コンプトゥスとは? わかりやすく解説

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コンプトゥス

(computus から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/08 00:38 UTC 版)

コンプトゥス(: computusラテン語計算の意)は、キリスト教教会暦における復活祭の日を算出することである。正式にはコンプトゥス・パスカーリス: computus paschalis「復活祭計算」の意)という。この算出方法は中世で最も重要な計算の1つであったため、中世初期から現在に至るまで「コンプトゥス」といえば復活祭の日付の計算を意味した。

概要

毎年12月25日に祝うクリスマスなどとは異なり、復活祭は移動祝日という日付の固定しない祝日である。日本の春分の日のように春分点を天文計算によって決定する。ちなみにキリスト教の教会暦において春分の日は3月21日に固定されており、復活祭日の計算に欠かせない日である。

教会法、すなわち第1ニカイア公会議の決議では、「3月21日(暦上の春分の日)当日あるいはそれ以降の最初の暦上の満月新月から数えて14日目)を過ぎたあとの最初の日曜日」が復活祭にあたる。祝祭日を決定するのに、ユダヤ教徒は実際の月の観測をもとにしたが、キリスト教は「教会による計算上の」月の満ち欠けを用いることに決めた。

背景

地球が太陽の周りをまわる周期を基本にする太陽暦も、朔望月という月の満ち欠けを1か月とする太陰暦太陰太陽暦も、天文現象をもとに暦計算を行う時には無理数や気の遠くなるような桁の有理数の壁にぶつかる。大昔の天文学者や数学者たちは天文周期表を考え出し、測量技術や数学理論の発展に伴い、また文明の発達でより正確な暦が求められる動きに沿い、補正や改暦を行ってきた。

1582年にグレゴリオ暦を採用したローマ教皇グレゴリウス13世

21世紀現在、世界中の多くの国で導入されているグレゴリオ暦は、そもそも16世紀にカトリック教会が作り上げたものである。当時使われていたユリウス暦は紀元前に導入され、年間誤差が-11分程度であった。しかし月日が経つうちに誤差は累積し、16世紀には教会のいう「春分の日」である3月21日が実際の春分より10日も遅れていた。これは復活祭の日付の計算の障害となり、またカトリック教会の沽券に関わる問題でもあった。そこで教会は当時の科学の粋を集めて、グレゴリオ暦と新しいコンプトゥスを作り上げた。グレゴリオ暦には宗教的要素、特に正確な復活祭日計算という目的があったのである。誤差はユリウス暦の128年に1日から、3000年に1日に縮まり、精度が格段に上がった。

一方正教会非カルケドン派などの東方教会は、この暦の変更が普遍公会議の決定によらず、第1ニカイア公会議の決定をくつがえす合法的な根拠がないとみなし、現在も基本的にユリウス暦を用いつづけている(ただし、アッシリア東方教会は1964年以降グレゴリオ暦を採用している)。

キリスト教の復活祭ユダヤ教過越(すぎこし)の祭と密接な関係にある。フランス語イタリア語ロシア語などほとんどの印欧語では、復活祭を表す単語は直接に過越祭を意味する語に由来する。ユダヤ教における過越の準備は、ニサンの月(ユダヤ暦の春分を含む月)10日に生贄の子羊を用意することから始まった。旧約聖書には14日の夕暮れに生贄の子羊を殺し、その血を戸口に塗った家は神の天罰が「過ぎ越し」(出エジプト記 12章6-7、12-13節)たという。それを思い出し祝うのが過越の祭である。イエス・キリストはその祭の時期に十字架にかけられた(ルカによる福音書 22章1-7節)。キリスト教徒にとって過越の祭は、イエス・キリストが生贄の子羊となり(コリント使徒への手紙1 5章7節)、彼の流した血によって人間が神からの罰を過ぎ越すことができるということを象徴しているのである。

そのためグレゴリオ暦は太陽暦でありながら、太陰太陽暦のニサンの月(春分)にこだわり、第1ニカイア公会議で決定した「3月21日以降の最初の満月」というキーワードを守るため、太陰暦(月の満ち欠け)とも関わりあいを持ち続けているのである。

