多彩な姻戚関係と沼津兵学校の人脈とは? わかりやすく解説

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多彩な姻戚関係と沼津兵学校の人脈

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 10:16 UTC 版)

渡部温」の記事における「多彩な姻戚関係と沼津兵学校の人脈」の解説

明治初年実質4年足らず短期間であったが、渡部温沼津兵学校教授として幕臣人脈中心にいた。この時、彼は妻の貞(旧姓成澤)の一家沼津呼び寄せ自邸に住まわせて、自らの長男渡部朔併せて学問の手ほどきをした。沼津帯同したのは、貞の父、成澤良作(知恒、元幕府工兵指図役)、良作長男(貞の弟)の成澤知行甚平)(成沢知行)、その弟の鋠(しん)(後の山口鋠)であった年長知行甚平、1848-1929 維新20歳)は慶應年間柳河春三の「中外新聞」のスタッフ一人として活動した後、沼津兵学校学び、後に陸軍中佐となった児童であった渡部朔兵学校付属小学校学び、まず農芸化学者としてドイツ留学お雇い外国人マックス・フェスカの「肥培論」を翻訳傍ら欧州農協信用組合金融機能ライファイゼン型)に注目し政府への提言など行なうが、後に父を継いで東京瓦斯役員となり、資産家として名高い最年少の鋠は沼津時代学齢以前だったが、後に東京外国語学校フランス語)から陸軍士官学校陸軍戸山学校学び陸軍少佐養子出たため姓が「山口」となる。1902年の「八甲田雪中行軍遭難事件」の大隊長として責任問われた「山口少佐」とは、この山口鋠のことである。 渡部成澤両家東京戻った後に生れた温の次男渡部康三は、東京音楽学校学び1901年3月の、瀧廉太郎留学送別演奏会で、当日唯一人管楽器奏者としてコルネット演奏した。また1903年ケーベル博士らの指導行なわれ日本人最初オペラ公演グルック作曲オルフェウス」の実現を、主に裏方から支えたこの上演の費用は、実際にはほとんど渡部朔(温の没後、康三にとっては父親代り存在)が出している。さらに台本翻訳スタッフだった乙骨三郎は、渡部温沼津での同僚乙骨太郎乙息子であり、二代わたって幕臣人脈つながり見られる。しかし康三は音楽家として大成せず、後に造船業転じている。なお卒業演奏ヴィクトル・ネスラーオペラゼッキンゲンの喇叭手」からの一部を採り上げているが、その全幕上演2006年瀧井敬子企画による山形県長井市まで実現されなかった。(→cf.瀧井敬子「漱石聴いたベートーヴェン中公新書1735) なお、渡部温の妻・貞の妹を通じて義兄弟羽賀可伝(前島密助手として国際郵便制度貢献する夭折)、娘婿には高松豊吉化学)、野坂嘗治(経済学貿易論)などがいる。

※この「多彩な姻戚関係と沼津兵学校の人脈」の解説は、「渡部温」の解説の一部です。
「多彩な姻戚関係と沼津兵学校の人脈」を含む「渡部温」の記事については、「渡部温」の概要を参照ください。

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