農耕時代とは? わかりやすく解説

農耕時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 05:29 UTC 版)

日本の獣肉食の歴史」の記事における「農耕時代」の解説

続く弥生時代にも、狩猟による猪、鹿多く食べられ、その他ウサギサルクマなども食べられている。農耕時代になると、動物臓器食べられることは少なくなり、塩分海水から取られるようになった縄文時代遺跡では狩猟であるシカ・イノシシがほぼ一対一比率出土するのに対し弥生時代遺跡では「イノシシ」が増加する。これは西本豊弘により形質的特徴から大陸から導入され家畜としてのブタ混入していたことが指摘され、「弥生ブタ」と称されている。弥生時代社会家畜利用欠いた「欠畜農耕」と考えられていたが、1980年代終盤から「ブタ」や「ニワトリ」の出土事例相次いでおり、家畜利用が行われていたと考えられている(「弥生豚」)。 文献資料では『魏志倭人伝』(3世紀)には、日本には牛馬がいなかったことが明記されている。ただし「近親者死後10日ほどは肉を食べない」ともかかれており、肉食行われていた。中国語では動物全般を「禽獣」で表すが(「禽」は「の意味)、日本古語ではなどの禽肉を単に「トリ」、獣肉を「シシ」、魚肉を「ウヲ」と呼び、「(イ)」の肉を「イノシシ」、「鹿(カ)」の肉を「カノシシ」、また肉だけでなく生体同じくそのまま呼んだこのため禽獣」を「トリシシ」とも読む)。「ししおどし」の「しし」は肉ではなくのことである。後に漢語呉音由来の「ニク」に代わり、「肉」の異体字の「宍」で宍肉(ししにく)、人名での「シシ」などに語が残っている。なお「獅子」はここでの「シシ」とは訓みが偶然一致しているだけで関係はない。獣肉一度大量に確保できるが、生肉保存技術無く生贄その場屠殺し食べられた。肉は一般に加熱直火煮炊き)して食べられたが、神事では火を使うことは不浄とされ、基本生肉、あるいは塩、酢などを使った膾()、干物食した『日本書紀』雄略2年10月 (旧暦)の条には「置宍人部 降問群臣 群臣黙然 理且難対 今貢未晩 我為初 膳臣長野 能作宍膾」と宍人部食肉携わる職の家系)の起源伝承述べられており、生肉を宍膾(ししなます)にして食べられた旨が書かれている古墳時代には薬猟の名で、鹿やの狩が年に数回行われ、その肉が滋養として食べられていた。また、古墳時代には大陸から牛と馬が渡来する。馬は主に乗馬として用いられたが、牛馬は肉や内臓食用あるいは薬用にも使われた。猪豚は飼育も行われており、『日本書紀』安寧天皇11年西暦不明)の条には使連という専門職登場する欽明天皇16年555年7月 (旧暦)には「使于吉備五郡 置白猪屯倉」と吉備白猪屯倉を置くよう命じられており、569年には功あった白猪田部白猪史の姓が贈られている。 飛鳥時代には典籍仏教入り誰もが食して旨い知っているもののたとえから、誰もが知っていることを「膾炙」(原義は「なます」と「焙った肉」)という言葉もあるほどだったが、仏教では動物殺生禁じられていることから、この影響肉食もたびたび禁じられるようになった奈良時代になると、貴族食と庶民食が分離するようになった『日本書紀』によると675年天武天皇仏教立場から阱(落とし穴)や機槍飛び出す)を使った狩猟禁じたまた、農耕期間でもある4月から9月の間、牛、馬、サル食することが禁止された(ただし、この「期間を限定」する記述は「漁業設備(ヒミサキリ等)の設置禁じる」ことで文が完結して次の文で肉食禁止について書かれていることから、「この肉食禁止は期間を限定した禁令ではない」とする捉え方もある。)。しかし、以前より一般的な習慣として食べられていた鹿と獣肉であっても禁じられなかった。