角川春樹時代とは? わかりやすく解説

角川春樹時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:14 UTC 版)

角川映画」の記事における「角川春樹時代」の解説

1976年当時角川書店社長だった角川春樹は、自社発行する書籍(主に角川文庫中心となった)の売上上のため、その宣伝として映画利用することにした。当時推理作家横溝正史ブーム仕掛けていたため、横溝作品の映画化に関わっていた。最初1975年ATGの『本陣殺人事件』に宣伝協力費の形で50万円出資した。ところが次に組んだ松竹の『八つ墓村』が松竹側の都合で製作が延期され書店予定していた横溝正史フェア影響したことから、角川は自ら映画製作を行うことを決意し1976年第1作犬神家の一族』を公開したそれまで映画会社テレビライバル視していたことと、あまりに広告料が高いためテレビCMはあまりやらなかった。しかし角川広告費をつぎ込みテレビCMなど宣伝をうち、書籍と映画同時に売り込むことによって相乗効果狙った結果成功を収める映画製作目的とした(旧)角川春樹事務所も、1976年設立された。翌1977年第2作人間の証明』は日活撮影所撮影し配給東映興行東宝洋画系という従来日本映画界では考えられない組み合わせ映画界新風巻き起こした日本メジャー映画会社違い自社人員抱えず、撮影所持たず製作するため、最も頭を悩ませる部分負担せずに済む、効率良い「おいしいとこ取り」の製作手法であった脇役には主演作が多い三船敏郎鶴田浩二らを起用し監督へ高額演出料を払ったテレビCMでは映像と「お父さん怖いよ。何か来るよ。大勢お父さん殺しにくるよ」、「生きろ、豚は死ね。」、「歴史は、我々に何をさせようというのか?」、「カイカン。」などのキャッチコピー劇中台詞音楽流れ映画出版音楽による相乗効果メディアミックス角川商法呼ばれた横溝続いて森村誠一大藪春彦半村良赤川次郎らの小説次々と映画化された。角川文庫には映画割引券をしおりとして封入した映画音楽主題歌にも力を入れ音楽著作権管理する角川音楽出版音楽企画制作角川レコード設立1970年代上記映画のほか、1978年『野性の証明』1979年の『戦国自衛隊』と大作路線続けていくが、この1本立て上映大作路線は、当時は2本立てプログラムピクチャー上映していた他社にも影響与えて大作ブーム招いたこの他1976年から1980年頃まで、大阪毎日放送制作によりTBS系放送された「横溝正史シリーズ」や「森村誠一シリーズ」などのテレビドラマ企画を、一連の角川映画連動する形で角川春樹事務所が手がけた。 1980年代1980年『復活の日』最後に大作一辺倒路線撤退宣言しスター・システムによる2本立て上映アイドル映画中心にプログラムピクチャー量産するうになる。製作費に22億円をかけた『復活の日』が、配給収入24億円の結果終わって制作費回収できず、路線変更をせざるを得なかったのである正月作品大作戦国自衛隊』も配収135000万円挙げながら収支トントンといった状態であったハイリスク大作映画に対して『セーラー服と機関銃』1981年)は製作費1億5000万円『復活の日』10分の1の予算ながら興行成績では『復活の日』匹敵する配給収入23億円を挙げた映画公開当時角川書店から出版されていた赤川次郎の本は、文庫『セーラー服と機関銃』と『血とバラ』、単行本が『さびしがり屋死体』、『悪妻捧げるレクイエム』の計4冊しかなく、大規模なブック・フェア出来なかった。中川右介は、角川映画ビジネスモデルが「文庫本を売るための映画作り」から「専属女優とそのファンのための映画作り」に『セーラー服と機関銃』から移行した分析している。翌1982年角川春樹事務所コンテスト渡辺典子原田知世発掘。既に専属女優だった薬師丸ひろ子含めて彼女たち角川3人娘呼ばれた1983年の『探偵物語』と『時をかける少女』の2本立て配給収入28億円に達した彼女らテレビ露出することが少なくテレビ出演しているアイドル映画出演するという1970年代以降の形でなく、映画全盛期スクリーンでしか見られなかったかつての映画スター同様の存在として、若い観客映画館呼び戻し自社スターによるプログラムピクチャー路線角川映画1980年代前半牽引した自社雑誌バラエティ』を1977年創刊して情報発信をしていた。 