西ヨーロッパのローマ法
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西ヨーロッパでは、ユスティニアヌスの権威はイタリア半島やイベリア半島の一部までしか及ばなかった。東ローマ帝国が東ゴート王国を滅ぼし、わずかな間ではあるが、イタリア半島を制圧したことから、ローマ・カトリック教会がユスティニアヌス法典の保存者となったのである。 その他の地域では、ゲルマン諸王が独自に法典を公布し、多くの事案で、かなり長い間、ゲルマン諸部族には彼ら独自の法が適用されたが、ローマ市民の末裔には卑属法が適用されていた。もっとも、それらの中にも先行する東ローマの法典の影響を確かに見て取ることができるが、中世初期には法実務に対する影響力はわずかであった。ローマ法は、教会法に影響を与えることにより細々と生き続けていた。西ヨーロッパでもユスティニアヌス法典のうち勅法彙纂と法学提要は知られていたが、勅法彙纂は雑多な法の集合にすぎず、法学堤要は初心者向けの内容にすぎなかった(それでも当時のゲルマンの法律家のとってはその内容は難解で十分に理解できるものではなかった。)。西ヨーロッパでは、学説彙纂は何世紀もの間おおむね無視されていたが、その理由はあまりに大部で理論的に難解であったことにあり、十字軍をきっかけにヘレニズム文化がイスラムを通じて伝播されることによりようやく学説彙纂の真の価値が再発見される下準備が整ったのである。 1070年ころ、イタリアで学説彙纂の写本(いわゆるフィレンツェ写本)が再発見された。この時から、古代ローマの法律文献を研究する学者が現れ、彼らが研究から学んだことを他の者に教え始めた。こうした研究の中心となったのはボローニャだった。ボローニャの法学校は次第にヨーロッパ最初の大学の一つへと発展していった。中世ローマ法学の祖となったのはイルネリウスであり、難解な用語を研究し、写本の行間に注釈を書いたり、欄外に注釈を書いたりしたことから註釈学派と呼ばれた。ボローニャ大学でローマ法を教えられた学生達は、皆ラテン語を共通言語に、後にパリ大学、オクスフォード大学、ケンブリッジ大学などでローマ法を広め、西欧諸国に共通する法実務の基礎を築いた。 14世紀から15世紀にかけてバルトールス・デ・サクソフェラートを代表とする註解学派と呼ばれる一派がおこり、「バルトールスの徒にあらざるものは法律家にあらず」とまで言われた。彼らは、ローマ法の多くの規範が、ヨーロッパ中で適用されていた慣習的な規範よりも、複雑な経済取引を規律するのに適していることに着目し、推論によって抽象的な原理を導き、当時の経済状況に合わせた自由な解釈を行なった。このため、ローマ帝国の滅亡から何世紀も経った後に、ローマ法や、少なくともそこから借用した条項が、再び法実務に導入され始めた。多くの君主や諸侯がこの過程を活発に支援した。彼らは、大学の法学部で訓練を受けた法律家を顧問や裁判担当官として雇い入れ、例えば、有名な「元首は法に拘束されない」といった法格言を通じて自らの利益を追求したのである(参考:主権)。中世においてローマ法が選好された理由はいくつかある。それは、ローマ法が、財産権の保護や、法主体及びその意思の対等性(特定の富裕者、大企業、権力者といった強者とそれ以外の弱者との間の契約であっても、強者の意思が弱者に優越するというものではないというイメージで捉えられたい。)を規定していたからでもあるし、ローマ法が遺言によって法主体が財産を随意に処分し得る可能性を規定していたからでもある。このように発展してきたローマ法が教会法やゲルマンの慣習、特にレーエン法と呼ばれる封建法の要素と混交された結果、ある法制度が出現した。この法制度は、大陸ヨーロッパの全域(及びスコットランド)に共通のものであり、ユス・コムーネと呼ばれた。このユス・コムーネやこれに基礎をおく法制度は、通常、大陸法として言及される。 16世紀中葉までに、再発見されたローマ法はほとんどの西欧諸国における法実務を支配するに至り、ローマ法の継受がされた。教会法とローマ法の博士をとったものは「両法博士」と呼ばれ大きな影響を持った。特に現在のドイツでは、広範な地域で、ドイツ法に強い影響を与えたため、これを「包括的継受」という。17世紀になると、ドイツでは、ローマ法が自国内の各領邦に共通に適用される普通法として強い影響を与えるとともに、各領邦の社会情勢に応じて自由にローマ法を解釈するようになり、このような解釈態度は「パンデクテンの現代的慣用」と呼ばれた。 イングランドだけは、ローマ法を部分的に継受するにとどめた。その理由の一つは、ローマ法が再発見された当時、イングランドでは既にコモン・ローが成立し、発展を始めていたという事実である。ローマ法が神聖ローマ帝国やカトリック教会、絶対主義を連想させるというのも一つの理由にあげることもできるが、英国法の歴史から明らかなように、スコットランドがイングランドに対抗するという理由から大陸法を継受したという事実がイングランドにとってローマ法をますます受け入れ難いものとした。 この結果、イングランドの制度であるコモン・ローは、ローマ法を基礎とする大陸法と並立して発展していった。とはいえ、「先例拘束の原則」のようにローマ法由来の概念もコモン・ローに入って来ている。特に19世紀初頭、ウィリアム・ブラックストンのように、イングランドの法律家や裁判官は意識的にヨーロッパ大陸の法律家や直接ローマ法から規則や発想を借用しようと努めた。また、イングランドの「海事裁判所」はコモン・ローを使わず、ユス・コムーネを使用していた。 フランスでは、16世紀になると、ルネサンス・人文主義を思想的背景に、文献学的・歴史学的にローマ法大全の古典古代の法文を厳密に探求することを掲げる人文主義法学と呼ばれる一派がおき、バルトールス学派を批判した。また、神聖ローマ帝国に対抗するという政治的な理由から早くからローマ法の影響を脱し、独自のフランス法が発展をみていたが、1804年、フランス民法典が施行されると、19世紀のうちに、多くのヨーロッパ諸国では、フランス法を模範として採用するか、自国固有の法典を起草するかのどちらかになって国家が法典化に乗り出した時に、ローマ法を実際に適用する動きや西欧流のユス・コムーネの時代は終わりを迎えた。 もっとも、当時のドイツは、各領邦が分裂した政治的状況にあったため、統一的な法典を制定することを主張するゲルマニステンと反対派のロマニステンの法典論争がなされたが、結果的には、ドイツ民法典が1900年に施行されるまで、原則的には普通法たるローマ法が適用され続けた。 日本は明治期に主にドイツを経由して大陸法を継受したので、日本法は、間接的にローマ法の強い影響を受けている。
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