西ヨーロッパでの活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 03:53 UTC 版)
「マリウス・プティパ」の記事における「西ヨーロッパでの活動」の解説
1818年3月11日、フランスのマルセイユに生まれる。両親は共に舞台人で、父ジャン=アントワーヌはダンサー兼振付家、母ヴィクトリーヌは俳優だった。 マリウスは、3歳年上の兄リュシアン・プティパと共に父からバレエを教わり、兄弟は共にダンサーになった。ダンサーとしての評価は兄の方が高く、リュシアンは後にパリ・オペラ座に入団して高い名声を得た。一方、弟マリウスは希望していたオペラ座に入団することは叶わず、ヨーロッパ各地の劇場を転々とした後にロシアへ渡ることになる。 プティパは1831年、13歳のときに、ブリュッセルで行われた父親の一座の公演で初舞台を踏んだ。以降、父親の一座の団員としてヨーロッパ各地を巡業する。1838年からはナントの劇場でダンサー兼バレエマスターとして契約し、この劇場で初めてバレエの振付を手掛けた。その後、パリでオーギュスト・ヴェストリスに師事して技術を磨いてから、ボルドーの劇場でダンサーとして活動するが、この劇場は短期間で財政破綻してしまう。そこで、1843年(1844年とも)にスペインに渡り、1846年まで同地に滞在した。 プティパはマドリードのシルコ劇場で仕事を得るが、やがて自身の恋愛沙汰がきっかけでフランスの外交官と決闘事件を起こし、指名手配を受けて、フランス、イングランド、スコットランドまで逃亡した。
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