西ヨーロッパのローマ法とは? わかりやすく解説

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西ヨーロッパのローマ法

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/09 14:16 UTC 版)

ローマ法」の記事における「西ヨーロッパのローマ法」の解説

西ヨーロッパでは、ユスティニアヌス権威イタリア半島イベリア半島一部までしか及ばなかった。東ローマ帝国東ゴート王国滅ぼしわずかな間ではあるが、イタリア半島制圧したことから、ローマ・カトリック教会ユスティニアヌス法典保存となったのであるその他の地域では、ゲルマン諸王独自に法典公布し多く事案で、かなり長い間ゲルマン諸部族には彼ら独自の法が適用されたが、ローマ市民末裔には卑属法が適用されていた。もっとも、それらの中にも先行する東ローマ法典影響確かに見て取ることができるが、中世初期には法実務対す影響力はわずかであったローマ法は、教会法影響与えることにより細々生き続けていた。西ヨーロッパでもユスティニアヌス法典のうち勅法彙纂法学提要知られていたが、勅法彙纂雑多な法の集合にすぎず、法学要は初心者向けの内容にすぎなかった(それでも当時ゲルマン法律家のとってはその内容難解十分に理解できるものではなかった。)。西ヨーロッパでは、学説彙纂は何世紀もの間おおむね無視されていたが、その理由あまりに大部理論的に難解であったことにあり、十字軍きっかけヘレニズム文化イスラム通じて伝播されることによりようやく学説彙纂真の価値再発見される下準備整ったのである1070年ころ、イタリアで学説彙纂写本いわゆるフィレンツェ写本)が再発見された。この時から、古代ローマ法律文献を研究する学者現れ、彼らが研究から学んだことを他の者に教え始めたこうした研究の中心となったのはボローニャだった。ボローニャ法学校次第ヨーロッパ最初大学一つへと発展していった。中世ローマ法学の祖となったのはイルネリウスであり、難解な用語を研究し写本行間注釈書いたり、欄外注釈書いたりしたことから註釈学派呼ばれたボローニャ大学ローマ法教えられ学生達は、皆ラテン語を共通言語に、後にパリ大学オクスフォード大学ケンブリッジ大学などでローマ法広め西欧諸国共通する実務基礎築いた14世紀から15世紀にかけてバルトールス・デ・サクソフェラートを代表とする註解学派呼ばれる一派がおこり、「バルトールス徒にあらざるものは法律家にあらず」とまで言われた。彼らは、ローマ法多く規範が、ヨーロッパ中で適用されていた慣習的な規範よりも、複雑な経済取引規律するのに適していることに着目し推論によって抽象的な原理導き当時経済状況合わせた自由な解釈行なったこのためローマ帝国の滅亡から何世紀経った後に、ローマ法や、少なくともそこから借用した条項が、再び法実務導入され始めた多く君主諸侯がこの過程活発に支援した。彼らは、大学法学部訓練受けた法律家顧問裁判担当官として雇い入れ例えば、有名な元首は法に拘束されない」といった法格言通じて自らの利益追求したのである(参考主権)。中世においてローマ法選好された理由はいくつかある。それは、ローマ法が、財産権保護や、法主体及びその意思対等性(特定の富裕者、大企業権力者といった強者それ以外弱者との間の契約であっても強者意思弱者優越するというものではないというイメージ捉えられたい。)を規定していたからでもあるし、ローマ法遺言によって法主体が財産随意に処分し得る可能性規定していたからでもある。このように発展してきたローマ法教会法ゲルマン慣習、特にレーエン法呼ばれる封建法の要素混交され結果、ある法制度が出現した。この法制度は、大陸ヨーロッパ全域(及びスコットランド)に共通のものであり、ユス・コムーネと呼ばれた。このユス・コムーネやこれに基礎をおく法制度は、通常大陸法として言及される16世紀中葉までに、再発見されたローマ法はほとんどの西欧諸国における法実務支配する至りローマ法の継受がされた。教会法ローマ法博士をとったものは「両法博士」と呼ばれ大きな影響持った。特に現在のドイツでは、広範な地域で、ドイツ法に強い影響与えたため、これを「包括的継受」という。17世紀になると、ドイツでは、ローマ法自国内の領邦に共通に適用される普通法として強い影響与えとともに、各領邦社会情勢に応じて自由にローマ法解釈するようになり、このような解釈態度は「パンデクテン現代的慣用」と呼ばれたイングランドだけは、ローマ法部分的に継受するにとどめた。その理由一つは、ローマ法再発見された当時イングランドでは既にコモン・ロー成立し発展始めていたという事実である。ローマ法神聖ローマ帝国カトリック教会絶対主義連想させるというのも一つ理由にあげるともできるが、英国法歴史から明らかなように、スコットランドイングランド対抗するという理由から大陸法継受したという事実がイングランドにとってローマ法をますます受け入れ難いものとした。 この結果イングランド制度であるコモン・ローは、ローマ法基礎とする大陸法並立して発展していった。とはいえ、「先例拘束原則」のようにローマ法由来概念コモン・ロー入って来ている。特に19世紀初頭ウィリアム・ブラックストンのように、イングランド法律家裁判官意識的にヨーロッパ大陸法律家直接ローマ法から規則発想借用しようと努めたまた、イングランドの「海事裁判所」はコモン・ロー使わず、ユス・コムーネを使用していた。 フランスでは16世紀になると、ルネサンス人文主義思想的背景に、文献学的・歴史学的にローマ法大全古典古代法文厳密に探求することを掲げ人文主義法学呼ばれる一派がおき、バルトールス学派批判したまた、神聖ローマ帝国対抗するという政治的な理由から早くからローマ法影響脱し、独自のフランス法発展をみていたが、1804年フランス民法典施行されると、19世紀のうちに、多くヨーロッパ諸国では、フランス法模範として採用するか、自国固有の法典起草するかのどちらかになって国家法典化乗り出した時にローマ法実際に適用する動き西欧流のユス・コムーネの時代終わり迎えた。 もっとも、当時ドイツは、各領邦分裂した政治的状況にあったため、統一的な法典制定することを主張するゲルマニステン反対派ロマニステン法典論争なされたが、結果的には、ドイツ民法典1900年施行されるまで、原則的に普通法たるローマ法適用され続けた日本明治期に主にドイツ経由して大陸法継受したので、日本法は、間接的にローマ法の強い影響受けている。

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