艦歴とエピソード
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「クイーン・シャーロット (戦列艦・1810年)」の記事における「艦歴とエピソード」の解説
クイーン・シャーロットはシエラレオネに派遣され、そこで取り締まりの一環として、奴隷貿易に関わっていたフランス船ラ・ルイス(Le Lois)を拿捕した。ラ・ルイスに対し副海事裁判所は船と積み荷の押収を言い渡した。しかし、この件が高等海事裁判所に上訴されると判決は覆がえった。判事のウィリアム・スコットは判決で「公海もしくはどこの国にも属していない海域上で、捜査や臨検を行う権利はどのような国にも無く、唯一敵対国に対するもののみが認められる。」としてラ・ルイスが停止させられ、イギリス海軍兵が乗り込んだことは違法であるとした。彼は判決が奴隷貿易抑制に深刻な障害となることを受容したが、この問題は海軍士官が彼らに許された行動を超越して解決すべきものではなく、国際条約を通じて改善されるべきものであると主張した。 1816年のアルジェ砲撃に際して、クイーン・シャーロットはエドワード・ペリュー提督の旗艦を務めた。 1817年9月17日にクイーン・シャーロットのテンダーボートリネット(Linnet)がタバコの密輸船を捕らえ、クイーン・シャーロットの士官と乗組員は拿捕賞金を獲得した。艦長が得た1等の分配金は101ポンド18シリング8ペニーで、一般水兵に配られた6等の分配金は8シリング2¼ペニーだった。
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「ロンドン (戦列艦・1766年)」の記事における「艦歴とエピソード」の解説
ロンドンは進水当初、当時の2等艦として標準であった大砲90門を備えていたが、後に後甲板に8門の12ポンド (5kg)砲を追加し98門艦となった。 この船はチェサピーク湾の海戦でトーマス・グレイブス提督の旗艦を務めていたことで知られる。また、1782年10月18日の作戦(en)ではフランスの74門艦シピオンに縦射され激しく損傷し、逃走することになった。
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「アトラス (戦列艦・1782年)」の記事における「艦歴とエピソード」の解説
アトラスは1798年から1802年にかけてテオフィルス・ジョーンズ艦長のもとで任務に就いた。1802年には74門艦に格下げされた。 1806年2月6日にはサミュエル・ピム艦長のもと、サン・ドミンゴの海戦 (en) に参加した。アトラスは戦死者8名、負傷者11名の損害を出した。 1808年にはカディス沖でパービス提督の旗艦を務めた。アトラスはフランスの砲台と何度も交戦し、合計で死傷者を50人ほど出した。また、この船はカタリナ要塞の破壊の任を帯びていた。 1813年12月から翌年1月にかけてアトラスはポーツマスで監獄船への再艤装を受けた。その後、1814年10月に余剰弾薬を保管する火薬庫への改造が決定され、この作業は1815年1月に終わった。 この船は最終的に1821年に解体された。
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「ブリタニア (戦列艦・1682年)」の記事における「艦歴とエピソード」の解説
ブリタニアはチャタム工廠においてフィネアス・ペット2世の手で建造され、1682年に進水した。1705年には神聖ローマ皇帝カール6世を乗せてカタルーニャへの航海を行った。 1715年にブリタニアには分解が命じられウリッジ工廠で再建造が行われた。そして、1719年10月30日に再び100門1等艦として進水した。また、1734年から1736年にかけて、3代準男爵タンクレッド・ロビンソンが艦長としてこの船を指揮していたことでも知られている。 1745年からブリタニアは港に係留され、1749年に解体された。
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「ロイヤル・ジョージ (戦列艦・1788年)」の記事における「艦歴とエピソード」の解説
ロイヤル・ジョージはグロワ島の海戦でイギリス艦隊の旗艦を務め、また栄光の6月1日では後衛戦隊を指揮したアレグザンダー・フッド提督の座乗艦として将官旗をかかげた。 1805年7月にはチャタム工廠で再建造が行われた。翌年1806年7月には現役に復帰し、海峡艦隊に配備された。しかし、この年ロイヤル・ジョージがドックを出ていたのは7月の間だけだった。1807年1月から1811年1月まで、ロイヤル・ジョージは主にカディス港封鎖任務に就いた。1807年3月のイギリスによるアレキサンドリア遠征においてはジョン・ダックワース提督の旗艦となった。 1814年7月に予備艦となり、1822年2月にプリマスで解体された。
