配給と興行
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超大作で長期宣伝の構えであっても、当時劇場や書店等で配布される映画チラシに館名を入れていたため、1977年秋の公開なら1977年2月末には劇場チェーンの目途を付けたいところであった。日本の二大洋画興行網は東宝のTYチェーンと、松竹、東急レクリエーション、東映洋画で組むSTチェーンであったが、配収目標を20億円に置く角川の意向に応えるため、東映洋画は当初、STチェーンでの拡大公開を目指していたが、STチェーンには同じ秋に松竹製作・配給の『八つ墓村』があり、STチェーンの劇場をフル活用できない状況にあった。角川の興行アドバイザー・黒井和男は配給などの相談で東映に日参していたという。角川から「都市部は劇場網が充実している東宝で興行をやってもらえないか」と岡田東映社長に申し入れがあり、岡田はそれを面白がって了承。1977年1月5日に角川春樹と松岡功東宝副社長との話し合いが持たれ、興行のアプローチが松岡から角川にあり、これを受け、1977年2月23日、岡田東映社長が松岡東宝副社長を銀座東急ホテルに招き「『人間の証明』を東宝のロードショー劇場で上映して欲しい」と申し入れ、松岡が原則了承し東映配給の『人間の証明』は東宝の洋画館でのメインでの公開が決まった。東宝の興行収入は40%から60%といわれ、儲けの約半分を独占する形となった。この間、東宝は自社で大作を製作せず、邦画本番線は『天国と地獄』のリバイバル公開で対応した。付帯収入が大きいとはいえ、東映の配給手数料は僅か。岡田東映社長がこれを認めたのは、東映も将来的には東宝のように配給中心になることを予想し、内部的にも整理していこうという考えがあったからである。岡田と松岡は親交があり、「他の会社なら決りやしないよ。コヤに話を持ってたって拒否されるに決まってるよ。直営館持ってなかったら決りゃしないね。私と松岡さんが会えば即決だよ。東映と東宝の提携だと思ってくれたらいい。まあこれだけの直営、パッと揃えられる東宝サンに舌を巻きましたよ」などと述べ、岡田は「オレと松岡社長が組んだら日本の映画界はほとんどわがものになる」と公言していたため、"映画界のドン"といわれた城戸四郎松竹、及び映連会長が1977年4月18日に急逝し、松岡功が1977年5月、東宝社長に就任。この提携劇は、かねてから業界で囁かれていた岡田=松岡時代の本格到来の始まりでもあった。 『八つ墓村』は、松竹の製作・配給ながら、劇場は先に説明した東映洋画を含むSTチェーンで公開されるため、結果、東宝の劇場に出る映画を東映が宣伝し、東映の劇場に出る映画を松竹が宣伝するという、日本映画史上空前絶後の奇妙な映画興行が行われた。これらは当時どん底まで落ちた日本映画が、徹底した合理化で立ち直ったハリウッドを見習いようやく動き出したなどと評された。
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配給と興行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/07 04:35 UTC 版)
1960年代に始まった地域の文化ホールなどで上映される「親子映画運動」に依拠する形で、各地に起こった上映運動に作品が提供されていくことが眼目であったが(移動映画業者を媒介に小学校などの団体鑑賞として体育館などでも上映されていた)、1971年当時の日活には全国的に営業を展開する余裕はなかった。支社のある東京、中部、関西、九州などで地域団体に映画の普及を働きかけていったが、団体との関係を築けないところもあり営業を休止(関西)、合理化で人員削減に直面しながらも労働組合の主導で劇場勤務だった社員に児童映画の普及、営業に転換して続けたところも(九州、仙台)もあった。その後、アニメ作品「北極のムーシカミーシカ」の成功で、再度関西に営業拠点を設け順調に進んだが、九州は日活から分離して独立させることになった。
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