ローマ法の継受
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 10:39 UTC 版)
1100年頃ボローニャに法学校ができ、やがて大学へ発展してローマ法がドイツ法の歴史の表舞台に再び登場する準備が整う。 1122年ヴォルムス協約によって 叙任権闘争が一応の解決すると以後、グレゴリウス7世によってその権力をあくまでもドイツ地域に限るという政治的な文脈における意味あいで「ドイツ王国」なる概念が成立するが、その呼称はやがてドイツ人自身によって受け入れられていく。その結果、帝国は、ドイツ王国、ランゴバルト王国、ブルグント王国で構成され、ドイツ国王すなわち皇帝(Kaizer)がランゴバルト王国、ブングルト王国の両国王を兼ねるという帝国及びその下位の単位である領邦による統治体制が確立されることになり、12世紀後半フリードリヒ1世の政策に従って「神聖ローマ帝国」の呼称が広く定着するようになったのである。 以上のように、当時のドイツでは、帝国とは別に、多様な部族ないし領邦がそれぞれの地方で独自の統治システムを擁する、多層的な法構造を有していた。そこでは、地域ごとの不文のゲルマン的慣習法に基づき、フェーデと呼ばれる自力救済の原則に従い、神判や決闘 に基づく封建領主による裁判が行われていた。このことは、アイケ・フォン・レプゴー(Eike von Repgow)が各地の裁判所で参審員として活動した経験を基にザクセン の慣習法を成文化したザクセンシュピーゲル(Sachsenspiegel)という法書によって明らかにされている。 中世後半になると、ヴェネツィアを中心に商業が発達し、それがヨーロッパ全土に拡大していったが、このことが地域ごとの慣習法を忌避し、多層的で不統一な法構造を克服しようとする機運が高まった。 12~13世紀にかけて、ボローニャ大学で、ローマ法の研究が進み、1240年にローマ法大全の標準注釈がアックルシウス(Accursius)によって編纂されると、全ヨーロッパから留学生が集まるようになった。諸国で大学(universitas)が次々に設置されたが、当時の大学は、ローマ・カトリックと切り離せない関係であった。 14世紀には、ローマ法の研究が進む中、 教会法によって教皇の立法権が理論化されると共に、カトリック信者でありさえすれば、地域どころか国を超えて適用される普遍性を有するものとして一般法(jus commune、ユス・コムーネ)の概念を成立させる。もっとも、領主と家臣との関係はレーン法(de:Lehnrecht)とよばれる一種の封建的な契約関係によって支配されており、ローマ法の復興にもかからず、 実際には19世紀に至るまで、地域の伝統や宗教に応じて、法は大きく異なるという多元的で多層的な法構造には変化はなかった。このことが後に法典論争を引き起こす。 15世紀半ばから、以上のような教会法の発展に追随・対抗するかのように世俗的権力の統一を目指すための普遍性を有する便利で権威に満ちた道具としてローマ法は再び強力な役割を演じ始める。パンデクテン法学者として知られる法学者によってローマ法に、市民法大全においてユスティニアヌスが確立したのと同様の公式的地位が、再び与えられるようになったのである。これを「ローマ法の継受」(Rezeption)と呼ぶ。 17世紀になると、ローマ法は、ドイツ語圏内の大部分における「共通法」ないし「普通法」 (de:Gemeines Recht、ゲマイネス・レヒト)となった。ドイツでは、各領邦の社会情勢に応じて自由にローマ法を解釈するようになり、このような解釈態度は「パンデクテンの現代的慣用」 (独:usus modernus Pandectarum)と呼ばれた。同じく大陸法系であっても、フランス法においては、ローマ法との微妙な緊張関係を保ちつつも、あくまで部分的に取り入れられたのと異なり、ドイツ法においては、ローマ法を全面的に受け入れ、特に広範な地域で強い影響を与えたため、これを「包括的継受」(Rezeption incomplexu)と呼ぶ。 18世紀になると、プロイセンは、プロイセン一般ラント法(de:Allgemeines Landrecht für die Preußischen Staaten、ALR)とともに全く新しい法を導入すべく努力し、その完成をみることはなかったものの、後世の(そして現在の)著作にも大きな影響を与えた。
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