農耕社会の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 17:07 UTC 版)
グスク時代は、考古学的に確認できる琉球最初の農耕時代である。当時代の遺跡から、炭化した米・麦や牛の骨が出土している。『李朝実録』には、琉球に漂着した朝鮮人の見聞録が記され、15 - 16世紀頃における琉球の農業事情が語られている。『李朝実録』によれば、琉球では稲作と麦・粟の畑作、そして牛の飼育が行われていたという。稲作は二期作や、収穫後に残された茎から再び生長した稲(ひこばえ)も刈り入れた。ひこばえから収穫する方法は、グスク時代からの伝統的な農法で、奄美から先島までの琉球全土にわたって行われたが、二期作は14世紀後半に中国南部から伝わったとされ、沖縄本島のみで栽培された。上述より、安里進は、14世紀後半に伝わった稲の二期作以外の麦・粟の栽培と、牛の飼育を組み合わせた複合的な農法は、15世紀以前のグスク時代にも行われていたと考えている。 これら農耕文化の隆盛によりグスク時代には人口が増加したと考えられ、グスク時代以降の集落遺跡の数は、貝塚時代のそれと比較して大幅に増加している。貝塚時代後期は、海産物を主とする狩猟採取の時期で、集落は海岸低地に立地するのが大半であったが、グスク時代の集落遺跡は、石灰岩台地ないしその周辺で集中的に分布している。石灰岩台地は麦・粟の栽培に適した畑地として、さらに周縁部の低地は水田を主体として利用されていたと考えられる。また各々の農作物の性質や収穫時期が異なるため、台風と旱魃による作物への被害を分散させるのに有効である。こうして、生産性の高い石灰岩台地に位置した浦添・糸満・今帰仁を中心にそれぞれ中山・南山・北山の政治的勢力が形成されたのは必然的であると、安里進は述べている。グスク時代以降の集落が飛躍的に増大したのは、農業用の道具が鉄製に変化したことも理由に挙げられる。
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