角川春樹時代
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1976年、当時角川書店社長だった角川春樹は、自社が発行する書籍(主に角川文庫が中心となった)の売上向上のため、その宣伝として映画を利用することにした。当時、推理作家の横溝正史ブームを仕掛けていたため、横溝作品の映画化に関わっていた。最初は1975年にATGの『本陣殺人事件』に宣伝協力費の形で50万円を出資した。ところが次に組んだ松竹の『八つ墓村』が松竹側の都合で製作が延期され、書店で予定していた横溝正史フェアに影響したことから、角川は自ら映画製作を行うことを決意し、1976年に第1作『犬神家の一族』を公開した。 それまでの映画会社はテレビをライバル視していたことと、あまりに広告料が高いためテレビCMはあまりやらなかった。しかし角川は広告費をつぎ込み、テレビCMなど宣伝をうち、書籍と映画を同時に売り込むことによって相乗効果を狙った結果、成功を収める。映画製作を目的とした(旧)角川春樹事務所も、1976年に設立された。翌1977年の第2作『人間の証明』は日活撮影所で撮影し、配給は東映、興行は東宝洋画系という従来の日本映画界では考えられない組み合わせで映画界に新風を巻き起こした。日本のメジャー映画会社と違い、自社で人員を抱えず、撮影所も持たずに製作するため、最も頭を悩ませる部分を負担せずに済む、効率の良い「おいしいとこ取り」の製作手法であった。脇役には主演作が多い三船敏郎・鶴田浩二らを起用し、監督へも高額の演出料を払った。テレビCMでは映像と「お父さん怖いよ。何か来るよ。大勢でお父さんを殺しにくるよ」、「狼は生きろ、豚は死ね。」、「歴史は、我々に何をさせようというのか?」、「カイカン。」などのキャッチコピーや劇中の台詞と音楽が流れ、映画と出版と音楽による相乗効果のメディアミックスは角川商法と呼ばれた。横溝に続いて森村誠一・大藪春彦・半村良・赤川次郎らの小説も次々と映画化された。角川文庫には映画割引券をしおりとして封入した。 映画音楽や主題歌にも力を入れ、音楽著作権管理する角川音楽出版や音楽企画制作の角川レコードを設立。1970年代は上記映画のほか、1978年の『野性の証明』、1979年の『戦国自衛隊』と大作路線を続けていくが、この1本立て上映の大作路線は、当時は2本立てのプログラムピクチャーを上映していた他社にも影響を与えて、大作ブームを招いた。この他、1976年から1980年頃まで、大阪の毎日放送制作によりTBS系で放送された「横溝正史シリーズ」や「森村誠一シリーズ」などのテレビドラマの企画を、一連の角川映画と連動する形で角川春樹事務所が手がけた。 1980年代は1980年の『復活の日』を最後に大作一辺倒の路線の撤退を宣言し、スター・システムによる2本立て上映のアイドル映画を中心に、プログラムピクチャーを量産するようになる。製作費に22億円をかけた『復活の日』が、配給収入24億円の結果に終わって制作費を回収できず、路線変更をせざるを得なかったのである。正月作品の大作『戦国自衛隊』も配収13億5000万円を挙げながら収支がトントンといった状態であった。ハイリスクの大作映画に対して『セーラー服と機関銃』(1981年)は製作費1億5000万円と『復活の日』の10分の1の予算ながら興行成績では『復活の日』に匹敵する配給収入23億円を挙げた。映画公開当時、角川書店から出版されていた赤川次郎の本は、文庫が『セーラー服と機関銃』と『血とバラ』、単行本が『さびしがり屋の死体』、『悪妻に捧げるレクイエム』の計4冊しかなく、大規模なブック・フェアは出来なかった。中川右介は、角川映画のビジネスモデルが「文庫本を売るための映画作り」から「専属女優とそのファンのための映画作り」に『セーラー服と機関銃』から移行したと分析している。翌1982年に角川春樹事務所はコンテストで渡辺典子・原田知世を発掘。既に専属女優だった薬師丸ひろ子を含めて彼女たちは角川3人娘と呼ばれた。1983年の『探偵物語』と『時をかける少女』の2本立ては配給収入28億円に達した。彼女らはテレビに露出することが少なく、テレビに出演しているアイドルが映画に出演するという1970年代以降の形でなく、映画全盛期のスクリーンでしか見られなかったかつての映画スターと同様の存在として、若い観客を映画館へ呼び戻し、自社スターによるプログラムピクチャー路線で角川映画の1980年代前半を牽引した。