西ヨーロッパでの展開
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ローマ時代において、天文学の中心は圧倒的に東地中海に偏り、ギリシア語記述されていた。キケロなどギリシア語で書かれた専門的な書物に興味を示したものも居たが、それはむしろ例外だった。この時代のラテン語で書かれた天文学に関連する書物は、非専門家向けの専門性の低いものであった。ただし、一般教養としては、それらの書物の水準は決して低くはなかった。 例えば、紀元1世紀大プリニウス『博物誌』が最初に取り上げるトピックは、宇宙論である。地球が宇宙に較べれば点のように小さいこと、太陽などの天体は地球よりもはるかに大きいこと、天体の配列(金星と水星を太陽の下に置く)や距離、天体の運動や日月食などが若干の数値を伴って記されている。また、プラトンの影響を受けて太陽がその光を通じて、惑星や地球をコントロールしているとする。また、アリストテレス的な四元素説も述べられている。本書は、一般的な教育にも用いられた。 また、紀元4世紀前半のカルキディウスによるプラトン『ティマイオス』のラテン語訳(全体の2/3ほど)と本文に倍する分量の注釈である。注釈では、プラトンの宇宙論と古代後期の天文学の一致を主張し、天文学の基本的な概念、例えば周天円などの説明も豊富であった。キケロの『スキピオの夢』とそれへのマクロビウス(英語版)の注釈や、アラトス『現象』の1世紀のラテン語訳、マルティアヌス・カペラの寓話的な『フィロロギアとメルクリウスの結婚について』なども、高度な内容を含んでいた。 これらの書物は、宇宙論を教養として理解するには十二分の内容を含んではいたが、それらを元に天文学的な計算ができるような水準ではなかった。一方、時刻の決定、農業のための季節の決定などの実用のための簡便な計算方法が、天文学の理論や宇宙論と関連させない形で学ばれ、広く普及していた。大プリニウスも、バビロニアやギリシアに由来をもつ、農業用の暦の様々な計算方法を記した書を残している。 ローマ時代の後半期に優勢だった思想は、ストア哲学やプラトン主義であり、特に新プラトン主義が興隆した。新プラトン主義は、アリストテレス的な自然学や、天文学などの数学的な学問を取り込んだ。古代末期にはキリスト教が優勢になるが、キリスト教もマニ教など他宗教との競争上、自らの教理を補強するため、積極的に哲学や自然学説を取り入れた。古代末期のラテン教父、アウグスティヌスは宇宙論の概要の知識を、聖書の釈義に積極的に活用した。彼の宇宙論の解釈は、大きな影響力があった。また、簡便な実用天文学の有用性もみとめた。しかし、それと同時に、本格的な天文学は聖書の理解に役に立たないとして、推奨しなかった。 このような状況下、西ローマ帝国が徐々に崩壊して、中世に入る。初期に於いては、アウグスティヌス的な姿勢そのままに、宇宙論を含む自然学はもっぱら聖書釈義と結びついていた。その例として、中世を通じて参照されたイシドールスの『事物の本性について』をあげることができる。同じ著者による『語源』もまた、語義や語源などが主内容とはいえ、天文学その他の学問についての情報を多くふくみ、よく読まれた。また、イースターの日付を知る方法(コンプトゥス,computus)や時刻や暦日の決定などの実用天文学は、天文学の理論とも無縁であった。科学史家 S.C. McCluskeyは、中世前期の天文学を複数形で表記し、「異なった問いかけや問題に応じて、全く異なった天文学の理論が複数作られた」と述べている。 それでも8世紀のベーダ・ヴェネラビリスに至ると、宇宙論や自然学は聖書釈義からは切り離して記述され、内容も一段と充実し、また実用天文計算の書でも宇宙論の議論を援用するようになった。いわゆるカロリング朝ルネッサンスの頃の学術の興隆期までには、ローマ時代のラテン語文献はおおむね復興された。実用天文計算の教育や研究も推奨され、限られた材料を元にしてではあるが、研究が深まった。ラバヌス・マウルス・マグネンティウスの820年のComputus 820においては、正確な月や太陽の宮が記されており、正確な観測と計算が行われたことが伺える。また、観測装置の開発も進んだ。 カロリング朝期の宇宙論は、プラトン的な色彩が強かった。また、内惑星は太陽の周りを動くとされた。カルキディウス、マルティアヌス・カペラに基づき、また、大プリニウス『博物誌』の字句の解釈から、太陽の周りを周回したり振動したり、3通りのモデルが捻り出された。マルティアヌス・カペラの体系では、周転円は内惑星のこの太陽周りの軌道のことであり、外惑星には周転円が省かれていた。また、基本的には数値を伴わない、定性的な議論に始終した。 9世紀の終わりから10世紀の中頃までの政治的な混乱がおさまると、10世紀の終わりには、フルーリのアッボ(Abbo of Fleury, en:Abbo of Fleury)によって、太陽や月ばかりでなく、惑星の平均的な運動の計算方法も工夫された。ただし、平均的な運動の計算をめざし、逆行などの予測は視野に入っていなかった。このころ、アストロラーベがアラビア語圏から導入され、観測の精度は飛躍的に向上した。そして、伝統的な手法の限界も認識され、アラビア語圏からの新たな手法の導入がはじまった。 十字軍遠征やイベリア半島におけるレコンキスタ、地中海貿易などは、ヨーロッパとイスラム世界との接触を活発にした。11-13世紀にかけて、アラビア語圏の科学の成果はシチリア王国の首都パレルモ、カスティーリャ王国の首都トレドなどで精力的に研究され、翻訳が成された(→12世紀ルネサンス)。古代にはラテン語訳されなかったアリストテレス、プトレマイオスなどギリシア語の文献も、この時に初めてアラビア語版から翻訳される。これらは、アラビア語圏で付加された注釈を伴い、その後の進展やほぼ独自の思想と言って良い独特の解釈が含まれていた。これらの新知識を取り入れる一方、13世紀においてカペラ『結婚』が相変わらず重視されるなど、独自の思想的な背景も失われなかった。 それまでのカトリック教会の神学はアウグスティヌスなどラテン教父以来の伝統を引いて、アリストテレスの影響は希薄であった。また、1210年に始って数次に渡り、パリの聖職者会議がアリストテレスの自然学や形而上学、あるいは特定の言明を名指しして異端とするなどの動きもあった。それにもかかわらず、13世紀後半に活躍するアルベルトゥス・マグヌスやトマス・アクィナスらにより、結局はアリストテレスの形而上学や自然学はスコラ学の主流となる。 天文学は主にスペインにおいて導入が始まる。イスラム系やユダヤ系の天文学者の協力も得て、13世紀にカスティーリャ王国のアルフォンソ10世のもとで編纂された『アルフォンソ天文表』は、その後の補正を受けながらも17世紀までヨーロッパで使われていた。 このころ、イブン・ルシュドのアリストテレス主義の立場からのプトレマイオスへの批判や、アル・ビトゥルージの同心球体理論の改良が翻訳されることになる。つまり、中世後期の欧州では、プトレマイオス理論の導入の比較的早い段階で、プトレマイオス批判や代替案が知られることになった。同心球体を用いた代替理論の模索は、アラビア語圏よりもむしろヨーロッパにおいて盛んであった。 15世紀のドイツでプトレマイオスなどの研究をしたレギオモンタヌス(ヨハン・ミューラー)の業績は、彼の死後1496年に『アルマゲスト綱要』として出版され、コペルニクスの研究に大きな影響を与えた。レギオモンタヌスもまた、同心球体を用いた代替理論を模索している
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