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「ヴィル・ド・パリ (戦列艦・1764年)」の記事における「艦歴とエピソード」の解説
1778年にフランスがアメリカ独立戦争に参戦すると、ヴィル・ド・パリはブレストで任務に就き、ド・グッシェン提督の艦隊で旗艦を務めた。この年の7月には、ド・グッシェン提督の座乗艦としてドルヴィリュー伯爵ルイ・ジロー提督の指揮のもと、決定的でない第一次ウェサン島の海戦を戦った。 1781年3月には、ド・グラス提督の旗艦として20隻の戦列艦を従え、西インド諸島への航海を行った。そして、そこでフォート・ロイヤルの海戦、チェサピーク湾の海戦、セント・キッツの海戦といった数々の海戦に参加した。 1782年4月12日のセインツの海戦において、旗艦ヴィル・ド・パリは重大な損傷を負い、ド・グラス提督共々ジョージ・ロドニー提督のイギリス艦隊に降伏し、捕獲された。この海戦はフランス艦隊の敗北に終わった。 1782年9月、ヴィル・ド・パリはニューファンドランド沖で、グレーブズ提督の艦隊の一員としてイギリス本国に戻る航海の途中、強力なハリケーンに巻き込まれて沈没した。乗組員は1人を除いて全員犠牲となった。この船はイギリス海軍がアメリカ独立戦争で失った20隻の船の1隻となった。 1795年、イギリス海軍はこの船にちなんで、戦列艦ヴィル・デ・パリスを進水させた。
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「チャールズ (戦列艦・1668年)」の記事における「艦歴とエピソード」の解説
チャールズはデットフォード工廠のクリストファー・ペットによって建造が進められ、1668年3月の彼の死後、ジョナス・シスの手によって同月に進水した。 この船の名前は厳密には2代目だが、特に1673年の同時期にロイヤル・チャールズが進水してからは、単にチャールズとして一般には知られている。 チャールズは1687年にセント・ジョージ(HMS St George)と改名され、2等戦列艦に分類し直された。また、1699年から1701年にかけてポーツマス工廠で90門2等戦列艦として再建造された。1707年にはクラウズリー・ショヴェル提督の艦隊に所属した。バークレー伯ジェームズ艦長の指揮下で、失敗したトゥーロン包囲戦に参加し、ショヴェルと4隻の艦船が失われたシリー諸島での海軍大難破にも居合わせた。この海難事件では2等艦アソシエーション、3等艦イーグル、4等艦ロムニー、 火船のファイアブランドと2000人にも及ぶ水夫が失われた。セント・ジョージもシリー諸島の岩に乗り上げたが、辛くも脱出した。 セント・ジョージは1726年に再び再建造のためにポーツマスで分解された。そして、1733年9月4日にセント・ジョージを1719年の寸法規定から1733年提案の寸法規定に沿うように再建造が命じられた。再進水は1740年4月3日に行われた。 セント・ジョージは最終的に1774年9月に解体された。
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「デューク (戦列艦・1777年)」の記事における「艦歴とエピソード」の解説
デュークは1778年4月にウィリアム・ブレントン艦長のもとで就役した。同年7月27日には第一次ウェサン島の海戦に参加した。 1780年3月、ポーツマスで船底に銅板を貼った。 この船は1783年6月に予備役となり、1799年から港湾業務に用いられた後、1843年に解体された。
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「オーシャン (戦列艦・1761年)」の記事における「艦歴とエピソード」の解説
オーシャンは1761年4月にウィリアム・ラングドン艦長のもとで就役した。そして、当初エドワード・ホーク提督の指揮する艦隊に配備された。しかし、ホークに必要な戦力としては過大であると見なされたため、1763年3月にプリマス工廠へ戻り予備役とされた。オーシャンは1769年に小規模な修理を受けたものの、その後7年間港に留め置かれた。 オーシャンは1770年10月に、スペイン・フランスとのフォークランド諸島での危機に伴い、イギリス海軍を強化するためジェームズ・クランストンを艦長として再就役した。結局この危機では戦闘は起こらず、オーシャンはプリマスに戻った。帰港後、オーシャンは港の警備艦に改装され、ジョセフ・ナイト艦長のもとで任務を行った。1772年に港湾司令官リチャード・スプライの旗艦となり、近海警備や翌1773年に行われた観艦式への参加を行った。ナイト艦長は1774年にこの船を退艦し、ジョン・レイノルドが短期間艦長として着任したが、すぐにジョン・ラフォレイ艦長と交代した。ジョン・ラフォレイ艦長は1776年3月にエドワード・レ・クラ艦長に代わったものの、同年12月に再び同艦に復帰した。 この船は、1793年に退役し、売却された。