自社雑誌『バラエティ』を1977年に創刊して情報の発信をしていた。 1983年には、マッドハウスと組んでアニメ映画にも進出。角川アニメ第1弾の『幻魔大戦』は、配給収入で10億円以上を記録し、同年末の『里見八犬伝』は1984年の配給収入で邦画1位の23億2000万円を計上している。こうして1970年代末から1980年代半ばの角川映画は、洋画とテレビに押される一方だった日本映画界の停滞を打ち破るヒットを連発した。角川映画の指揮をとりキャッチコピーも考えていた角川春樹は、西崎義展や山本又一朗らの独立プロデューサーとともに映画界の寵児になり、1982年には優秀なプロデューサーに贈られる藤本賞を受賞した。映画宣伝の際は俳優や監督以上に積極的にメディアへ露出し、角川映画は角川春樹の代名詞とも言える存在であった。当初は話題先行と見られて映画評論家からは低かった評価も、1982年の『蒲田行進曲』、1984年の『Wの悲劇』と『麻雀放浪記』が映画賞を受賞し、『犬神家の一族』の後は圏外が続いていたキネマ旬報ベスト・テンにランクインするなど、内容的な充実も認められるようになった。 日本映画界に定着する一方で、製作から10年目を迎えた1980年代後半以降、角川映画の勢いは失速していった。それには、民放のフジテレビが映画界に本格参入して、角川映画のお株を奪う大量スポットや局を挙げてのメディアミックス戦略を仕掛けたこと、また、内部的には1985年に薬師丸ひろ子が角川春樹事務所から独立、翌1986年には同事務所自体が芸能部門から撤退して、所属する原田知世と原田貴和子、渡辺典子も独立したことなど の影響があった。 角川春樹時代の角川映画は作品の製作のみで、完成した作品の配給と興行は東映や東宝など他社に依存。1981年にはジャニーズ事務所の『ブルージーンズメモリー』と2本立てだった『ねらわれた学園』の宣伝の扱いをめぐって配給する東宝とトラブルになる。1985年になって念願の配給業に乗り出し、さらに札幌市で角川春樹事務所が経営する形の「角川シアター」という映画館を開いて興行を始めるも、配給は2本の共同配給で終わった。角川シアターもその後は松竹系の札幌ピカデリーを経てアーバンホールとなったが、このときの配給と興行の試みは成功しなかった。当時の角川作品は松竹に匹敵する配給収入を挙げており、自社配給と自主興行を成功させ、第6の映画会社として自立されることを恐れた日本映画界の妨害があったともされ、東映の岡田茂は、角川の自主配給の動きに対し、今後は協力しないと突き放す発言をしている。 監督は市川崑・佐藤純彌・深作欣二ら実績のあるベテランに加えて、1980年代から当時若手だった大林宣彦・相米慎二・井筒和幸・森田芳光・根岸吉太郎・崔洋一や、ほぼTVのみに活動が限られていた中堅の斉藤光正らにチャンスを与え、積極的に登用するようになった。 1990年には1990年代初の大作『天と地と』を手がけて興行収入は92億円を上げた。しかし1992年にハリウッド進出第1弾と称した『ルビー・カイロ』を製作するが失敗し、これらを含む一連の映画事業の失敗が、角川春樹と弟の角川歴彦の対立を招く下地となり、1992年に角川書店のお家騒動が勃発する。翌1993年には、角川映画を牽引した角川春樹が薬物所持により逮捕され、角川書店を離れる事態に至り、同年7月封切の『REX 恐竜物語』が角川春樹が角川書店在籍中の最後の映画となる。 角川春樹製作時代の「角川映画」の著作権を巡って、角川春樹と角川書店の間で係争も起こった。著作権は自分にあるとする角川春樹の提訴に対して、東京地方裁判所は角川映画の著作権を角川書店側に認める判断を下している。角川春樹がかつて製作した映画には「角川春樹事務所作品」または「Haruki Kadokawa Presents」というタイトルクレジットがあり、これらはビデオソフト化やテレビ放送の際には削除されていたが、2014年よりリリースされた4Kスキャニングマスター版Blu-rayシリーズ以降に新規マスターが製作された作品は、無修正のまま収録ないし放送される機会が多くなっている。
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