世界宗教になりつつあったカトリックでは、ユニバーサルな計算方法が必要であった。キリスト教が実際の天文観測でなく「教会による計算上の」月の満ち欠けを用いることに決めた理由はここにある。地球から見た新月の瞬間は全世界どこでも同じである。しかし同じ夜空を眺めていてもヨーロッパは午後9時、日本は翌朝4時である。つまり時差によって、朔望月が1日ずれるのである。「3月21日以降の最初の満月」がヨーロッパで土曜、日本で日曜なら、復活祭の日付は1週間ずれてしまうことになる。地域差を越えて全世界共通の教会暦を作り上げるために、教会はできるだけ天文現象に忠実であろうとしながらも、実際とは異なる「教会の計算上の」春分の日、新月、満月を用いることにしたのである。よって本項における新月、満月というのは、原則として「計算上の」新月、満月であるということに留意しなくてはならない。

歴史

復活祭はキリスト教で最も重要な祝祭日である。それと同時に、復活を祝うのに適した日の選択についても多くの論争が惹起された。太陽暦ユリウス暦を使用していたキリスト教徒にとって、イエス・キリストの受難と復活が太陰太陽暦ユダヤ暦に基づいて行われる過越(すぎこし)の祭りの時期に起こったことであった。このため、何が正しい日付であるかについて、古代にはいくつかの議論がおこった。

現在記録が残る最古の論争のひとつは、西暦154年のローマ主教アニケトゥスとスミュルナ(Smyrna)主教ポリュカルポス(Polycarp)の間におこった。

この日付の違いは、復活祭の神学的な位置付けの違いに起因する。アンティオケイアを中心とするアシア地区では、キリストの最後の晩餐を記念してニサン14日に復活祭が祝われていたが、ローマではニサン14日のあとの最初の主日に復活祭が祝われていた。エウセビオスは、2世紀における復活祭の日付論争について記し、ローマ主教ウィクトルが、ニサン14日のあとの最初の主日を正しい日付としつつ、アンティオケイアの習慣を尊重し、彼らが独自の伝承を守ることを承認している。

325年の第1ニカイア公会議で、キリスト教徒は教徒間に共通で、ユダヤ教とは関連のない手法を使うことに同意した。そして復活祭は必ずイエスが復活した曜日、ゆえにキリスト教の聖なる主日すなわち日曜日に祝うことを決めた。十四日遵守派(Quatrodicimans)は、ユダヤ教の暦に従い、曜日に関わらずイエスが磔刑されたニサンの月14日に復活祭を行うことを希望した。

フィリップ・シャフ(Philip Schaff)の『キリスト教会の歴史』('History of the Christian Church' )3巻79部、『復活祭の時期』には次のように述べられている。

その時以来、復活の祝祭は何処でも日曜に行われることとなった。決してユダヤ教の過越の祭日には行わず、ニサンの月14日目の後、春分のあとの最初の満月後の日曜である。この規則の根底には、主を十字架にかけることで過越の祭を汚したユダヤ教への反抗があった。

しかし実用的な復活祭日の算出ガイドラインが作られておらず、キリスト教全体が同意できるような計算手法ができるまでその後数世紀を要した。

エジプトの都市アレクサンドリアで生まれた計算手法が権威ある計算法「コンプトゥス」となった。太陽年の19年周期であるメトン周期における計算上の月の満ち欠け(実際の観測とは異なる)を表したエパクトという数値を使うものである。この方法は西暦277年ラオディケア(Laodicea 現シリア)の司教アナトリオス(Anatolios)によって初めて利用された。アレクサンドリア人は、当時市内のユダヤ人コミュニティーで用いられていた一般エジプト人の太陽暦を基本にした類似の暦から、アレクサンドリア方式を導き出したのかもしれない。この方式は21世紀初頭もエチオピア式コンピュタスで使用されている。アレクサンドリア方式の復活祭表は、390年頃のアレクサンドリアの司教テオフィロス (Theophilus)から444年頃の司教キュリロス(Cyril)の間に作成された。コンスタンティノープルでは司教アナトリオスの後、そして 第1ニカイア公会議以降、数世紀にわたって数種類のコンプトゥスが使われていたが、復活祭の日は偶然にもアレクサンドリア方式と一致していた。東ローマ帝国の東部前線にあった教会は6世紀にアレクサンドリア方式から逸脱し、21世紀現在も532年ごとに4回、正教会とは異なった日付で復活祭を祝っている。

