多彩な姻戚関係と沼津兵学校の人脈
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「渡部温」の記事における「多彩な姻戚関係と沼津兵学校の人脈」の解説
明治初年の実質4年足らずの短期間であったが、渡部温は沼津兵学校の教授として幕臣人脈の中心にいた。この時、彼は妻の貞(旧姓・成澤)の一家を沼津に呼び寄せ、自邸に住まわせて、自らの長男渡部朔と併せて学問の手ほどきをした。沼津に帯同したのは、貞の父、成澤良作(知恒、元幕府の工兵指図役)、良作の長男(貞の弟)の成澤知行(甚平)(成沢知行)、その弟の鋠(しん)(後の山口鋠)であった。 年長の知行(甚平、1848-1929 維新時20歳)は慶應年間に柳河春三の「中外新聞」のスタッフの一人として活動した後、沼津兵学校に学び、後に陸軍中佐となった。 児童であった渡部朔は兵学校の付属小学校に学び、まず農芸化学者としてドイツ留学、お雇い外国人マックス・フェスカの「肥培論」を翻訳の傍ら欧州の農協・信用組合の金融機能(ライファイゼン型)に注目し、政府への提言なども行なうが、後に父を継いで東京瓦斯の役員となり、資産家として名高い。 最年少の鋠は沼津時代は学齢以前だったが、後に東京外国語学校(フランス語)から陸軍士官学校、陸軍戸山学校に学び、陸軍少佐。養子に出たため姓が「山口」となる。1902年の「八甲田雪中行軍遭難事件」の大隊長として責任を問われた「山口少佐」とは、この山口鋠のことである。 渡部・成澤両家が東京に戻った後に生れた温の次男、渡部康三は、東京音楽学校に学び、1901年3月の、瀧廉太郎留学の送別演奏会で、当日唯一人の管楽器奏者としてコルネットを演奏した。また1903年にケーベル博士らの指導で行なわれた日本人最初のオペラ公演、グルック作曲「オルフェウス」の実現を、主に裏方から支えた。この上演の費用は、実際にはほとんど渡部朔(温の没後、康三にとっては父親代りの存在)が出している。さらに台本の翻訳スタッフだった乙骨三郎は、渡部温の沼津での同僚、乙骨太郎乙の息子であり、二代にわたっての幕臣人脈のつながりが見られる。しかし康三は音楽家としては大成せず、後に造船業に転じている。なお卒業演奏でヴィクトル・ネスラーのオペラ「ゼッキンゲンの喇叭手」からの一部を採り上げているが、その全幕上演は2006年の瀧井敬子企画による山形県長井市まで実現されなかった。(→cf.瀧井敬子「漱石が聴いたベートーヴェン」中公新書1735) なお、渡部温の妻・貞の妹を通じての義兄弟に羽賀可伝(前島密の助手として国際郵便制度に貢献するも夭折)、娘婿には高松豊吉(化学)、野坂嘗治(経済学・貿易論)などがいる。
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