西ヨーロッパとイスラム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 09:29 UTC 版)
「古代末期のキリスト教」の記事における「西ヨーロッパとイスラム」の解説
「中世ヨーロッパにおける教会と国家#カロリング朝の帝権」および「レコンキスタ」を参照 7世紀末から8世紀にかけて、ウマイヤ朝が東ローマ帝国からマグリブを奪い、モロッコを平定して北アフリカ全域を制圧すると、続いてイベリア半島に侵入して、711年には西ゴート王国が滅亡した。イベリアのイスラム軍はピレネー山脈を越えてアキテーヌ公ウードを破ったが、ウードはフランク王国のカール・マルテルに救援を依頼した。カール・マルテルとウードは732年10月10日のトゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝に勝利し、西ヨーロッパへのイスラム侵入を阻止した。カール・マルテルはボニファティウスを庇護し、ゲルマニア大司教に任命した。 800年、カール・マルテルの孫カール大帝(シャルルマーニュ)がローマ教皇レオ3世から「ローマ皇帝」として戴冠され、ヨーロッパ世界の誕生を象徴する事件となった。カールはローマ帝国皇帝の称号を得るために、ビザンツ皇帝の説得にあたったが、ビザンツはカールに「フランク人の皇帝」と名乗ることは許したが、ビザンツと対等とは認めなかった。当時は女帝エイレーネー(在位:797年 - 802年)治下であったがカールはそれを狙ったともいわれる。 8世紀半ばからかつてローマ帝国が支配した地中海は、西ヨーロッパのフランク王国、東のビザンツ帝国、南のイスラムに三分された。
※この「西ヨーロッパとイスラム」の解説は、「古代末期のキリスト教」の解説の一部です。
「西ヨーロッパとイスラム」を含む「古代末期のキリスト教」の記事については、「古代末期のキリスト教」の概要を参照ください。
- 西ヨーロッパとイスラムのページへのリンク