このアレクサンドリア式計算手法はディオニュシウス・エクシグウスによってローマでアレクサンドリア暦からユリウス暦に変換されたが、たった95年の間だった。ディオニュシウスが525年に新しい復活祭の計算表を発表し、キリスト教暦(キリストの生誕から数え始める暦)を導入したからだ。ローマの教会がいつディオニュシウスの計算表を採用したかはわからないが、早ければ6世紀だっただろう。この計算表は664年にウィットビーの教会会議で英国に採用され、725年にはベーダによって完全に解説された。その後、ベーダの従者であったアルクィンを通して早ければ782年にカール大帝によってフランク王国の教会にも採用された可能性がある。 アロイシウス・リリウスが大部分を作り上げたグレゴリオ暦に改定されるまで、西ヨーロッパではディオニュシウス・ベーダ式コンプトゥスが使われていた。

ディオニュシウスの計算表以前は、ローマ教会が使っていた古い方式があった。最も古いと言われるローマの計算表は222年にヒッポリュトス (Hippolytus)が案出した8年周期に基づくものである。その後、3世紀の終わり近くに84年周期表がアウグスタリスによってローマに紹介された。これらの古い計算表は、イギリス諸島では664年まで、遠隔地の修道院では遅ければ931年まで使われていた。4世紀前半に84年周期の改訂版がローマで採用された。457年アキテーヌのヴィクトリウス(Victorius of Aquitaine)がアレクサンドリア方式を532年周期表にしてローマ方式に取り入れようとしたが、重大な間違いを含んでしまった。ヴィクトリウスの計算表はガリア(現フランス)とスペインで8世紀末にディオニュシウス式に変更するまで使用されていた。

ルドルフ星表

新しい計算手段の導入時期が地域によって異なるのは地理的要因のほかに、宗教的な理由がある。グレゴリオ暦はカトリック教会が作り出したものである。カトリックに追随するのを嫌ったプロテスタントは、独自の方法で復活祭の日付を割り出そうした。カトリック諸国よりずっと遅れてグレゴリオ暦を導入した後も、ヨハネス・ケプラーが作り出したルドルフ星表をもとにカトリックとは異なった手段で復活祭日の計算を行っていた。しかし、グレゴリオ暦が基本のためカトリックの計算内容と大した違いはなかった。

21世紀に入ってからも東方教会は条件こそ「3月21日以後の満月を過ぎた最初の日曜日」と西方教会と同じだが、ユリウス暦を用いている。ユリウス暦の3月21日であるためグレゴリオ暦の復活祭日と異なることが多く、一致するのは3年に1回程度である。例えば2006年の西方教会の復活祭は4月16日だが、東方教会は1週間おくれの23日に復活祭を祝う。2007年は両方とも4月8日に祝う。

理論

新月(朔)から満月(望)を経て新月(朔)に戻る周期を1か月とする朔望月

太陽年[1]は太陽の動きを追った1年である。太陽が春分点から黄道上を移動して再び春分点に戻ってくるまでを 1年とし、小さい剰余はあるが365日周期である。太陰年[2]は、月の満ち欠けで暦を数える。新月から満月を経て次の新月までの朔望周期を 月(朔望月)と考え、その12か月分を1年とする。平均朔望月はこれも小さい余剰があるが29と半日なので、太陰年は354日になる。太陽年は太陰年より11日長いわけである。例えば1月1日が朔望月の始まりである新月ならば太陽年と太陰年は同時に始まるわけだが、太陽年が終わる時に太陰年はすでに次の年の11日目になっている。毎年太陰年が11日早く始まるのだから、2年経てばその差は22にまで累積する。このように太陰年が太陽年より進みすぎて過剰になった分をエパクトギリシア語でエパクタイ・ヘーメライ[3]余所から付け足された日々)という。太陰年における正確な日を知るには、太陽年の日付にエパクトの数値を加えなければならない。エパクトの数値が30を越えれば、太陰年にもう1か月(いわゆる閏月)を挿入してエパクト数から30を引く。

太陽年と太陰年が19年ごとに一致するというメトン周期は、太陽年19年分が朔望周期235回分に等しいと仮定している。19年経って太陽年の始まりと朔望月の開始が一致するなら、エパクトは単純に19年ごとに繰り返されるはずである。しかし一回のメトン周期で累積するエパクト総数は

グレゴリオ暦570万年間の復活祭の日付分布

このような修正の結果、グレゴリオ暦では年間平均が約3.87%と4月19日が最も復活祭日になりやすい日となっている。3月22日は0.48%で最も復活祭日になりにくい日である。