引き続き猪豚の飼育も行われており、穂積親王708年詠んだ歌には「降るはあはにな降り吉隠猪養の岡の寒からまくに」とある(猪養地名でもある)。また、718年養老2年)に亡くなった道首名筑後守時代国人豚の飼育を奨励しており、『続日本紀』には「下及肫。皆有章程曲盡事宜」(〈道首名規則は〉豚の飼育にも及んでおり、ことごとく詳細で適切であった)と記されている。『続日本紀』732年天平4年7月6日には聖武天皇が「和買畿内百姓私畜四十頭。放於山野令遂性命畿内百姓から家畜40頭を買って山に逃がした)」との記載もある。だが、罠や狩猟方法に関して禁令がたびたび出され正月宮中行事である御薬を供ずる儀でも、獣肉代わりに鶏肉供されるようになった。さらにこの頃から貴族の間で牛乳や乳製品摂取盛んになり、動物性タンパク補われようになった奈良時代肉食禁止令には、家畜を主に食していた渡来系官吏貴族牽制するためとする説もあり、家畜はだめだが狩猟した肉はよいとする考えもこれに基づくものである可能性もある。奈良時代には前時代から食されていた動物加えてムササビ食されたが、臭気強いためにこの他時代ではあまり例がない。また、酢を使って鹿の内臓を膾にすることも始められた。一方で庶民には仏教まだまだ浸透せず、禁令の意味理解されずに肉食続けられた。 平安時代にも貴族の間での食肉禁忌続いた10世紀前半成立の『延喜式』では3巻の「臨時祭」の中で、「穢悪」のひとつとして死や出産並んで六畜肉食挙げられている。914年延喜14年)に出され漢学者三善清行の『意見十二箇条』には、悪僧が腥膻(肉と肝)を食うのを評して「形は沙門似て、心は屠児如し」とかかれており、食肉禁忌があったこと、および一部ではそれを僧でさえ破っていたこと、獣肉処理する屠児という職業がありそれが差別され存在であったことなどを示している。935年承平5年)に編纂された辞書和名類聚抄人倫第六 漁猟第二十一では、屠児の和名を「えとり」とし、意味は「雞用の餌を取る者」転じて牛馬を屠って肉を売る者」という意味だと解説しており、獣肉を売る商売があったことが分かる。また『和名類聚抄』にはウサギ、豚などが食されたことも記載されており、これらはハレの日食膳出された。平安時代には陰陽道盛んになったこともあり、獣肉食の禁忌強まり、代わって魚肉食されるようになった。これが魚肉値上がり原因になり、『延喜式』に記載された米と鰹節との交換比率は、200年前大宝令の時と比べて2 - 3倍に上がっている。延喜式には獣肉記載ほとんどないが、一方で鹿醢(しししおびしお)、兎醢など獣肉醤油漬けや、宍醤(ししびしお)という獣肉塩漬け発酵させた調味料に関する記載現れる乳製品もさらに多く摂られるようになっている平安末期になると孔子食肉供えるはずの行事釈奠でも代わりに餅や乾燥などが用いられるようになったり、正月歯固の膳でも鹿の代わりに代わりにキジ出されるようになったまた、穢れ信じあまりに馬肉有毒とまで考えられ、『小右記』の1016年長和5年)の条には犯罪犯した男に馬肉食べさせた旨が記されている。当時医学書医心方』にしし肉(獣肉)と魚肉食い合わせ良くない記されていたり、『今昔物語』には庶民がしし肉を買いに行く場面出てきたりと、完全に食肉習慣無くなったわけではなかった。平安時代古語拾遺には古代こととして「大地主神、田を営るの日、牛の宍を田人に食はせ」とあり、御歳神対す神事として農民牛肉食わせたことが書かれている。ただし古語拾遺内の創作であるとする可能性指摘されている

※この「農耕時代」の解説は、「日本の獣肉食の歴史」の解説の一部です。
「農耕時代」を含む「日本の獣肉食の歴史」の記事については、「日本の獣肉食の歴史」の概要を参照ください。

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