角川春樹時代の評価
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1982年5月29日の朝日新聞朝刊「討論の広場」欄で「日本映画はどこへ行く」と題して、岡田茂日本映画製作者連盟会長、映画監督・大島渚、小栗康平、映画評論家・白井佳夫が参加して討論会が行われた。討論会の趣旨は、映画人口が最盛期の1958年の11億人から1981年に1億5000万人に割り込んだことを受け、白井が「角川春樹のセンセーショナルな大宣伝によってマイナーな娯楽映画を大ヒットさせる商法に屈服した映画業界」などを問題提起して挙げ、長い討論会中、角川映画に関する言及は、角川春樹を支援していた岡田茂は「角川はいま日本で、監督はまずまず揃っているが、これをどうして、いつ当てて、どういう宣伝をして、どうやって金を取るかと、見通しを持ちながら全てのことをちゃんと支配していくプロデューサー」と評価した。しかし大島渚は「角川さんはプロデューサーとしてある意味強すぎて、監督とのバランスが全部とれない。あの人のところで誰が撮ったって全部角川さんの映画になって、監督の映画が全然出ない。これはいいプロデューサーじゃないんですね、結果的には」と評し、白井佳夫は「プロデューサーというのは元々縁の下の人なんですよね。角川さんは十本以上の映画をあれだけ当てた。角川と組んで映画をすることで有名になった監督が二、三人出なきゃ嘘だし、角川によってスターになった女優や男優が五、六人は出なきゃ嘘なんですよね。まあ薬師丸ひろ子というスターが一人出たけども、あとはみんな既成のスター、既成の監督、既成のシナリオライターを使って作っている」などと評した。 1981年の日本映画界の観客動員1500万人減について、映画評論家の白井佳夫は大量宣伝で成功する角川映画を原因として決めつけた。それに対し、角川春樹は大量宣伝で成功した角川映画は『人間の証明』1本しか存在しないと反論した。映画監督の大島渚は、当初は角川映画は旧態依然とした日本映画界を覆したと評価していたが、後に[いつ?]角川映画が大量の前売券を企業に購入させたことと大量宣伝を批判した。前売券が金券ショップで安価で売られて正規の料金で入場した観客の不信感を買うこと、そして大量宣伝につられて映画を見に行ってもつまらない映画だった場合に映画そのものが観客に疑われるようになるというのがその主旨である。角川映画への批判の中心はこの大量宣伝と前売券による動員、そして作品の質が伴わないという3点であった。 映画監督の佐藤純彌は1986年、斜陽の日本映画界にあって角川映画が映画ビジネスが儲かるものであることを証明し、これに追随して異業種から映画界への資金提供者が現れたこと、久々に薬師丸ひろ子や原田知世といった映画界出身のアイドルを誕生させたこと、従来の新聞中心だった映画宣伝を改変したこと、日本映画界の縦割りの構図を破り、既成メジャーとは異質の映画作りを成立させたことなどを角川映画の功績として挙げている。 映画評論家の田山力哉は、評価できるのは『蒲田行進曲』くらいで、角川映画は札束映画、前売券をバラまいて日本映画はひどいものという印象を与えたとこき下ろした。 映画ジャーナリストの大高宏雄は、角川春樹時代の角川映画は映画製作本数が65本、製作会社としては空前の総配給収入463億円、当時の日本映画歴代配収ベスト50位の中に12番組がランクインと、20年近く、日本映画を興行的側面から支えてきた功績を指摘している。東映・東宝・松竹の大手3社はその恩恵を受け、自らは製作部門を分離するなか、最もリスクの多い映画の製作という役割を角川映画が引き受け、または、角川映画に引き受けさせたとも分析している。 映画評論家の増當竜也によれば、観客から支持されても映画評論家や映画マスコミからは「ヒットはしても中身はない」と言われた角川映画のイメージは、『人間の証明』・『野性の証明』の「証明2部作」によって決定づけられた。 マッドハウス社長であった丸山正雄は、角川アニメが子供向けではないアニメ映画の制作されるきっかけになったとし、アニメーションの歴史においても大きな影響を与えたとの考えを述べている。また、角川春樹がスタッフの自由にやらせ、古いものを壊し新しい要素を取り入れていったことも重要であったとしている。
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