太陽年の閏日は、太陰暦と太陽暦の日付の関係に影響を及ぼさない。基本的にグレゴリオ暦はユリウス暦と同じく4年に1度閏日を挿入しており、メトン周期19年分は閏日が5日なら計6940日、4日なら計6939日である。一方、太陰年は354日×19年+エパクト11日×19年=6935日である。閏日を飛ばしてエパクトを数え、閏日がなかったかのように次のサイクルを始めれば、閏日のある朔望月は1日長くなってしまうが、朔望月が235か月のままで太陽年19年との等しさは変わらない。つまり暦と月の一致(ほどほどの期間の正確さ)は、太陽暦の働きに任せることができ、太陽暦を修正する方法が用いられている。すべては19太陽年=235朔望月(長期展望における正確さ)という仮定の上に立っている。その結果、計算上の月の動きは実際より1日ずれ、閏日を含む朔望月が実際にはありえない31日となることがある(短期展望における不正確さ)。これは太陽暦に規則性を組み込むときに起こってしまう欠点である。

しかし、太陰暦は太陽暦の誤差からある程度守られている。というのは、閏日は太陽年と暦が最もシンクロしやすい時に挿入されているのではないからだ。閏日の挿入は百のつく年(例 1900年)には行わないが、100と400両方で割り切れる年(例 2000年)は閏日を入れるという追加ルールがある。しかし周期ごとに誤差が累積し、ずれが2日以上になってしまう。そのためグレゴリオ暦では、実際の春分が起こるのは、3月20日を中心とした53時間の間に広がっている。1年の暦から見ればどうと言うことはないかもしれないが、月の暦においては幅が大きすぎる。「太陽」方程式を「太陰」方程式と分けたことで、太陰暦には誤差が及ばずに済むのである。

太陽暦の誤差のほかに、グレゴリオ暦の太陰暦部分にもいくつかの欠点がある。ただし、過越月や復活祭日の決定に影響を及ぼすものではない。

  • 朔望月が31(時には28)日になってしまうことがある。
  • もし黄金数19の年にエパクトも19であったなら、教会の計算上の最終新月は12月2日で、次の新月は翌年の1月1日である。しかし、新しい年の始まりにはサルトゥス・ルーナエといってエパクトを1つ増やすため、新月は前日(12月31日)になってしまう。ということは、新月が新年の記録から消えてしまう。ローマ・ミサ典礼書英語版のカレンダリウムは、これを考慮に入れており、このような年には12月31日のエパクトを20の代わりに19と記すことにしている。修正が入る前のグレゴリオ暦エパクト表を使用していた頃は19年ごとに起こっていたが、1690年を最後に次回8511年まで同じ事態は起こらなくなった。
  • エパクト20の年は、12月31日に計算上の新月となる。もしそれが百の前の年(下二桁が99の年)であったなら、たいてい百の年に合わせる「太陽方程式」によってエパクトを1つ減らすことになる。その結果、エパクトが「*」と記され、1月1日も新月となる。新月が連続し、朔望周期がたった1日で終わったようになる。これは4200年の始まりごろに起こるであろう。
  • その後も(ずっと後だが)年の境に起こる問題が出てくる。もしグレゴリオ暦のルールが厳しく守られ、何も手を加えなかった場合、計算上では新月と新月の間が1、28、59(めったにないが58)日も離れてしまうことがある。

注意深く分析してみれば、グレゴリオ暦の利用や修正に用いられる手段において、エパクトは朔望日(朔望月30分の1。インドに於けるティティと同じ)であり、実際の1日とは等しくないことがわかる。(詳しくはエパクトを参照のこと) 太陽方程式と太陰方程式は、400年(太陽方程式)×2500年(太陰方程式)=100世紀ごとに繰り返す。その期間中に補正されたエパクトは、

スウェーデンの計算表(1140年-1671年)。かつてはすべての教会でユリウス暦をもとにした表で日付を求めていた。

ジャン・メーウスはまた、著書『アストロノミカル・アルゴリズムス』[20]において、ユリウス暦における復活祭の日曜日を求める公式も発表した。

この手法はすべてのユリウス暦に有効で、なおかつ例外はなく、表作成も不要である。

表記法は前述のガウスのアルゴリズムに準ずる。すべての数値は、




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