農芸化学者として
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「遠藤章 (農芸化学者)」の記事における「農芸化学者として」の解説
1966年から1968年、アルバート・アインシュタイン医科大学(ニューヨーク)に留学。コレステロールが米国で年間数10万人が死亡する心筋梗塞の主要な原因であることを知る。帰国後有効なコレステロール低下剤の開発を目指して、2年間に6000株の菌類を調べ、1973年に青カビ(ペニシリウム・シトリヌム)の培養液からコレステロール合成阻害剤 ML-236B(コンパクチン)を発見。予想に反してコンパクチンがラットのコレステロールを下げないために、1974年初めに開発が中止される。同じ頃、イギリスの研究者もコンパクチンを発見したが、ラットに無効なことを理由に開発を中止。その後遠藤はラットに効かない原因を突き止め、1976年4-7月、同僚の獣医師と共に、コンパクチンが産卵鶏とイヌのコレステロールを劇的に下げることを示す。しかしながら、翌年の1977年春には、ラットに肝毒性があるとして、再度開発中止の危機に直面。それでも「コンパクチンが安全で有効な薬になる」と信じていた遠藤は、大阪大学医学部の山本章医師と協力して、1978年2月、コンパクチンによる重症患者の治療に踏み切る。同年夏までに最重症の家族性高コレステロール血症ホモ接合体を除く重症患者8名で安全性と劇的なコレステロール低下作用を認め、コンパクチンの再復活を果たす。ところが1980年夏には発ガン性があるとする誤判断で開発を完全に中止。一方、三共を追随してスタチン2号となるロバスタチンを発見した米国のメルク社は、膨大な毒性試験で発ガン性がないことを証明し、三共を追い越して1987年にメバコーン®発売に漕ぎ着ける。その後、三共のプラバスタチン(商品名:メバロチン®)など6種のスタチンが商業化される。これらスタチンは心筋梗塞と脳卒中の予防のために、世界で毎日約4000万人に投与され、ペニシリンと並ぶ奇跡の薬と呼ばれる。2005年にはスタチンの年間総売上が270億ドル(3兆円)に達する。なかでも、ファイザーのアトルバスタチン(商品名:リピトール®)は世界の医薬品売り上げの1位を占めるブロックバスターとなっている。 遠藤のこれらの研究は、1985年にノーベル生理学・医学賞を受賞した米国のマイケル・ブラウン、ジョーゼフ・ゴールドスタインによるコレステロール代謝の研究にも大きく貢献した。ブラウンとゴールドスタインは遠藤の日本国際賞受賞に際してお祝いのビデオメッセージを寄せている。2012年3月1日、全米発明家殿堂(英語: National Inventors Hall of Fame)は、遠藤が日本人初の「発明家の殿堂」入りすると発表した。
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農芸化学者として
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農芸化学者として生物有機化学を専攻した。昆虫、高山植物、微生物の成長や性に関する生理活性物質の化学構造を決定した。東京大学より名誉教授の称号を贈られた。1989年(平成元年)12月12日、日本学士院会員。1992年(平成4年)文化功労者。1999年(平成11年)文化勲章受章。2015年(平成27年)12月4日死去。叙従三位。
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農芸化学者として
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静岡県により設置・運営される静岡女子短期大学に採用され、1961年(昭和36年)4月に家政科に着任した。1967年(昭和42年)には同じく静岡県により設置・運営される静岡女子大学に転じ、家政学部に着任した。家政学部においては、主として食物学科の講義を担当した。その後、静岡女子大学を静岡薬科大学、静岡女子短期大学と統合し、新たに静岡県立大学を県が設置する構想が持ち上がった。静岡県庁の総務部の学事文書課に県立大学建設室が設置され、江崎幸子や高瀬幸子とともに静岡県立大学における新学部の設立計画を練ることになった。全国的に見て静岡県は食品産業が極めて発展していることを踏まえ、食品学科と栄養学科で構成される食品栄養科学部の設置を江崎や高瀬と立案した。他大学の既存の学部の名称とは大きく異なるため文部省から難色を示されたが、内薗耕二や星猛とともに食品栄養科学部の発足に尽力し、最終的に学部設置認可を受けるに至った。1990年(平成2年)、静岡県立大学の食品栄養科学部にて教授に就任した。その後、静岡県立大学より名誉教授の称号を授与された。
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農芸化学者として
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アメリカ合衆国に渡り、1982年(昭和57年)4月から1984年(昭和59年)3月にかけて、パデュー大学の薬学部やオハイオ州立大学の理学部にて博士研究員を務めた。 日本に帰国後、財団法人である相模中央化学研究所に採用、1984年(昭和59年)4月に研究員として着任。のちに副主任研究員に昇任。 1990年(平成2年)3月に相模中央化学研究所を退職、同年4月より富山県立大学工学部助教授として着任。1995年(平成7年)4月、教授に昇任。2006年(平成18年)4月から2010年(平成22年)3月まで、および、2018年(平成30年)4月から、それぞれ生物工学研究センターの所長を兼務。2011年(平成23年)には、附属図書館の館長も兼務。 なお、2011年(平成23年)から2018年(平成30年)まで、独立行政法人科学技術振興機構による戦略的創造研究推進事業の「ERATO」に採択された「浅野酵素活性分子プロジェクト」にて研究総括を務めた。「ERATO」は、研究総括の所属機関と科学技術振興機構とが共同で本部を設置し研究にあたる事業であり、「浅野酵素活性分子プロジェクト」のために富山県立大学と科学技術振興機構との協働実施体制が構築された。 これまでの功績が評価され、2011年(平成23年)紫綬褒章受章。
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