代の社会は家畜の利用を欠いた「欠畜農耕」と考えられていたが、1980年代終盤から「ブタ」や「ニワトリ」の出土事例が相次いでおり、家畜の利用が行われていたと考えられている(「弥生豚」)。 文献資料では『魏志倭人伝』(3世紀)には、日本には牛馬がいなかったことが明記されている。ただし「近親者の死後10日ほどは肉を食べない」ともかかれており、肉食は行われていた。中国語では動物全般を「禽獣魚虫」で表すが(「禽」は「鳥」の意味)、日本の古語では鴨などの禽肉を単に「トリ」、獣肉を「シシ」、魚肉を「ウヲ」と呼び、「猪(イ)」の肉を「イノシシ」、「鹿(カ)」の肉を「カノシシ」、また肉だけでなく生体も同じくそのまま呼んだ(このため「禽獣」を「トリシシ」とも読む)。「ししおどし」の「しし」は肉ではなく獣のことである。後に漢語の呉音由来の「ニク」に代わり、「肉」の異体字の「宍」で宍肉(ししにく)、人名での「シシ」などに語が残っている。なお「獅子」はここでの「シシ」とは訓みが偶然一致しているだけで関係はない。獣肉は一度に大量に確保できるが、生肉の保存技術が無く、生贄はその場で屠殺して食べられた。肉は一般には加熱(直火、煮炊き)して食べられたが、神事では火を使うことは不浄とされ、基本は生肉、あるいは塩、酢などを使った膾(鱠)、干物で食した。『日本書紀』の雄略2年10月 (旧暦)の条には「置宍人部 降問群臣 群臣黙然 理且難対 今貢未晩 我為初 膳臣長野 能作宍膾」と宍人部(食肉に携わる職の家系)の起源伝承が述べられており、生肉を宍膾(ししなます)にして食べられた旨が書かれている。 古墳時代には薬猟の名で、鹿や猪の狩が年に数回行われ、その肉が滋養の薬として食べられていた。また、古墳時代には大陸から牛と馬が渡来する。馬は主に乗馬として用いられたが、牛馬は肉や内臓が食用あるいは薬用にも使われた。猪豚は飼育も行われており、『日本書紀』安寧天皇11年(西暦不明)の条には猪使連という専門職が登場する。欽明天皇16年(555年)7月 (旧暦)には「使于吉備五郡 置白猪屯倉」と吉備に白猪屯倉を置くよう命じられており、569年には功あった白猪田部に白猪史の姓が贈られている。 飛鳥時代には典籍や仏教が入り、誰もが食して旨いと知っているもののたとえから、誰もが知っていることを「膾炙」(原義は「なます」と「焙った肉」)という言葉もあるほどだったが、仏教では動物の殺生が禁じられていることから、この影響で肉食もたびたび禁じられるようになった。奈良時代になると、貴族食と庶民食が分離するようになった。 『日本書紀』によると675年、天武天皇は仏教の立場から檻阱(落とし穴)や機槍(飛び出す槍)を使った狩猟を禁じた。また、農耕期間でもある4月から9月の間、牛、馬、犬、サル、鶏を食することが禁止された(ただし、この「期間を限定」する記述は「漁業設備(ヒミサキリ等)の設置を禁じる」ことで文が完結して、次の文で肉食禁止について書かれていることから、「この肉食禁止は期間を限定した禁令ではない」とする捉え方もある。)。しかし、以前より一般的な習慣として食べられていた鹿と猪は獣肉であっても禁じられなかった。引き続き猪豚の飼育も行われており、穂積親王が708年に詠んだ歌には「降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の寒からまくに」とある(猪養は地名でもある)。また、718年(養老2年)に亡くなった道首名は筑後守時代に国人に鶏や豚の飼育を奨励しており、『続日本紀』には「下及鶏肫。皆有章程。曲盡事宜」(〈道首名の規則は〉鶏や豚の飼育にも及んでおり、ことごとく詳細で適切であった)と記されている。『続日本紀』732年(天平4年)7月6日には聖武天皇が「和買畿内百姓私畜猪四十頭。放於山野令遂性命(畿内の百姓から家畜の猪40頭を買って山に逃がした)」との記載もある。だが、罠や狩猟方法に関して禁令がたびたび出され、正月の宮中行事である御薬を供ずる儀でも、獣肉の代わりに鶏肉が供されるようになった。さらにこの頃から貴族の間で牛乳や乳製品の摂取が盛んになり、動物性タンパクが補われるようになった。奈良時代の肉食禁止令には、家畜を主に食していた渡来系の官吏や貴族を牽制するためとする説もあり、家畜はだめだが狩猟した肉はよいとする考えもこれに基づくものである可能性もある。奈良時代には前時代から食されていた動物に加えてムササビも食されたが、臭気が強いためにこの他の時代ではあまり例がない。また、酢を使って鹿の内臓を膾にすることも始められた。一方で、庶民には仏教がまだまだ浸透せず、禁令の意味も理解されずに肉食は続けられた。 平安時代にも貴族の間での食肉の禁忌は続いた。10世紀前半成立の『延喜式』では3巻の「臨時祭」の中で、「穢悪」のひとつとして死や出産に並んで六畜の肉食が挙げられている。914年(延喜14年)に出された漢学者三善清行の『意見十二箇条』には、悪僧が腥膻(肉と肝)を食うのを評して「形は沙門に似て、心は屠児の如し」とかかれており、食肉の禁忌があったこと、および一部ではそれを僧でさえ破っていたこと、獣肉を処理する屠児という職業がありそれが差別される存在であったことなどを示している。935年(承平5年)に編纂された辞書『和名類聚抄』人倫部第六 漁猟類第二十一では、屠児の和名を「えとり」とし、意味は「鷹雞用の餌を取る者」転じて「牛馬を屠って肉を売る者」という意味だと解説しており、獣肉を売る商売があったことが分かる。また『和名類聚抄』には猪、ウサギ、豚などが食されたことも記載されており、これらはハレの日の食膳に出された。平安時代には陰陽道が盛んになったこともあり、獣肉食の禁忌は強まり、代わって鳥や魚肉が食されるようになった。これが魚肉の値上がりの原因になり、『延喜式』に記載された米と鰹節との交換比率は、200年前の大宝令の時と比べて2 - 3倍に上がっている。延喜式には獣肉の記載がほとんどないが、一方で鹿醢(しししおびしお)、兎醢など獣肉の醤油漬けや、宍醤(ししびしお)という獣肉の塩漬けを発酵させた調味料に関する記載が現れる。乳製品もさらに多く摂られるようになっている。平安末期になると孔子に食肉を供えるはずの行事釈奠でも代わりに餅や乾燥棗などが用いられるようになったり、正月の歯固の膳でも鹿の代わりに鴫、猪の代わりにキジが出されるようになった。また、穢れを信じるあまりに馬肉は有毒とまで考えられ、『小右記』の1016年(長和5年)の条には犯罪を犯した男に馬肉を食べさせた旨が記されている。当時の医学書『医心方』にしし肉(獣肉)と魚肉の食い合わせが良くないと記されていたり、『今昔物語』には庶民がしし肉を買いに行く場面が出てきたりと、完全に食肉の習慣が無くなったわけではなかった。平安時代の古語拾遺には古代のこととして「大地主神、田を営るの日、牛の宍を田人に食はせ」とあり、御歳神に対する神事として農民に牛肉を食わせたことが書かれている。ただし古語拾遺内の創作であるとする可能性も指摘されている
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