西ヨーロッパでの展開とは? わかりやすく解説

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西ヨーロッパでの展開

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 12:42 UTC 版)

天動説」の記事における「西ヨーロッパでの展開」の解説

ローマ時代において、天文学中心圧倒的に東地中海偏りギリシア語記述されていた。キケロなどギリシア語書かれ専門的な書物興味示したものも居たが、それはむしろ例外だった。この時代ラテン語書かれ天文学関連する書物は、非専門家向けの専門性の低いものであった。ただし、一般教養としては、それらの書物水準決し低くはなかった。 例えば、紀元1世紀大プリニウス博物誌』が最初に取り上げトピックは、宇宙論である。地球宇宙較べれば点のように小さいこと、太陽などの天体地球よりもはるかに大きいこと、天体配列金星水星太陽の下に置く)や距離、天体の運動日月食などが若干数値伴って記されている。また、プラトン影響受けて太陽がその光を通じて惑星地球コントロールしているとする。また、アリストテレス的な四元素説述べられている。本書は、一般的な教育にも用いられた。 また、紀元4世紀前半カルキディウスによるプラトン『ティマイオス』ラテン語訳(全体2/3ほど)と本文倍する分量注釈である。注釈では、プラトン宇宙論古代後期天文学一致主張し天文学基本的な概念例え周天円などの説明も豊富であったキケロの『スキピオの夢』とそれへのマクロビウス英語版)の注釈や、アラトス現象』の1世紀ラテン語訳マルティアヌス・カペラ寓話的な『フィロロギアとメルクリウス結婚について』なども、高度な内容含んでいた。 これらの書物は、宇宙論教養として理解するには十二分内容含んではいたが、それらを元に天文学的な計算ができるような水準ではなかった。一方時刻決定農業のための季節の決定などの実用のための簡便な計算方法が、天文学理論宇宙論関連させない形で学ばれ広く普及していた。大プリニウスも、バビロニアギリシア由来をもつ、農業用の暦の様々な計算方法記した書を残している。 ローマ時代後半期優勢だった思想は、ストア哲学プラトン主義であり、特に新プラトン主義興隆した。新プラトン主義は、アリストテレス的な自然学や、天文学などの数学的な学問取り込んだ古代末期にはキリスト教優勢になるが、キリスト教マニ教など他宗教との競争上、自らの教理補強するため、積極的に哲学自然学説を取り入れた古代末期ラテン教父アウグスティヌス宇宙論の概要知識を、聖書釈義積極的に活用した彼の宇宙論の解釈は、大きな影響力があった。また、簡便な実用天文学有用性みとめた。しかし、それと同時に本格的な天文学聖書理解役に立たないとして、推奨しなかった。 このような状況下、西ローマ帝国徐々に崩壊して中世に入る。初期に於いてはアウグスティヌス的な姿勢そのままに、宇宙論を含む自然学もっぱら聖書釈義と結びついていた。その例として、中世通じて参照されイシドールスの『事物の本性について』をあげることができる。同じ著者による『語源』また、語義語源などが主内容とはいえ天文学その他の学問についての情報多くふくみ、よく読まれた。また、イースター日付を知る方法コンプトゥス,computus)や時刻暦日決定などの実用天文学は、天文学理論とも無縁であった科学史家 S.C. McCluskeyは、中世前期天文学複数形表記し、「異なった問いかけ問題に応じて、全く異なった天文学理論複数作られた」と述べている。 それでも8世紀ベーダ・ヴェネラビリスに至ると、宇宙論自然学聖書釈義からは切り離して記述され内容一段と充実し、また実用天文計算の書でも宇宙論の議論援用するようになったいわゆるカロリング朝ルネッサンスの頃の学術興隆期までには、ローマ時代ラテン語文献おおむね復興された。実用天文計算教育研究推奨され限られた材料元にしてではあるが、研究深まったラバヌス・マウルス・マグネンティウス820年Computus 820においては正確な月や太陽の宮が記されており、正確な観測計算が行われたことが伺える。また、観測装置開発進んだカロリング朝期の宇宙論は、プラトン的な色彩強かったまた、内惑星太陽周りを動くとされた。カルキディウスマルティアヌス・カペラに基づきまた、大プリニウス博物誌』の字句解釈から、太陽周り周回した振動したり、3通りモデル捻り出された。マルティアヌス・カペラ体系では、周転円内惑星のこの太陽周り軌道のことであり、外惑星には周転円省かれていた。また、基本的に数値伴わない定性的議論始終した。 9世紀終わりから10世紀中頃までの政治的な混乱がおさまると、10世紀終わりには、フルーリアッボ(Abbo of Fleury, en:Abbo of Fleury)によって、太陽や月ばかりでなく、惑星平均的な運動の計算方法工夫された。ただし、平均的な運動の計算をめざし、逆行などの予測視野入っていなかった。このころアストロラーベアラビア語圏から導入され観測精度飛躍的に向上した。そして、伝統的な手法限界認識されアラビア語圏からの新たな手法導入はじまった十字軍遠征イベリア半島におけるレコンキスタ地中海貿易などは、ヨーロッパイスラム世界との接触活発にした。11-13世紀にかけて、アラビア語圏科学成果シチリア王国首都パレルモカスティーリャ王国首都トレドなどで精力的に研究され翻訳成された(→12世紀ルネサンス)。古代にはラテン語訳されなかったアリストテレスプトレマイオスなどギリシア語文献も、この時に初めアラビア語版から翻訳される。これらは、アラビア語圏付加され注釈伴いその後の進展やほぼ独自の思想と言って良い独特の解釈含まれていた。これらの新知識取り入れ一方13世紀においてカペラ『結婚』が相変わらず重視されるなど、独自の思想的背景失われなかった。 それまでカトリック教会神学アウグスティヌスなどラテン教父以来伝統引いてアリストテレス影響希薄であったまた、1210年に始って数次渡りパリ聖職者会議アリストテレス自然学形而上学、あるいは特定の言明名指しして異端とするなどの動きもあった。それにもかかわらず13世紀後半活躍するアルベルトゥス・マグヌストマス・アクィナスらにより、結局はアリストテレス形而上学自然学スコラ学主流となる。 天文学は主にスペインにおいて導入が始まる。イスラム系やユダヤ系天文学者協力得て13世紀カスティーリャ王国アルフォンソ10世のもとで編纂された『アルフォンソ天文表』は、その後補正を受けながらも17世紀までヨーロッパで使われていた。 このころイブン・ルシュドアリストテレス主義立場からのプトレマイオスへの批判や、アル・ビトゥルージの同心球体理論改良翻訳されることになる。つまり、中世後期欧州では、プトレマイオス理論導入比較早い段階で、プトレマイオス批判代替案知られることになった同心球体用いた代替理論模索は、アラビア語圏よりもむしろヨーロッパにおいて盛んであった15世紀ドイツプトレマイオスなどの研究をしたレギオモンタヌスヨハン・ミューラー)の業績は、彼の死後1496年に『アルマゲスト綱要』として出版されコペルニクス研究大きな影響与えたレギオモンタヌスまた、同心球体用いた代替理論模索している

※この「西ヨーロッパでの展開」の解説は、「天動説」の解説の一部です。
「西ヨーロッパでの展開」を含む「天動説」の記事については、「天動説」の概要を参照ください。

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