1983年には、マッドハウス組んでアニメ映画にも進出角川アニメ第1弾『幻魔大戦』は、配給収入10億円以上を記録し同年末の『里見八犬伝』は1984年配給収入邦画1位の232000万円計上している。こうして1970年代末から1980年代半ば角川映画は、洋画テレビ押される一方だった日本映画界の停滞打ち破るヒット連発した。角川映画指揮をとりキャッチコピー考えていた角川春樹は、西崎義展山本又一朗らの独立プロデューサーとともに映画界寵児になり、1982年には優秀なプロデューサー贈られる藤本賞受賞した映画宣伝の際は俳優監督以上に積極的にメディア露出し角川映画角川春樹代名詞とも言える存在であった当初話題先行見られ映画評論家からは低かった評価も、1982年の『蒲田行進曲』、1984年『Wの悲劇』と『麻雀放浪記』が映画賞受賞し、『犬神家の一族』の後は圏外続いていたキネマ旬報ベスト・テンランクインするなど、内容的充実認められるようになった日本映画界に定着する一方で、製作から10年目迎えた1980年代後半以降角川映画勢い失速していった。それには、民放フジテレビ映画界本格参入して角川映画お株を奪う大量スポットや局を挙げてメディアミックス戦略仕掛けたこと、また、内部的に1985年薬師丸ひろ子角川春樹事務所から独立、翌1986年には同事務所自体芸能部門から撤退して所属する原田知世原田貴和子渡辺典子独立したことなど の影響があった。 角川春樹時代の角川映画作品の製作のみで、完成した作品配給と興行東映東宝など他社依存1981年にはジャニーズ事務所の『ブルージーンズメモリー』と2本立てだった『ねらわれた学園』宣伝扱いめぐって配給する東宝トラブルになる。1985年になって念願配給業に乗り出し、さらに札幌市角川春樹事務所経営する形の「角川シアター」という映画館開いて興行始めるも、配給は2本の共同配給終わった角川シアターその後松竹系札幌ピカデリー経てアーバンホールとなったが、このときの配給と興行試み成功しなかった。当時角川作品松竹匹敵する配給収入挙げており、自社配給自主興行成功させ、第6の映画会社として自立されることを恐れた日本映画界の妨害があったともされ東映岡田茂は、角川自主配給動き対し今後協力しない突き放す発言をしている。 監督市川崑佐藤純彌深作欣二実績のあるベテラン加えて1980年代から当時若手だった大林宣彦相米慎二井筒和幸森田芳光根岸吉太郎崔洋一や、ほぼTVのみに活動限られていた中堅斉藤光正らにチャンス与え積極的に登用するようになった1990年には1990年代初の大作天と地と』を手がけて興行収入92億円を上げた。しかし1992年ハリウッド進出第1弾称したルビー・カイロ』を製作する失敗し、これらを含む一連の映画事業失敗が、角川春樹と弟の角川歴彦対立を招く下地となり、1992年角川書店お家騒動勃発する。翌1993年には、角川映画牽引した角川春樹薬物所持により逮捕され角川書店離れる事態至り同年7月封切の『REX 恐竜物語』が角川春樹角川書店在籍中最後映画となる。 角川春樹製作時代の「角川映画」の著作権を巡って角川春樹角川書店の間で係争起こった著作権自分にあるとする角川春樹提訴に対して東京地方裁判所角川映画著作権角川書店側に認め判断下している。角川春樹がかつて製作した映画には「角川春樹事務所作品」または「Haruki Kadokawa Presents」というタイトルクレジットがあり、これらはビデオソフト化テレビ放送の際には削除されていたが、2014年よりリリースされ4Kスキャニングマスター版Blu-rayシリーズ以降新規マスター製作され作品は、無修正のまま収録ないし放送される機会多くなっている。

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