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「サンドウィッチ (戦列艦・1759年)」の記事における「艦歴とエピソード」の解説
1780年、サンドウィッチはジョージ・ロドニー提督の旗艦としてサン・ビセンテ岬の月光の海戦を戦った。 その後すぐ改装され、浮き砲台として用いられた。1790年からは港に係留された。 1797年のノアの反乱において、サンドウィッチは反乱の首謀者とされるリチャード・パーカーによって旗艦とされた。そして反乱鎮圧後は、首謀者達を吊るす場として使われた。 この船は、1810年2月に解体された。
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「プリンス (戦列艦・1788年)」の記事における「艦歴とエピソード」の解説
プリンスはその艦歴で僅かな作戦にしか参加しておらず、これはある艦長によると「まるで干し草の山のよう」と形容された鈍重さと帆走性能の低さに原因があったと見られている。 この船は1790年7月にジョサイア・ロジャーズ艦長のもとでジョン・ジャーヴィス提督の旗艦となった。しかし同年12月に予備役とされプリマスで係留された。1793年2月に現役艦に復帰し、カスバート・コリングウッド艦長のもとでジョージ・ボウヤー提督の旗艦となった。1794年1月には再び任務から外された。 フランス革命戦争期にも即座には任務には就かず、1794年4月にポーツマスで予備役とされた。そして、1796年には船体の延長が行われた。 1805年にプリンスはリチャード・グリンドール艦長のもとで海峡艦隊に配備された。そして同年10月トラファルガーの海戦に参加した。この海戦において、プリンスは2~3マイルを2時間かけて通過し、戦闘に突入した。この船が戦場に到着した頃には海戦の大勢は既に定まっており、プリンスはスペイン艦隊旗艦プリンシペ・デ・アストゥリアスとフランス艦アシレに砲撃を行った。アシレは出火から火薬に誘爆し、沈没した。プリンスは近くのイギリス艦とともにボートを出し、生存者を救出した。プリンス自身が攻撃されることはなく、目立った損害も被らなかった。戦闘後、嵐が両軍を襲い、プリンスは戦闘と嵐で傷つき航行不能となった船を牽引できる貴重な艦となった。 この船は、ポーツマスで係留され、1837年に解体された。
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「グローリー (戦列艦・1788年)」の記事における「艦歴とエピソード」の解説
グローリーは1805年にサミュエル・ワーレン艦長のもと、チャールズ・スターリング提督の旗艦としてフィニステレ岬の海戦に参加した。 この船は1809年に監獄船に改造され、1825年に解体された。
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「インプレグナブル (戦列艦・1786年)」の記事における「艦歴とエピソード」の解説
インプレグナブルは1787年10月にトマス・プリングル艦長のもとで就役した。1788年からはプリマスで警備艦として用いられ、港湾司令官のトマス・グレーブス提督の旗艦となった。1790年5月には海峡艦隊に派出された。 フランス革命戦争期になると、この船はベンジャミン・コールドウェル提督の旗艦として、栄光の6月1日に参加した。
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「ブリタニア (戦列艦・1762年)」の記事における「艦歴とエピソード」の解説
ブリタニアは1778年9月に試験航海を行い、アメリカ独立戦争中に就役した。1793年から1795年にかけて、海軍中将ウィリアム・ホザム提督の旗艦を務めた。さらに1797年のサン・ビセンテ岬の海戦や、1805年のトラファルガーの海戦に参加した。トラファルガーの海戦ではノーセスク伯で白色海軍少将のウィリアム・カーネギーの将官旗を掲げた。この海戦でブリタニアは戦死10人、負傷42人を出した。そして翌1806年にプリマスで修理と整備のためドック入りした。 また、この船は改名が多かった。1810年1月6日にプリンセス・ロイヤル (HMS Princess Royal) となり、1812年1月18日にはセント・ジョージ (HMS St. George) 、そして1819年6月2日にはバーフラー (HMS Barfleur) と名前が変わった。 ブリタニアはアメリカ海軍のフリゲート、コンスティチューションの前に「オールド・アイアンサイズ(en)」として知られていた。 この船は、1825年2月にプリマスで解体された。
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